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オルランの一人ぼっち  作者: 矢部涼
8/11

8.袋小路

「においがする。フィーの背中」


 いつもの丁寧な口調ではない。そこでウィルにも、彼女が夢の中で昔に戻っているのだと察せられた。

 フィーリタは少し黙ってから、ルイシーナを抱え直す。


「はい、フィーリタです。お嬢様」

「よかった。夢、だったんだ」

「何が、ですか?」


 ルイシーナは、褐色の首元に鼻を擦りつけている。

「フィーが、わたしを、きらいになっちゃう夢。ずっと、寂しかった。わたしの家族は…、フィーだけだから」


 足の運びが、少しだけ乱れた。


「はい、はい……。申し訳ありません。私は、愚かでした。くだらない意地を張っていました。お許しください、お嬢様。私は本当に……」


 ウィルと共に戦ってきた凛々しいアルヴは、ここで初めて頬を濡らしていた。本当は立ち止まって、ルイシーナを正面から抱きしめたいとでも言いたげな表情をしている。だが同時に、その瞳はより強固に燃えるようになった。ウィルはなぜか、それに胸騒ぎを覚える。


「でもね、ちょっと違うの」

「お嬢様?」


 目をやや開けていたが、まだ現にはいない。隣で走っている彼を見つけても、どうとも思っていない様子だった。ただ、より笑みが柔らかくなっていく。


「学園にね、面白いのがいるの。可愛いヒトなの……。フィーにも、会わせたいな。それでね、ウィルとフィーと一緒に、皆でどこかに行くの。何も苦しくない、遠い所に行くの」


 優しい視線を、フィーリタはしっかりと向けてくる。


「それは、良いですね。多分私は…、そのウィルという男子を気に入ると思います。とても、楽しみです」

「うれしいな。ほんとに、ぜんぶ夢だったんだ。よかった。よかった……」


 ルイシーナは、再び意識を失った。

 今だけは、あらゆる嫌な感情も忘れていられる。ウィルは決意を新たにしていた。たとえどんなに時間がかかろうとも、どれだけ過去で苦労しようとも、ルイシーナを救う。彼女がこぼしたことを、皆で拾い上げられるよう全力を尽くすのだ。

 ここまで戦ってきて、ウィルもフィーリタも体力をかなり消耗しているはずだった。しかし、今までで最速の走りを行っている。彼らは、一時的に疲労を忘れたようだった。決して近くはない、オルランへと続く界壁に、ごく短い時間で到達していた。

 周辺は、開けた平原になっている。界壁とその界結道の近くには、できる限り何も置かないことが推奨されていた。もし何かの拍子で向こう側から何かが来たり、こちらのものが向こうに行ったりした時に、事故がないようにするためだ。

 界壁は、まるで巨大な鏡のようだった。正面の風景を、そのまま映している。向こう側の様子を探ることはできないようになっていた。少し動くと、その中にある像はやや歪み初め、奇妙な形を見せてくる。今は、その作品に見入っている時ではなかった。

 唯一の出入り口である界結道は、どこにも見えなかった。異常が起きている証拠だ。跳躍さえも否定する覆いのようなものが、界壁全体を変容させていると考えてよかった。

 ルイシーナをどう起こそうかと考え始めた時、急に声が聞こえてきた。


「お許しください、お許しください……」

「もー、だめだって。手間かけさせないでよー」


 横の森から、走り抜けた者がいる。それは、明らかにアルヴの長老だった。おぼつかない足取りで、何かから必死に逃げている。

 そして、あっという間にその下半身が斬り裂かれた。突如始まった殺害に、ウィルは構えることすらできない。なぜなら被害者と加害者の組み合わせが、全く予期していないものだったからだ。

 長老の頭を踏み潰してから、そのアルヴはウィルの方を向いてきた。無邪気そうな顔、流れるような金髪。


「ロメテ、失敗したんだ。使えないの」


 シシルは、まだ少女の様子を保っていた。だがその中身がどうなっているかは分からない。足からは、黒い気体が立ち上っている。彼にとっては、それが得体の知れない闇のようにも感じられた。

 声を変えることも忘れて、疑問が口に出る。


「どうして……」

「ウィルはさ、しわくちゃよりも、わたしみたいに若くて綺麗なのだけがいいでしょ? だから、こうしないといけなかったの」


 素性がばれていることよりも、相手の言葉の方が深く入り込んできていた。若いアルヴだけがいい。その考えが、色々なものへと結びついていく。年寄りが多い回帰主義者。若い世代と対立していなかったのに、毒沼の底へと埋められたアルヴ達。様々な行いが、やってきた男にとって都合がよさそうだからというだけの理由で、なされたのだとしたら。

 それはもう取り返しのつかないことだ。アルヴという種族は、底まで堕ちたということだ。

 フィーリタが緊迫した声で囁いてくる。


「あのシシルが、本当の長だ」


 歓迎会が始まる前、シシルとロメテが真っ先にウィルへと乗ってきたのも、ただ子供だからというだけの理由で許されたわけではなさそうだった。つまり彼女たちは純粋に、今のアルヴの中で最も高い立場にいたということ。

 最後の障害に対して、ウィルは容赦する気も起こらなかった。

 相手が構えたのを見て、シシルは余裕たっぷりに笑う。


「やめた方がいいよ。もう無駄だもん。わたしにはさ、」


 彼女の、首から上が消失した。

 いや、消えてはいない。一瞬で肉の破片に変わっただけだ。少しの間、シシルの体は倒れていかなかった。自分の命が消え失せたことを、まだわかっていないかのように。

 殴打は、おそらく上から落とされていた。実際にどう動いたのかはわからない。引き戻されていくその拳には、血がまるで付いていない。肉を割り、衝撃で中身を全て押し出した後、体液が付かないうちに拳を戻した。普通では到底考えられない速度の殴打だった。

