第44話:反撃
夜明け前。
完全な静寂に包まれた雪山を、黒い影の集団が音もなく進んでいた。
景虎が率いる検非違使の精鋭たちだ。
「足跡が途切れています。この先の谷へ向かったか、あるいは……」
部下の報告に、景虎は冷徹な視線を周囲に向けた。
「雪で足跡を消したつもりだろうが、体温の痕跡やわずかな枝の折れまでは隠せまい。索敵を広げよ。必ず娘と書状を回収する」
彼らに焦りはない。
法という絶対の正義を執行するための、完璧な歯車。それが彼らだった。
しばらく進むと、視界が開け、深い谷にかかる古い吊り橋に行き当たった。
その橋の中央に、人影が一つ立っていた。
ナユタだ。
「……愚かな。逃げ場を失って自暴自棄になったか」
景虎が片手を上げると、部下たちが一斉に弓を構えた。
だが、ナユタは逃げる素振りも見せず、懐から例の文箱を取り出した。
そして、箱の中から葵の紋が入った書状を抜き出し、谷底の虚空へと突き出した。
「止まれ!」
ナユタの声が、冷たい空気を切り裂いた。
「これ以上近づけば、この手紙を谷底に捨てる。あんたらの任務は『書状の回収』だろ?」
弓を構えていた兵士たちの動きがピタリと止まった。
景虎が眉一つ動かさずに一歩前に出る。
「脅しのつもりか。それを捨てれば、貴様らと交渉する余地も消える。確実に死ぬぞ」
「交渉なんて最初からする気はないよ。あんたたちみたいな、心のない人間とはね」
ナユタは書状を持った指の力を少しだけ緩めた。
ヒュオオオと吹き上がる谷底からの風が、書状の紙片を揺らす。
景虎の目が、わずかに細められた。
「……貴様の要求は何だ」
「簡単なことだ。僕たちを追うのをやめろ。そうすれば、手紙はどこかの石の下にでも隠してやる」
景虎は沈黙した。
朱音の能力が効かない彼にとって、恐れるものは何もない。しかし、任務の失敗だけは「法」に背く行為であり、絶対に避けなければならない。
感情がないからこそ、彼は最も合理的な「損得勘定」で動く。
ナユタは、景虎のその絶対的な行動原理の隙を突いたのだ。
「無駄な時間稼ぎだ」
景虎が刀の柄に手をかけた瞬間。
吊り橋の対岸の崖上から、巨大な雪の塊が滑り落ちてきた。
いや、自然の雪崩ではない。
「……ナユタくんの言う通り。心がない奴は、動きが読みやすくて助かるよ」
崖の上に立っていた朱音が、巨大な岩盤ごと雪を蹴り落としたのだ。
それは景虎たちを狙ったものではない。
彼らが立っている、谷岸の地盤そのものに向けられた質量攻撃だった。
ズドォォォン!!
轟音と共に、景虎の周囲の地面が大きく崩落した。
「チッ……! 退避しろ!」
景虎が初めて声を荒らげる。
彼がどれほど武術に長けていようと、足元の地面がなくなればどうしようもない。朱音の能力は彼に直接効かなくとも、環境を破壊することはできる。
兵士たちが崩れる雪と土砂に巻き込まれ、後方へと散り散りになる。
その隙に、ナユタは書状を懐にしまい、吊り橋を駆け抜けた。
対岸で待っていたスイの手を引き、朱音と合流する。
「ざっとこんなもんさ。法だか何だか知らないけど、大自然の重力には勝てないでしょ」
朱音が崩れゆく対岸を見下ろして笑った。
「急ごう。あいつらなら、すぐに迂回して追ってくる」
ナユタの言葉に二人が頷く。
正面突破も魔法のような解決もない。あるのは、知恵と地の利を活かした泥臭い抵抗だけだ。
国家権力という巨大な理不尽に対する、三人の壮絶な鬼ごっこは、まだ始まったばかりだった。




