第30話:慈悲
「やめなさい、あなたたち」
カガリが静止すると、村人たちはピタリと止まった。 彼女は暴力で従わせているのではない。彼らにとって彼女は、心の痛みを消してくれる唯一の「薬」であり、依存の対象なのだ。
「力ずくで従わせるのは、野暮ですね。……それに、あなた」
カガリは朱音を見た。
「あなたは強すぎる。私の可愛い子供たち(村人)が壊れてしまう」
「よく分かってるじゃん」
朱音は腕を組み、挑発的に笑った。
「なら、どうする? 私とやる?」
「いいえ。……取引をしましょう」
カガリは、懐から小さな香炉を取り出した。 そこから、甘い、どこか懐かしい香りの煙が立ち上る。
「この煙は『夢現』。吸い込めば、一番幸せだった頃の記憶を見せてくれる。……もし、あなたたちがその誘惑に打ち勝ち、正気を保てたら、この村から出してあげましょう」
「断ると言ったら?」
「村人全員で、死ぬまであなたたちを引き留めますよ。……罪のない彼らを、皆殺しにしますか?」
卑怯だ。 だが、彼女にとってはそれも「愛」なのだろう。
「いいよ。乗った」
ナユタが即答した。 朱音が驚いた顔をするが、ナユタは彼女の手を握った。
「大丈夫。僕たちは、過去よりも今を生きてる。思い出なんかに負けない」
「……ふふ、生意気」
朱音はナユタの手を握り返し、ニッと笑った。
「分かった。ただし、ナユタくんが負けてボケっとしたら、私が頬っぺた抓って起こすからね」
「始めましょう」
カガリが香炉を振る。 紫色の煙が部屋を満たし、三人の視界を奪っていく。
甘い記憶。 ナユタが見たのは、現代の日本の風景だった。 エアコンの効いた部屋、スマホ、コンビニ、平和な学校生活。 何の心配もなく、ただ惰性で生きていける世界。 「戻っておいで」と、誰かの声がする。
(……楽だな)
確かに、ここは地獄だ。 風呂もない、ネットもない、毎日が命がけ。 でも。
(でも、ここには……)
ナユタの脳裏に、泥だらけで笑うスイの顔が浮かぶ。 不器用だけど頼もしい、朱音の背中が浮かぶ。 そして、旅先で出会った、理不尽に抗う人々の熱量が。
「……悪いけど」
ナユタは煙の中で目を開けた。
「僕の居場所は、あそこじゃない。……この、泥臭い『今』だ!」
ナユタが手を振ると、煙が晴れた。 隣には、同じく目覚めた朱音とスイがいる。 朱音は少し涙目だったが、ナユタと目が合うと、照れくさそうに顔を背けた。
「……昔の飼い猫に会えただけだし。別に泣いてないし」 「はいはい」
三人が正気を保っているのを見て、カガリの表情が初めて凍りついた。
「な、なぜ……? 辛いはずです。現実は、苦しいはずです!」 「苦しいよ。痛いし、辛い」
ナユタはカガリに歩み寄った。
「でも、その痛みがあるから、人は優しくなれるんだ。……あんたが奪ったのは『苦しみ』じゃない。人が人として生きるための『強さ』だ!」
「強さ……」
カガリが後ずさる。 彼女の「善意」という名の支配が、ナユタの言葉によってヒビ割れていく。
「朱音さん!」
「任せな!」
朱音が跳躍し、カガリの手から香炉を弾き飛ばした。 香炉が地面に落ちて砕ける。
「終わりだよ、過保護なママさん」
朱音はカガリに指を突きつけた。
「アンタの罪は、人を弱くしたことだ。……その『甘やかし』の重さ、アンタ自身が背負いな」
【重罪・慈愛縛】
カガリの体が、ふわりと浮き上がったかと思うと、見えない真綿で締め付けられるように動きを封じられた。 痛くはない。苦しくもない。 ただ、何もできない「無力な赤子」のように、彼女はただ座り込むことしかできなくなった。
「あ、ああ……私の子供たちが……」
カガリが涙を流す。 術が解け、村人たちが我に返り始めた。 彼らは戸惑い、やがて自分が失っていた記憶――辛い過去と、それを乗り越えてきた自分自身を思い出し、泣き崩れたり、叫んだりした。
村は騒然となった。 だが、その喧騒こそが、人間らしい「生」の音だった。
「……行こう」
ナユタたちは、カガリを残して村を去った。 彼女を殺す必要はない。 彼女はこれから、自分の無力さと向き合いながら、本当の意味で村人と対話していくことになるだろう。
帰り道、朱音が珍しく上機嫌で鼻歌を歌っていた。 ナユタが「何の歌?」と聞くと、彼女は顔を真っ赤にして黙り込んだ。 どうやら、煙の中で見た「幸せな記憶」に関係があるらしい。
「秘密!」
朱音はべーっと舌を出して、先へと駆け出した。 その背中は、以前よりも少しだけ軽やかに見えた。