 シシルの死体が倒れた直後、静かな着地が行われる。それは今までとは違い、派手な音をたてていなかった。その巨躯からは考えられないほど、繊細な制御が行われた。それを可能にさせているのが、六枚の白い翼だ。

 ウィルは、自分の足がまるで影にでも縫い付けられているかのように、動けないでいた。


「使うなと言っただろう」


 本物を目の前にして初めて、ギデオンに頼るという選択肢を捨てていたことに気がついた。それがなぜだったのかは、わからない。ルイシーナそのものを安易に助けられたら、時間軸が分裂するからか。あるいは。

 一度唾を飲み込んでから、慌てるようにして仮面を外した。


「俺だ。助かったよ」


 なぜかいつもの感じがしなかった。安心したような声を出したつもりだったのに、すぐにかすれて消えてしまう。

 ギデオンは佇んでいた。何も答えてはこない。

 だから、話し続けることにした。


「界壁が、おかしいんだ。直す必要がある。ルイシーナの命がかかってる。手伝ってくれ」


 羽毛が美しく重なっている翼。その全てが、再び展開されていく。


「断る」


 肩をすくめてから、ウィルは無理矢理笑った。今起きた応答を、冗談か何かの一部に出も含めてしまいたかったからだ。だがその行動とは裏腹に、心の中ではぞっとするような確信が広がりつつある。


「まあ、しょうがない。忙しいんだろ? だけどもう敵はいない。あんたがやったので最後だ。だから、もういいんだよ」


「白きアルヴを今殺せば、酌量の余地を与える」


 最初その言葉が、巧妙な暗号のように聞こえた。言葉の意味が実は表面から大きくずれた、誰も想像できない所にあるのではないかと。そういう思いは、わずか数秒しか持たなかった。

 フィーリタの呼吸が、荒くなっていく。


「なに、言ってんだ」

人間種(フーニ)が普通、多少なりとも情勢が不安定な種族世界への渡界を、許されるはずがない」


 ウィルはわずかによろめいた。後ろへ下がろうと思ったが、結局足は元の位置へと戻っている。体が逃避を拒否しているようだった。

 ただ、その大きな顔を見据える。


「あんたが?」


 苦い泥の塊を、吐き出しているような心地だった。


「あんたが、仕組んだっていうのか? この、クソみたいな全部を?」


 かなり飛躍しているともとれる意見だったが、ギデオンは全く否定してこなかった。瞼を閉じたまま、少し顔を上げてくる。


跳躍種(リプン)は、最重要指定保護種などではない」

「おい、ギデオン……」

「正しくは、最優先指定駆除種だ。本来ならば、すぐに処理されるはずだった。だが、こういう使い方もある。もう一度だけ言う。ルイシーナを殺せ。そうすれば、跳躍者(リプナー)よ。お前の命は見逃そう」 

「よし、わかった。わかったよ。乗るふりはしてやる。後であんたと一緒に、真の黒幕を倒せばいいんだろ?」

「ならば死ぬがいい」


 一瞬で、様々なものが想起された。柔らかい翼の感触。その暖かさ。その広い背中に乗せてもらったことは、一度だけではなかった。羽毛にくるまって風を感じている間、ウィルは何度も笑った憶えがある。相手がそうしてくれたからこそ、自分が飛べないことへのやるせなさを忘れることができたのだ。

 今も、ウィルは少しだけ浮かされている。

 ギデオンの頬に、血が飛んでいた。その固い拳が、ウィルの腹部を貫いている。そのまま物のように持ち上げられていた。

 血をさらに吐き出した。それがかかっても、ギデオンは微動だにしない。目を閉じたまま、もう片方の手を構えている。

 誰かの叫び声。これまでの戦いで、頼もしい存在でいてくれた女性のもの。ウィルは何とかそれだけを、手繰り寄せた。

 肩に力強い手の感触がする。確かに握ってきている。

 その瞬間、心の中で跳んでいた。

 全てが他愛のない幻だったと。過去だの未来だのと、時間のことを考えすぎて狂った頭が見せた悪夢なのだと、強く願いながら。












 草の感触。ややその勢いを落としている蒸し暑さ。名前を必死に読んできているフィーリタの声が一番、彼を表へと引き上げるのに貢献した。

 ウィルは、目を開ける。半身をゆっくりと起こした。

 辺りは、薄暗い。遠くの空では、夕焼けが消えかけている。


「ウィル……」


 フィーリタと、その背中にいるルイシーナを確認した。そして周りの状況を見るに、それほど過去へと跳んだわけではないようだ。危ない所だった。もし無遠慮に戻りすぎていたら、全てが狂ってしまう可能性もあったのだ。

 そこまで考えて、ウィルは両手で頭を押さえた。何度か髪を掻き乱してから、近くにある木の幹へと寄りかかる。

 自然と、口から気の抜けたような笑いがこぼれていた。


「いや、大丈夫」


 誰に向けて言ったのかも、わからない。

 今にして思えば、その可能性を考えることをずっと避けていたのかもしれなかった。跳躍の力は、絶大だ。今までの出来事が証明している。その力の働きを阻害するような防壁など、普通の存在が作れるわけがない。


「何か……、何かあるんだ。別の」


 それこそ最高位の種族の中でも、さらに強大な力を持つ存在にしかできないことだろう。初めから答えは決まっていた。たった今事実となってのしかかってきている。


「今までと同じように、工夫して乗り越えればいいんだ。そうだろ?」


 誰も答えない。ウィルは困ったように笑みを作ってから、すぐに消していく。表情を作る余裕すら無くなってきていた。体が異様に重くなり、自分の足で立つことができなくなっていた。


