第42話:逃奔
「終わりだ。おとなしく娘と書状を渡せ」
景虎の刀が、朱音の急所を狙って空を裂く。
朱音は防御に徹するが、防戦一方だ。兵士たちもナユタとスイの逃げ道を完全に塞いでいる。
(どうする……何か、手はないのか!)
ナユタは周囲を見回した。
現代の知識。戦術。何か使えるものはないか。
囲炉裏の火。灰。宿の古い柱。
「……あにさま」
スイが、ナユタの背中を指でトントンと叩いた。
彼女は囲炉裏の上に吊るされた、巨大な自在鉤とその上にある太い梁をじっと見上げていた。
「あの木……中が空っぽ。虫が食べてる」
スイの目には、建築物の構造的な弱点すら見えていた。
「これだ!」
ナユタは即座に動いた。
囲炉裏の灰を両手で力いっぱい掬い上げ、景虎と兵士たちの目掛けて豪快に撒き散らした。
「目眩ましか。浅はかな」
景虎が袖で灰を払う。
その一瞬の隙。
「朱音さん! あの梁を!」
ナユタの叫びに、朱音が反応した。
彼女は景虎の刀を避け、跳躍する。
狙うのは敵ではない。スイが見抜いた、虫に食われて脆くなっていた天井の巨大な梁だ。
「せいッ!」
朱音の蹴りが、梁の急所にクリーンヒットする。
メキョ、バキバキバキィッ!
建物を支えていた要の柱が砕け、宿場全体のバランスが崩壊した。
大量の瓦礫と屋根土が、景虎たちの上に降り注ぐ。
「チッ……退け!」
景虎が初めて舌打ちをし、兵士たちに後退を命じた。
その混乱に乗じて、ナユタたちは裏口の壁を朱音に蹴破らせ、吹雪が残る夜の闇へと飛び出した。
「走って!」
ナユタはスイの手を引き、朱音と共に林の中を駆け抜ける。
背後で建物が完全に倒壊する轟音が響いたが、景虎たちがこれで死ぬとは思えない。必ず追ってくる。
「……あにさま、ごめんなさい」
走りながら、スイが泣きそうな声で言った。
自分が一緒にいるせいで、彼らが追われることになったと気づいているのだ。
「謝らないで。スイの秘密が何であれ、僕たちは君を手放さない」
ナユタは息を切らしながらも、力強く言った。
孤児を救うだけの旅は終わった。
彼らは今、この国の法と秩序を司る巨大な権力を敵に回したのだ。
「……面白くなってきたじゃないか」
朱音が、少しだけ楽しそうに笑った。
その目は、かつてない強敵の出現に、鬼としての本能を昂らせていた。
逃避行の果てに、何が待つのか。
国家という巨大な「理不尽」を前に、三人の本当の戦いが幕を開けた。




