第47話:陽動
「投降するよ。でも、条件がある」
ナユタは両手を上げながら言った。
「僕を捕らえろ。でも、この二人には手を出さないでくれ。手配書に載っているのは僕と朱音さんだけで、その子は関係ないはずだ」
景虎は冷たく見返した。
「交渉の余地はないと言ったはずだ。私たちの目的は、貴様らの捕縛と、その娘の回収、そして書状だ」
「書状なら、ここにある」
ナユタは懐から、あの文箱を取り出した。
景虎の視線が、わずかに箱へと動く。
「中身を確認させてもらおう」
「いいよ。でも、受け取るのはあんた自身だ。部下には渡さない」
ナユタは文箱を軽く放り投げた。
景虎はそれを片手で受け止める。その瞬間だった。
「今だ!」
ナユタの叫びと同時に、朱音が地面の石畳を全力で蹴り砕いた。
凄まじい砂埃と石の破片が路地に舞い上がり、射手たちの視界を一瞬だけ奪う。
だが、景虎は動じない。彼は片手で顔を覆いながらも、もう一方の手で文箱をしっかりと抱え込み、後退した。
「小賢しい真似を。射て!」
景虎が命令を下そうとしたが、その直前。
彼の手の中にある文箱から、シューという音と共に、強烈な刺激臭を放つ煙が噴き出した。
「な……ッ!?」
景虎が初めて驚きの声を上げた。
彼が反射的に箱を手放すと、箱は地面で小さな爆発を起こし、周囲一帯を真っ白な煙で覆い尽くした。
「発煙筒だ」
ナユタは煙の中で呟いた。
現代の知識を応用し、雪山で見つけた硫黄や硝石の代用品、そして松脂を調合して文箱の中に仕込んでおいたのだ。本物の書状は、ナユタの着物の裏地に縫い付けてある。
「ゲホッ……! 怯むな! 包囲を縮めろ!」
兵士たちが咳き込みながらも陣形を維持しようとする。彼らの訓練度は異常だった。
だが、ナユタの狙いはただの目眩ましではない。
煙の向こう側、町の大通りから、けたたましい叫び声が聞こえてきた。
「火事だァ! 役所の蔵が燃えてるぞォォ!」
景虎の表情が、煙の中で険しくなった。
ナユタたちが宿を抜け出す前、スイの指示で、朱音が離れた場所にある役所の蔵に密かに火種を放り込んでいたのだ。
「法と秩序を守るのがあんたたちの仕事だろ?」
ナユタの声が、煙の向こうから響く。
「反逆者三人を追うか、町の中心部への延焼を防ぐか。……合理的に判断してくれ、景虎殿」
「……おのれ」
景虎はギリッと奥歯を噛んだ。
町が燃えれば、治安維持の責任者である彼の致命的な失態となる。個人の感情ではなく、システムの論理として、彼は火消しを優先せざるを得ない。
「半数は残れ! 残りは私に続け、消火にあたる!」
景虎が反転し、走り去っていく。
包囲網が薄くなったその一瞬を突き、ナユタたちは残った兵士たちの隙間を抜け、煙に紛れて町からの脱出路へと駆け出した。
頭脳と機転、そして敵の「正しさ」を利用した陽動作戦。
薄氷を踏むような勝利だったが、彼らはまた一つ、死線を乗り越えた。
町の外へ向かう夜道、三人の背中に、遠くで燃える火事の明かりが揺れていた。