「もう十分です」


 ウィルは空に向けていた視線を、ゆっくりと下ろした。

 既にフィーリタから、ルイシーナは離れている。彼女の方は、自らの両足でしっかりと立っていた。その顔には生気が戻ってきており、完全に意識が覚醒したのだとわかる。彼女は、優しげな目をしながら微笑んでいた。

 どうして、そんな顔ができるのだろう。


「私は、使命を全うします」

「とち狂ったこと、言ってんじゃねえよ……」


 彼は自分の額に爪を突き立てた。耳を塞ごうとも考えている。ルイシーナの正気ではない言葉を聞き続けたら、本当にそれが正しいと思い込むようになってしまうかもしれないからだ。


「種族の未来のため、貴方の未来のため、必要なことです」

「ふざけんな」

「どうしてアルヴが、保護種に指定されるほど数を減らしたか、わかりますか?」

「問題を出してる暇なんて、ないんだ」 

「かつては、億を超えるアルヴがいたそうです」


 ルイシーナは彼の方へと歩いてくる。


「アルヴは、女性しか生まれてきません。外から男性を呼ぶ必要があります。かつては必要な事が終わったら、その男性は別の用途に利用されていたそうです。名乗り出たアルヴによって、捕食される。男の魂を取り入れるのです。それを何度か繰り返して、アルヴ同士でも生殖が行えるような環境を整えていたと記録されています」


 アルヴの一部を、男に変えるというわけだ。


「当然、周りの種族がそれを許すはずがありません。多くの戦いがありました。そして、アルヴは何度も負けた。……何が悪かったのか、私はその核心に至りました。つまり、アルヴの呪いとも言える特性、女性しか生まれないというのが、全ての元凶だったのです。彼女達の魂は、変化を受け付けない。たとえ男の魂に影響を受けても、すぐに戻ってしまう」


 だから。


「だから、男の方をアルヴに変えることこそが、解決への第一歩でした。そうすれば、必ずアルヴと

いう種族は修正されていく。そのために必要だったのが、ある種族でした」


 今までは、ただの近縁種だと思っていた。だがそれは、滑稽な考えだ。縁があるということは、その起源にも関係している可能性が高いということなのだから。


人間種(フーニ)は、夜精霊種(アルヴ)の祖です。貴方達から様々な変化が起こり、私達が生まれたとされています。私のような白きアルヴは、いわば先祖返り。より貴方に近い魂をしているのです」


 ルイシーナをウィルに食べさせることで、彼をアルヴへと近づける。その上で他のアルヴと子を作れば、大きな変化が起きるかもしれないのだ。つまり、男のアルヴが生まれる可能性がある。

 ウィルは、自分の好奇心、知識欲のようなものを初めて疎ましく思っていた。こんな時でも、思索は止められない。今まで知らなかったことが明るみに出る瞬間。それを気持ちよく思うことを、抑えられない。


「お前も、わかってたってことか」

「はい」

「俺だけを、連れてくるつもりだったんだな? 友達を誘うなんてのは、嘘だった」

「そうです」

「ギデオンとも、通じていたんだな?」

「あの方は、貴方が他種族に貢献することを願っています。今回の協力には、深く感謝しています」


 どうだか。ウィルは自分の頭の中が、どんどん軽くなってきているのを感じていた。でもあの男は、シシルを殺した。保全すべき種族に、とどめを刺そうとした。そこには何か、別の意図があるようにしか思えなかった。自分さえも殺そうとしてきたのだ。

 ウィルはようやく、木に手をついて立ち上がった。体もまた、いくらか軽くなっている。その原動力は、決して前向きなものではなかった。

 手を動かして、さらに種差し指を伸ばす。自分へと向ければ、人差し指になるのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、彼は口の端を吊り上げた。


「こんなクソみたいな種族に、お前は望みをかけてたってわけか?」

人間種(フーニ)は、くそではありません」

「いいや。クソだよ。どうしようもないゴミだ。世界で一番価値がないものだ」

「貴方は、そんな存在ではありません」

「そんな存在なんだよ!」


 今大声を出せば、過去の自分にも届くかもしれない。一歩間違えれば死ぬかもしれない状況であっても、彼は別のことを気にしていた、目の前の女性の言葉を、何としてでも否定したくなっていた。

 指の先が、木の皮に食い込んでいく。爪の中に固い繊維が入り込んでも、まるで気にしなかった。皮を引きちぎっていきながら、ウィルは大口を開ける。


「どいつもこいつも、頭がおかしい。人間種(フーニ)だから、握手してください。最重要指定保護種だから、一緒に写真を撮らせてください。世界で一人しかない種族だから、血を吸わせてください。貴重だから、アルヴの王になってください。はあ? なんだよそれ。ふざけてるだろ」

「いいえ」 

「なんで皆、思い込んでるんだ? まるで俺がすごい存在みたいに見てくる。替えの効かない素晴らしい個体だって、最初からそう見てくるんだ」

「貴方は、他の誰とも違う。貴方だけの価値を持っています」

「じゃあ俺は、空を飛べるのか?」


 ルイシーナは、そこで口を閉じた。


「答えろよ。道具を使わなくても、壁を走れるのか? 三階から飛び降りられるのか? 遠力術の授業で最高の成績を出せるのか? 手足を斬られてまともに動けるのか? 無理なんだよ。他の奴らは当たり前にできるのに、俺はできないんだよ!」


