第1話:邂逅
腐敗臭が鼻をつく。 現代の都市では決して嗅ぐことのない、生ゴミと泥、そして死の臭いが混ざり合った強烈な臭気。 ナユタは、胃の腑からせり上がってくるものを必死に飲み込んだ。
ここが、平安京。 教科書で見た「雅」な世界はどこにもなかった。 目の前にあるのは、巨大な廃墟だ。 かつて都の威容を誇った「羅生門」は見る影もなく朽ち果て、崩れた柱の隙間には、行き倒れの遺体が積み上げられている。 空は鉛色に淀み、カラスの鳴き声だけが不吉に響き渡っていた。
ナユタがこの時代に迷い込んでから、数日が過ぎようとしていた。 現代日本の日常から、唐突に暴力と飢餓が支配する世界へと放り出されたのだ。 通り過ぎる人々は皆、痩せこけ、虚ろな目をしている。 彼らはナユタの服を見ても関心すら示さない。誰もが自分の生存だけで精一杯なのだ。
「誰か……お慈悲を……」
道端で物乞いをする老婆の前を、貴族の牛車が泥を跳ね上げて通り過ぎる。 誰も助けない。誰も見ない。 それが、この時代の「当たり前」だった。
(僕に何ができるっていうんだ)
ナユタは羅生門の柱の陰で膝を抱えた。 ただ息を殺し、誰にも見つからないようにして、元の世界に戻る方法が見つかるのを待つしかない。そう自分に言い聞かせていた。
その時だった。
「おい、隠すなよババア。そこに壺があるだろう?」
下卑た声が響いた。 門の下で、先ほどの老婆が男たちに囲まれていた。 検非違使。治安を守るはずの役人たちだが、その目は獲物を狙う獣のようだ。
「ひぃ、お助けを……! これは孫娘の薬代で……!」 「うるさい。『通行税』だ。金がないなら、その孫娘を置いていけ」
男が老婆の杖を蹴り飛ばす。老婆は泥水に倒れ込み、背中の幼い少女が悲鳴を上げた。 周囲の通行人は、顔を伏せて足早に通り過ぎていく。 関われば巻き込まれる。正義感など出せば、次は自分が泥をすすることになる。
(……僕も、行かなきゃ)
ナユタは拳を握りしめた。 見ちゃいけない。現代でもそうだった。自分を守るために、見て見ぬふりをしてきた。 ここで飛び出したって、殺されるだけだ。
『助けて』
少女の瞳が、ナユタの方を見た気がした。 絶望に染まった、光のない瞳。
ドクン、と心臓が跳ねた。 この時代に来て、何もかもが変わった。 でも、「強い者が弱い者を踏みにじる」という理不尽だけは変わらない。 それを見過ごす自分も。
(嫌だ……ッ!!)
恐怖で足がすくむ。それでも、ナユタの体は動いていた。
「やめろぉぉぉッ!!」
ナユタは飛び出し、少女を掴んでいた男へ体当たりをした。 「ぐわっ!?」 不意を突かれた男がよろめく。ナユタは老婆と少女の前に立ちふさがった。
「な、なんだ貴様は!?」 「恥ずかしくないのかよ! 寄ってたかって、弱い人をいじめて……!」
声が震える。涙目で、足はガクガクしている。 目の前には抜き身の刀。勝てるわけがない。 それでもナユタは叫んだ。
「法律とか身分とかどうでもいい! 弱い人から奪ってヘラヘラ笑ってるなんて、人として最低だろ!!」
男たちが顔を見合わせ、下卑た笑いを浮かべる。 「……ケッ。狂人か」 男がゆっくりと刀を振り上げた。 「死ね」
無慈悲な刃が振り下ろされる。 ナユタは目を瞑らなかった。逃げない。もう二度と、自分の心から逃げない。 たとえここで死ぬとしても、最期までこの理不尽を睨みつけてやる。
風切り音が耳元に迫る。 死が、頭蓋を砕く寸前。 古いほこらの扉が、内側から弾け飛ぶ音がした。




