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第43話:原点

吹雪の夜の森を抜け、三人はようやく見つけた岩穴に身を潜めていた。

追手の気配はないが、気は抜けない。

ナユタは拾い集めた枯れ枝で小さな焚き火を起こし、震えるスイの肩に自分の上着をかけた。


「……あにさまの服、不思議な形」


火の温もりに少し落ち着いたのか、スイがナユタの着ているパーカーの生地を撫でて言った。


「ずっと気になってた。あにさまは、どこから来たの?」


スイの純粋な問いに、ナユタは焚き火の炎を見つめた。

どこから来たのか。

それは時間という概念を超えた、遠く、ひどく息苦しい場所だ。


「……ここから、ずっと遠い未来の国だよ」


「未来?」


「うん。そこには、景虎みたいな兵士も、黒斑病もない。誰もが文字を読めて、戦もない。そういう意味では、安全な世界だった」


ナユタの言葉に、スイは目を丸くした。

だが、その隣で壁にもたれかかっていた朱音が、ふっと自嘲するように笑った。


「安全だけど、心は死んでる世界だったね」


「……そうだね」


ナユタは膝を抱えた。

炎の揺らめきが、彼の脳裏に、かつて自分が生きていた「現代日本」の景色を映し出していく。

彼はあの世界で、ずっと息が詰まりそうだったのだ。


ナユタがいた世界。現代の学校。

そこは、物理的な暴力こそないものの、見えない鎖でがんじがらめにされた牢獄だった。


ある日の教室。

クラスの端で、一人の気弱な生徒が、グループの中心にいる生徒たちに「いじり」という名の陰湿な嫌がらせを受けていた。

教師は気づいているのに、面倒を避けて見て見ぬ振りをする。

他の生徒たちも、標的が自分に向くのを恐れて沈黙している。


『やめろよ』


ナユタは立ち上がった。

理不尽だと思った。誰も悪くない彼が、なぜ笑い者にされなければならないのか。


だが、ナユタのその正義感は、圧倒的な「空気」の前にすり潰された。

『なんだよ、空気読めよ』

『正義の味方気取り? 痛いね』


その日から、標的はナユタに変わった。

机に書かれた落書き。無視。教師の冷ややかな目。

誰も助けてくれない。助けたはずの生徒でさえ、ナユタから目を逸らした。


誰も自分が悪だとは思っていない。

波風を立てないことが「賢い生き方」とされ、理不尽に怒る者は「厄介者」として排除される。悪意さえない、ただの同調圧力という巨大な無関心。


ナユタは土砂降りの雨の中、学校の裏山をあてもなく歩いていた。

こんな世界、間違っている。

泥に足を取られながら、ナユタは山の奥深くにある、古びた廃神社へとたどり着いた。

そこには、注連縄が巻かれた巨大な岩が鎮座していた。


『ふざけるな……ッ!』


ナユタは岩を殴りつけ、雨空に向かって叫んだ。

弱い者が泣き寝入りし、狡賢い者が笑う世界への、純粋で、行き場のない強烈な怒り。

その熱量が、ナユタの魂を激しく焦がした。


その時だった。

殴りつけた岩に、ピキリ、と亀裂が走ったのは。

青白い光が漏れ出し、雨粒が空中で静止する。

岩が砕け散り、そこから一人の少女が現れた。

蒼い瞳、時代錯誤な着物。そして、彼女の周囲だけ、雨が一切降り注いでいない。


『……うるさいね。千年ぶりに起きてみれば、ずいぶんと騒々しいガキだ』


少女、朱音は冷ややかな目でナユタを見下ろした。


『私は鬼。大昔の人間どもに、この石の中に封じられていた厄介者さ。……で? お前が私の封印を解いたのか?』


朱音はナユタの胸ぐらを掴み上げた。

だが、次の瞬間、彼女の目が驚きに見開かれた。


『……なんだ、この熱は』


朱音はナユタの胸の奥深く、その魂の輝きを覗き込んでいた。

現代社会という冷たい水の中で、決して消えることなく燃え盛る、理不尽に対する強烈な「義憤」。


『お前の怒り……すごく純粋で、熱い。こんな透明な怒りを持った人間、千年前にもいなかった』


朱音の手から力が抜け、ナユタは地面に落ちた。

彼女は周囲の景色を見渡した。遠くに見える現代都市の夜景、コンクリートの建物。


『息苦しい世界だね。……見えない鎖が、空までびっしり張り巡らされてる。でも、この世界の人間は「自分が悪に加担している」という自覚すらない。……私の力じゃ、この世界の鎖は壊せない』


朱音は退屈そうに空を仰いだ。

その時、封印が解かれた反動で、廃神社の空間が大きく歪み始めた。

空間に亀裂が入り、その向こう側に、泥臭く、血の匂いがする別の時代、平安の世の景色が渦を巻いていた。


『時空の穴が開いた。私は帰るよ。私が生まれた、あの混沌とした時代に』


朱音は亀裂へと歩き出し、そして振り返った。


『少年。……お前、この世界で窒息して死ぬ気か?』


ナユタは顔を上げた。

学校に戻れば、またあの冷たい沈黙と孤立が待っている。

一生、壁の影に隠れて生きていくのか。


『それとも……私の世界に来るか?』


朱音が手を差し出した。


『あっちの世界の理不尽は、目に見える。暴力、貧困、搾取。……お前のその熱い怒りがあれば、私と一緒に、あの腐った時代を物理的にぶち壊せるかもしれないよ』


それは悪魔の誘いか、それとも救済か。

ナユタは迷わなかった。

理不尽を前にして何もできない自分を、もうやめたかった。


『……行く』


ナユタは朱音の手を強く握り返した。

その瞬間、二人は時空の渦へと飲み込まれ、現代の雨の景色は完全に消え去った。


「……っていうのが、僕がこの時代に来た理由」


洞窟の中。

焚き火の炎がパチパチと爆ぜる音で、ナユタは我に返った。

スイは、少し泣きそうな顔でナユタの話を聞いていた。


「あにさまは……自分の世界でも、戦ってたんだね。誰かのために」


「戦えてなかったよ。負けて、逃げ出したんだ」


ナユタは自嘲気味に笑った。

だが、朱音が目を閉じたまま、静かに口を開いた。


「逃げたわけじゃない。戦う場所を変えただけだ。……お前のその熱量は、あの冷たい世界じゃ持て余す」


朱音は薄く目を開け、ナユタを見た。


「あの時、お前の怒りに共鳴したから、私は目覚めた。お前は私の枷を外し、私はお前をあの牢獄から引っ張り出した。私たちは共犯なんだよ」


その言葉に、ナユタの胸の奥が温かくなった。

自分は一人じゃない。この理不尽な世界で、同じ怒りを共有し、共に立ち向かってくれる仲間がいる。

そして今、守るべき小さな家族も増えた。


「……ありがとう、朱音さん。スイ」


ナユタは立ち上がり、洞窟の入り口から外を見た。

雪は止み、雲の隙間から冷たい月光が差し込んでいる。

景虎の追手は、必ず迫ってくる。法の執行者という、心を持たない巨大な壁。


「僕たちは間違ってない。あの冷たい世界でも、この過酷な時代でも、誰かが泣き寝入りするのを許しちゃいけないんだ」


ナユタの瞳に、再び強い意志の光が宿った。


「行こう。夜が明けたら、反撃の準備だ。……あの機械みたいな役人に、人間の意地を見せてやる」


朱音が立ち上がり、スイが力強く頷く。

時空を超えた三人の絆は、かつてない強敵を前にして、より一層強く結びついていた。

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