 それは、克服したつもりになっていた考えだった。自分が他のどれとも違う。そう認識した後は、どういう思考になるのか。なぜ他にはなれないのかという、胸が締め付けられるほどの疑問だ。醜い羨望だ。嫌になるくらいの、嫉妬だった。


「何も持ってない、最下位の種族なんかに頼るんじゃねえよ。なんでお前が、そのために死ななきゃいけないんだ? アルヴの奴らが、お前に何をした? 何もかも間違ってる」


 ルイシーナは、眉尻を下げた。悲しそうに口元を震わせている。だがその目は、まるで彼の意見を受け入れてなどいなかった。


「いいえ。私は納得しています。己の命をかける価値が貴方にはあると、思っているのです。種族の未来を、望んでいるのです」


 甘い痺れが、体に走っていた。久しく忘れていた感覚。いつからか、ウィルは肥大した自分の像に泥をかけると、強い安心感を得るようになっていた。それが他者から肯定されたものであるほど、淀んだ心地良さが湧いてくるようになっていた。

 指の先を、脇にいた女性へと向けていく。


「フィーリタからお前の過去のことを聞いた時、俺がどう思ったか、わかるか?」

「ウィル……」

「がっかりしたんだよ。お前が、たいして恵まれていないことを知って、悔しくなったんだ。お前の能力や精神が、周りからちやほやされたせいでできたものだって、思い込んでいたかった。自分自身の努力や、逆境に対する精神でお前が成長してきたなんて、考えたくもなかったんだよ!」


 消してしまいたくなるほどの、自己嫌悪が生まれていた。卑下したがるくせに、自らに向けて抱く嫌悪だけは嫌いだった。結局は、暗い自尊心を守りたいだけだった。


「俺なんかよりもずっと、お前は追いつめられてた。なのにありえないほどの努力をして、優秀になったんだ。それに比べて、俺はどうだ? 周りと違うことを言い訳にして、ちやほやしてくれる周りに甘えて、本当に頑張ることはしなかった。これのどこが、価値ある存在だ? そんなわけねえだろ! あってたまるか!」


 ルイシーナは決然とした態度を崩さない。


「私は、知っています。貴方は努力をしていた。周りに負けない自分になろうと励んでいた」

「俺は……、アルヴの奴らを殺すと決めるのに、まるで時間がかからなかった。普通は、違うだろ? まだ話し合いの余地はあるはずだって思う方が自然なんだ。俺が他の種族を同じ生き物だって思ってないから、殺す選択肢が先に来るんだ」


 ずっと黙っている銀髪のアルヴへと、目線を向ける。


「フィーリタにとっては、重大な決断だったはずだ。なのに俺の方は、ただ障害を排除する意識しかなかった。お笑いだよな? 等身大の自分を認めてほしいと思ってるのに、俺の方は周りを見下してたんだ。よくこんな醜い種族がいるなって、びっくりしてるよ。拾い物の力なんかで調子に乗って、結局育ての親に殺されかけてる。笑えてくるよな?」

「ウィル」


 今度は、はっきりとした呼びかけだった。

 いつの間にか、ルイシーナは目の前にいる。自分が歩み寄ったのか、相手の方から近づいてきたのか、それすら判断できない。


「私が学園に来たばかりの頃を、憶えていますか?」

「……知らねえよ」


 また一歩、彼女は近づいてきた。


「私は、まだ弱かった。自分の境遇に納得できず、周りを拒絶してばかりでした。でも、貴方が。ウィル・デーシスが、その壁を破ってきたのです。私の多分類学の試験結果を、聞くためだけに」


 おそらく、半年ほど前のことだった。あの頃はただ優秀な女子が入ってきたというだけの噂しかなくて、実際に目の前にして圧倒されても、負けないようにと強気で話しかけたのだ。自分の得意科目だけは、誰にも抜かされたくなかったから。

 同じく思い出しているであろう彼女は、自然な笑顔を浮かべていた。


「あの時はひどい言い合いになりましたが、周りにとっては良い方向に働いたようです。私に話しかけてくれる方が、増えていきました。その中に、ミリアさんやフロレアさんも含まれていたんですよ」

「そりゃあいい」


 彼は一度顔を逸らして、鼻を鳴らした。どうにかして、彼女の馬鹿げた思い込みを崩してしまいたかった。


「お前の、初めての友達作りに貢献したわけだ。すごい行いだな? 俺はこれで、光輪も得られるってことだ」

「いいえ、違います」


 ここまで接近したのは、初めてのはずだった。大講堂の個室で話した時は、まだ最低限の距離が開いていた。でも今、ほとんどルイシーナの姿しか見えない。彼女は華奢な腕を伸ばし、ウィルの胸へと手を当ててくる。心地の良い体温が、彼の皮の内側を緩ませていくようだった。 


「私の、初めては……」


 途中で、彼女は俯いた。耳が震えている。肩が少しだけ動いている。

 再び顔を上げた時には、いつも通りの、不敵そうな表情をしていた。


「私は一番最初に、最も得難い友を得ました。己の至らない点を吐露し、他者の美点を褒めることができる。貴方以外にそれができる者を、多くは知りません」


 彼女の真摯な瞳に、まるで対することができなかった。今までは、こういう困った状況になっても、冗談でかわすことができた。なのに今は、何も思い浮かばない。彼女の言葉一つ一つが頭の中で乱れていき、思考を定まらなくさせている。


「俺の、俺のクソみたいな所から生まれたものを、美化するんじゃねえ」

「嫌です。これはお返しです。貴方の方こそ、私を無理矢理褒めないでください。気持ちが悪いです」

「俺は、そんなものじゃない」


 彼女は一度胸を強く押してきてから、近い距離で目を合わせてきた。彼が少し目を逸らそうとしても、無駄だ。その強い視線は、どこまでも追いかけてくる。


「どうして貴方が決めるんですか? 勝手ですね。私が貴方をどう思おうが、貴方には関係ありません。だから、いいんです。気に病まないでください。私はずっと、貴方の中で生き続けます。種族の未来を、見届けさせてください」


 様々な言葉が心の中で生まれては、消えていった。

 彼女は自分の使命とやらに、溺れている。それが他者から植え付けられたものではないと、どうして言えるだろう。エイブリーの幻影、祖母のありもしない言葉に惑わされているだけではないのか。

 ルイシーナは演技が上手い。さも、全てを受け入れているような様子になっている。

 だが、本当に納得しているのならどうして、あの時泣いていたのだろうか。

 色々なものがごちゃまぜになって、ウィルを襲ってきた。それに流されないように、あるいはそれが消えないようにさせるのが大変で、強い意思の力のようなものが湧き出てくる。

 今度は、正面から彼女の顔を見ることができた。


「認めない」

「強情ですね」

「お前はこれから、この世界を出るんだ。フィーリタさんと俺も一緒なんだ。そして、どこか遠い所にいくんだ。何も苦しくない所に」


 ルイシーナの顔が、動いていく。


「私は、それを望んでいません」


 ありえないはずだった。全部に納得している者が、あの時泣くはずがない。フィーリタの反抗に悲しんだのだとしても、その他のことが原因だったとしても、あそこで涙は出ないはずなのだ。

 全部夢でよかったなんて、嘘でも言わないはずなのだ。全部を受け入れているのなら、それでいいと思っているのなら、寂しいだなんて言わないはずだった。どこかへ行きたいなんて、口にしないはずだった。


「そもそも、不可能です」

「できるんだ。俺は、跳躍者(リプナー)だから。過去も未来も変えて、幸せになれるんだ」

「できません」


 フィーリタからの視線も、どうでもよくなっていた。ウィルは目の前の白きアルヴを抱き寄せるか、このまま話し続けるかどうかの間で揺れていた。だが結局、宣言を続けることを選んだ。


「まずは、ギデオンをぶっ殺せばいい。あいつがいなくなれば、外に出られる」

「そんなことを言わないでください。それに不可能です。あの方には、誰も勝てません」

「勝てるんだよ。例えば、あのクソジジイがまだ母親のお腹にいる時にまで戻って、殺せばいい。そしたら、邪魔をしてくることもなくなる」


 今になって、ルイシーナははっきりと目を逸らすようになっていた。きっと顔をのぞき込まれたくないのだ。彼女の手の震えが、胸から伝わってくる。


天理種(ヴィラ)の種族世界にまで行くつもりですか? 馬鹿な事を言わないでください。それがどれだけのことを意味するか、わかりますか?」

「知らねえ。簡単だろ」

「光輪持ちの母親を狙おうとしたら、必ず彼らは全勢力を持って防ごうとしてきます。世界最高峰の戦団と争うつもりなんですか?」

「関係ねえよ」


 歯を、思いっきり食いしばる。たまらず手が伸びて、ルイシーナの両肩を持っていた。彼女はもうずっと俯いている。少し腰を曲げて、自分よりも小さくなろうとしている。


「工夫すればいい。これまでも、ちゃんと乗り越えてきたんだ。いけるさ」

「他の……、方が黙っていません。特に権天様は」

「あの老いぼれ野郎だろうが、他の四天だろうが、関係ない。邪魔する奴らは皆、排除する」

「できません、できません……」

死精霊種(ネッド)だろうが、光龍種(ルクサリア)だろうが、獄廻種(ブラガ)だろうが、混種連合の機動部隊だろうが……、ぶっ殺してやる。お前の命を道具だと思っている連中は全部、ゴミ以下だ。全部なくなったら、世界も少しは良くなるはずだ。誰かの価値を決めるのは、自分の価値を考えるのは、それからにしろよ」


 前の時のように、彼女は手で顔を隠すようなことはしなかった。空色の両目からこぼれて落ちていく雫を、そのままにしている。否定する声は震えているのに、その表情はどんどん柔らかくなっていた。泣いてほしくないのに、笑ってもいるその様子を、ウィルはどう捉えていいのかわからない。 

 それは、諦めも含まれていた。既にルイシーナは理解している。跳躍がそれほど融通の利く力ではないと、察していた。

 彼女の顎から、涙が流れ落ちていく。


「貴方は、戦いの経験があるのですか?」

「今日たくさんできた。だから、大丈夫だ」

「私にすら勝てないのに? 実技の貴方は、悲惨という言葉でも足りませんでしたよ」

「うるせえ。もう違う。お前くらいなら、片手でちょちょいだ」

「どうして、そこまで頑張るのですか?」

「納得できないからだ。俺がこのまま生き残っても、クソみたいな人生にしかならないからだ」

「アルヴの皆が、気に入らなかったのですか?」

「ああ、そうだ。あいつらは狂ってる」

「胸をたくさん見ていたのにですか?」

「関係、ないだろ。敵になったら」

「力を使って、もっと自分の利益になるようなことをしようとは思わなかったのですか?」

「そうするつもりだった。でも、その前にここへ来て」

「どうして、私を助けようとするのですか?」

「だから、納得できないって言っただろ。俺なんかよりもずっと、お前は価値があるんだ。こんなのは、間違ってるんだ!」

「……私のことを、好いているのですか?」

「じゃなかったら、こんなになるまでやってねえだろ! 俺がどれだけお前のことをそん」


 背中に、木がぶつかった。その衝撃で初めて、自分が後ろへと跳び上がっていることに気が付く。

 明らかに、駄目だった。自分で言ったことに、自分で驚いていた。


「続きは、なんですか?」


 目を拭いながら、ルイシーナは追いかけてくる。その姿が、自然の中で浮き上がるようだった。このまま見続けていれば、知らない段階へと踏み入れてしまう。そんな漠然とした恐れが、ウィルの体を固めていた。


「そん」

「そん?」


 また胸に触れてくる。何も力を入れられていないのに、その手の肌と自分の体がくっつているような気がした。


「違う」

「何が違うのですか?」

「そういうのじゃない。尊敬だ。お前のことは、尊敬してる」


 目の縁を赤くさせながら、ルイシーナはくすりとした。今の状況にはまるで似合わない、輝くような表情だった。


「本当にそれだけ?」

「すごいと思ってるんだ。それで十分だろ!」

「生きていたいです」


 自分の叫んだ声が途中で小さくなり、消えていった。

 目の前のルイシーナは、唇を一度噛んだ。その表面がめくれ、薄く血が出るほど強くしていた。両の拳が握られて、大きく震える。


「毎日が、夢のようでした。あな、貴方のせいで、学園が大好きになりました。どうしてくれるんですか? この苦しみを、どう消してくれるんですか?」

「俺は」 


 顔中の力が、抜けていくようだった。栓をしていたはずのものが、全てこぼれだそうとしていた。

 制約を破った瞬間、死ぬのだろうか。もし、そうではなかったとしたら。少しの猶予でもあるのなら、試す価値はある。ウィルは、今までの跳躍者(リプナー)の一部がどのような思いで死んでいったのかをようやく理解した。彼らは、そうすることを選んだのだろうか。何かどうしようもないことを、変えるために。


「俺は、死んでもお前を」


 腕を、これまでにないほど強く握ってくる。


「そんなことになれば、一生貴方を恨みます。すぐに後を追います」

「くそ、くそ……」

「これでいいんです。私が使命を全うすれば、全てが上手くいく。貴方と、フィーリタが残ってくれます。彼女と一緒に、アルヴの未来を、どうか……」


 ルイシーナの体が、急激に離れていく。ウィルが突き飛ばしたのではなかった。間に、長身の女性が割り込んできている。彼女が両腕を伸ばし、ウィルとルイシーナを離していた。


「貴方と言えど、怒ります。勝手に私の未来を決めないでください」


 フィーリタは、この中で一番冷静のようだった。瞳だけは強く光らせながら、ルイシーナの肩を握っている。


「でも……」

「黙ってください。貴方とウィルの話は、将来にでも取っておけばいい。今は、対処しなけれいけない問題がある」


 その口調は、どこか憶えがあった。熱が収まってきた頭の中で、答えが不意に浮かんでくる。彼女

は、かつてウィルが戦い方を説明していた時のような雰囲気をまとわせていた。意図的に真似をしているかどうかは、わからない。


「ウィル、なぜお前は自暴自棄になっている?」

「だって、俺には、もうこれ以上は」

「私が抗おうともしていなかったことに、お前は当然のように立ち向かった。そして、乗り越えたんだ。なぜ今度も、そうしない?」


 ウィルはやるせなくなった。フィーリタもまた、自分には収まり切らない期待を向けてきている。彼女にまで圧迫されるのは嫌だった。


「どうしろって、いうんですか?」

「問題は簡単だ。そうだろう? 跳躍を妨害している元凶、あの天理種(ヴィラ)を排除すればいい」


 彼は相手を睨みつけた。その時の感覚は、ルイシーナとは違う。跳ね返ってくるような心地はしない。ただ受け止められて、深く沈みこんでいくだけだった。


「そんなの……」

「私には、想像すらできなかった。たった一人の男が、熟達したアルヴの戦士団を壊滅させるなど。お前の力は、どんな相手にも届き得るはずだ」

「これは、万能じゃないんだ。どんなに便利で強くても、使うのは俺だ。ギデオンは、今までの相手とは違う」

「何を勘違いしている?」


 フィーリタは、少しも引く気がないようだった。


「いつ、お前一人だけで戦えと言った? うぬぼれるな」

「だから、無理なんだよ!」


 あふれ出るようにして、ウィルはその根拠を言い始めた。おそらくどこかでは、考えていたのだ。跳躍の力を鍛えていくにつれて、対立する相手も強大になっていくかもしれない。そういう時には、どうすればいいのか。

 もしギデオンが相手だったしても、実行しているはずだった。こうしてルイシーナの思いを受け取った自分なら、何としてでも勝とうとするはずだ。なのに、いなかった。自分がギデオンに腹を貫かれた直後。そこが最大の好機なはずなのに、未来の自分は姿を見せていなかった。


「諦めたんだ。未来の俺も、同じことを考えたんだよ。でも、結局挑まなかった」

「お前は、そんなことで全てを決めるのか? あらゆる可能性を考えもせずに?」

「あんたの協力で、透身してる可能性もあった。だけど、意味がないんだ。俺の目はそんな術なんて効かない。隠れて攻撃しようとしても、見えるはずなんだ。だから、もう俺はギデオンとは……」


 既にそういうことなのだと認識してしまった。もし諦めずにこれからギデオンの隙を突こうとすれば、認識した事実と異なってしまう。つまりほとんど戦う道は無くなったのだと、ウィルは思い込んでいた。時間を分裂させて、自分を犠牲にしなければ。

 透身。その言葉を聞いて、フィーリタはにやりとした。彼女がそこまで高揚とした様子を見せるのは、初めてだった。


「私は知っている」


 その声は、確かな自信で支えられている。


「お前の無様な姿を。初めてだったんだろう? かなり滑稽だった。よく憶えている」

「何のことを」

「学園からの帰り道」


 そこまで聞いて、ウィルは自分の頭の全ての細胞が震えていくのを感じた。フィーリタからの指摘をきっかけとして、何気ない日常として埋もれていくはずだった出来事が、まるで全ての鍵であるかのように浮き上がってくる。

 彼の様子を見て、フィーリタは頷いた。


「お嬢様は、私よりもずっと頼りになる。お前と彼女がいれば、どんな障害でも乗り越えられるだろう」


 まだあまり状況を理解しきれていないルイシーナは、それでも自分がどうなるのかを理解したらしい。フィーリタへと歩み寄り、何度も首を振った。


「いいえ、そんなことはしません。私は使命を」

「貴方は生きていたいと言った」


 引き締まった腕が伸びていき、ルイシーナを抱き寄せる。そしてフィーリタは、右耳へと短い口付けをした。呆気に取られている相手を見ながら、優しい微笑みを浮かべていく。


「それだけで、十分です。たとえ私が引き出せなかった言葉だったとしても」


 ウィルは、フィーリタの表情が気になった。まるで全ての重荷が取れたかのような。それが良い方向に働くものだとは、あまり思えなかった。

 前向きな思考になれないのは、まだ問題が残っているからだ。それを、フィーリタもわかっているはずだった。ルイシーナをもう一度抱きしめてから、自分を見下ろしてくる。


「時間が、足りません」

「ああ」

「ここから跳躍を上手く使って、界壁まで移動したとしても」

「ロメテは、まだ追いついてきていないな」


 やはり、彼女はちゃんと理解している。一度しか跳躍について説明していなかったというのに、その制約について正確な認識を持っていた。

 もう、日はかなり沈んできている。そう時間がかからないうちに、起点がやってくる。かつて自分が、ロメテから死体を見せられた時点。

このままルイシーナと共に戦う時間は、残されていなかった。もちろん跳躍すれば時間そのものは作れるが、過去の自分が遭遇する前に、ギデオンの所へ向かうわけにもいかない。


「すまない、ウィル」


 顔を上げると、フィーリタは背を向けていた。そして少し離れた木まで歩いていくと、急に服を脱ぎ始めた。

 あまりに唐突な行動だったので、見ないようにするという考えすら湧いてこない。ただ呆然として、こちらに向き直ってきた顔と対した。


「私は、正直無理だと思っている。このまま界壁が戻り、さらに過去へと跳躍できるようになっても、最大の問題を解決することができない」

「フィーリタさん?」

「お嬢様の死体を偽造することは、難しい。今までお前が認識してきたこと、歴史に矛盾することなく、やり遂げる。それがどれだけの難行か。きっと、お前は追いつめられる」

「何を、してるんですか?」


 褐色の裸体が、露わになる。その時点で何かしらの感情が湧いてきても良かったが、ウィルは微動だにしていなかった。おそらく羞恥や遠慮などよりも、もっと強烈な恐れがやってきているからだろう。それが、フィーリタから目を離すことを許さなかった。

 彼女は、あの笑みを浮かべた。かつてアルヴの実験体を殺した後のような、弱々しい顔になっている。


「それでも、支えようと思った。同じ志を持つ者同士で共に進んでいけば、やり遂げられるのだと。だが結局それは、私の弱さだ。都合の良いことにしか目を向けず、お嬢様の大切な友人を取ろうとした。…一番醜いのは、私なんだ」

「だから、一体何を言ってるんです?」

「なぜお嬢様の母親が狂気に落ちたか、わかるか?」


 全く関係のなさそうな問いの答えが、一気に露わになった。

 ただ、見ていることしかできない。フィーリタの体から、それらが剥がれ落ちていった。視界の中で、黒い魔素がかなり目立っていた。それは、アルヴによくある特徴だ。濃密で、肌に染み込んでいくような質感を持っている。


「白きアルヴを、二度も産んだからだ」


 彼女は、さらに縮んだ。ちょうどウィルよりも少し高い程度の身長になった。つまり、ルイシーナと全く同じ体格だということ。それは、フィーリタの精密な肉体変形がなせる業だった。

 今まで一度も、考えたことはなかったのだろうか。

 ウィルは自分の事を、論理的な方の生物だと思っていた。だが、それは間違っていたのかもしれない。実は感情に振り回されることの方が、多いのかもしれない。気付くべきことから、逃げていた。


「こうすれば、似るか?」


 彼女は、髪の色も変化させる。銀色から、白みがかった金色へと。同時に、瞳もまたその色を薄くさせていった。海のような青から、空色へと。

 なぜ、逆はないと考えていたのだろう。あの実験体のアルヴ達は、肌を白くさせるための処置が施されていた。その時フィーリタは、ほとんどが失敗だと言っていたのだ。つまり、成功例もあったということ。

 ただそれは、白い肌を黒くさせる、というものだった。ある事柄を達成するためには、あえて逆のことも試してみる。一つの方法論としては、納得できるものだ。


「どう思う? ウィル、これなら見分けがつかないか?」


 フィーリタは、今まで一体だけで抗おうとしていた。ウィルを殺してまで、ルイシーナを救おうとしていた。そこまでする原動力は、一体何だったのか。ただエイブリーに仕えていたからという理由だけで、そうなるとは考えづらい。彼女から孫のことを頼まれていたのだとしても。

 簡単な話だ。実の家族の生存を望むのは当たり前だと、フィーリタが考えていただけだった。

 変化した彼女は、ぞっとするほど妹に似ている。服を着ている方とそうではない方。最初は、そういう見分け方しかできなかった。でもよく見れば、目鼻の形であったり、所々の肉の付き方はわずかに違っている。

 ウィルは、首を振った。


「だめ、です。認められません」

「違うのか? 私は、似ていると思う」

「俺は、俺は……」

「ロメテは、手負いだ。冷静ではないだろう。上手く間違えてくれるはずだ」

「こんな、ここまできて」

「これでいいんだ」


 何かを言うべきだと思った。ウィルは口を開けてから、数秒間考える。別の方法がないかと、今までの全てを振り返り始めた。


「違う」

「どこがだ?」

「胸が……。フィーリタさんの方が大きいから、失敗する」


 肝心な時に、頭は上手く回ってくれない。

 フィーリタはくすりとした。それは先ほどのルイシーナのものとは違い、より落ち着いた笑みだった。まさに姉のような雰囲気を持っていた。

 体の一部を変形させてから、彼女は木に寄りかかった。荒く息を吐き出して、少しの間目をつぶる。額から、玉のような汗が流れ出してきていた。


「これで、いい、だろう」 

「フィー、何を」

「フィーリタさん、だめだ」


 彼女は急激に消耗していた。白きアルヴはある種の才能を必要とされる。生きるために、外から魔素を取り入れなければいけない。彼女はおそらく、失敗したのだ。だから外部の調節によって、肌を魔素で黒く染められた。

 いきなり、何かの叫び声が聞こえた。それはまるで怒り狂った小動物のようなもので、ウィルという名前だけがはっきりと発音されている。ロメテが、追いついてきているのだ。

 フィーリタの下腹部へと目が向かう。そこには、小さな黒子が付いていた。

 彼女はこちらに倒れかかってきた。すぐにその体を支えるも、必要はないと相手の手が押しとどめてくる。


「私は、多くの同種族を殺した。生き恥を晒す気はない」

「俺が、そうさせたんだ」

「もういい。目的は達成できる」

「皆でじゃないと、意味がない。貴方も、一緒に……」


 想像をしていた。最悪のものだ。かつての死体の状態は、酷いものだった。明らかに苦痛を与えるためだけに付けられたような傷もあった。それと、フィーリタが重なっていく。認めるわけにはいかないのに、何も言葉は続かない。

 目の前で、フィーリタは少し迷うそぶりを見せた。それからルイシーナを見て、消えていってしまいそうな笑みになる。

 左耳に、柔らかい感触。何をされたのか考え始めた時には、既に彼女の顔は離れている。


「ウィル。お前は私が今まで会った中で、一番いい男だ。だから、お嬢様を頼む」


 ルイシーナの右耳に対しても、もう一度接吻をした。それからフィーリタは、徐々に離れていく。後ろ向きで、歩いていく。


「ルシー、貴方ともっと話せばよかった。愛しています。お元気で」

「だめ!」


 即座に体の向きを変え、裸のアルヴは走り出した。追手の声がする方へと、ためらうこともなく向かっている。

 その後をすぐに、ルイシーナが追おうとする。その光景が、とてもゆっくりに思えた。ウィルは自分でも知らないうちに手が伸びて、彼女の肩に触れていた。

 跳躍。彼らは生い茂った草の中に倒れ込んだ。


「だめ!」


 ルイシーナの叫び声。今自分の腕の中で震えている女性のものではない。フィーリタが走り去る所も、ウィル達が跳躍していく所も、全て眺めていた。

 辺りが静かになった後、彼の体からルイシーナが離れた。

 ウィルは、少しの間起き上がることができなかった。それは、フィーリタの犠牲を許容した自分に失望しているからだけではない。今のほんのわずかな跳躍に対する、嫌悪もあった。

もしルイシーナがすぐに飛び出していけば、終わりだったのだ。それをわかっていて、こんなことをした。こういう自分が嫌になって、彼女に間接的に罰してもらおうとしたのだ。

 言葉としても表れていた。ただその場に座り込んでいるルイシーナに対して、ウィルは短く説明をする。過去の自分がルイシーナと思われる死体を見たという事実を維持しなければ、死んでしまうのだと。それを知った彼女が責めてきてくれるのなら、ありがたいくらいだった。

 だが、ルイシーナは手を握ってくるだけだった。


「私は、浅ましいアルヴです」


 ローブに涙を付けられても、少しも不快だとは思わない。


「もう、戻れません。私は生きたいです。救われたことが、嬉しくてたまらないんです…」


 親しい者に、大切な相手に、肯定をされる。その身を犠牲にしてまでも、生きていいのだと伝えてくれる。どうか明日を迎えてほしいと強く想われる。その愛情を、これ以上ないほどに与えてもらえる。何と、言い表せばいいのか。

それこそが、幸せなのかもしれなかった。幸福という概念そのものが、頭の中に入ってくるようだった。

 だったら。

 ウィルは、彼女を支えながら立ち上がった。だったら自分は、それを守らなければいけない。どんなことが待っていようと、ルイシーナを生かさなければいけない。それが、フィーリタに対する義務だ。戦友を送るための行いなのだ。


「まま、まま……」


 ニーハは、その黒いもやの一部を弾けさせながら、鞄の中に収まっていた。本当はついていきたかったのだろう。だが、フィーリタの意志を尊重しているからこそ、それができなかった。


(ホロ)

『なんだい?』

(倒すぞ。俺は、やるんだ)


 白い獣は一瞬だけ後ろを振り返ってから、力強く耳を振った。


『……うん。できるさ。きみは跳躍者(リプナー)で、いい男なんだから』


 ウィルとルイシーナは、界壁に向かって歩き始めた。必要な事を、話し合いながら。



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