7.黒と白
そこは、種族世界の北西部に位置していた。途中一度跳躍を使い、なるべく短時間でたどり着けるようにした。この区域で過去の自分が戦っていなくてよかったと、ほっとする。
あまり上等とは言いづらい、洞穴だった。中はある程度整備されているようで、ほのかな明かりが並んでいる。奥にある扉まで進むと、より土の腐ったような臭いが濃くなってきていた。彼女が年季の入った扉へと手をかけて、ゆっくりと押し開いていく。
ウィルは最初、そこにあるのが何なのかよくわからなかった。全く動かないものだから、生物かどうかすらも判断できなかった。
だが外からの光が差し込むと、それらは身動きを徐々に始める。赤子が、そのまま大きくなったような姿。ほとんどまともな服は着ておらず、大きめの頭以外の部分は痩せこけていた。フィーリタが近づくと、何かしらの言葉を発する。長い両耳が、盛んに揺れ動いた。
彼は出口の辺りで固まっていた。これ以上、中に進んでいいのかわからない。
「生まれる子の全てが、アルヴにおける体格と魔素量の基準を満たしてるわけではない。恵まれなか
った子供は、こうして別の用途に使われる」
最も目立っている特徴は、肌だった。色がおかしい。褐色の肌の所々に、白い斑点が付いている個体。全体的な色が、灰色に近くなっている個体。病死寸前の老婆のように、ぼろぼろの青黒い肌をしている個体。
『これは、虐待だ。吐き気がする』
ホロが耳を立てながら、黒目の奥を燃やしていた。
口を開いても、しばらく声が出てこなかった。目を背けたくなる不快な光景なのに、視線が縫い止められる。彼女達はだんだんと、フィーリタへと集まってきていた。まるで久しぶりに親が帰ってきた時のような反応だ。
「肌を、漂白しようとしたんですか?」
自分で言っても、信じられなかった。
「そうだ。白きアルヴを、作り出そうとした。連れてきた繁殖用の男に食わせるためにな。だが、ほとんど失敗に終わっている。魂の形を変えるのは、簡単ではない」
アルヴは、肌に色濃い魔素が表れていることで有名だ。その褐色の肌はほとんど術を通さない。彼女達は肌とその内側に蓄えられた膨大な魔素を利用することで、高い戦闘能力を発揮している。
もしその大切な肌が、アルヴにとって魔素の定着しない白いものだったら? 非実体部分を維持することができず、多くの機能が満足に働かなくなるだろう。目の前にいる中途半端な状態の者達は、動くだけでも精一杯のはずだ。ルイシーナは、特例中の特例だった。
フィーリタは、ニーハに小さく謝っている。短い間に、彼女たちはまるで一心同体のようになっていた。
そして地面を這っているアルヴ達に、彼女は黒い刃を振るい始めた。義務を果たそうとするような重々しさもない。まるでそうすることが当然のようだった。
呻き声のようなものが、突然途切れる。その生々しさに、ウィルは口を押さえそうになった。しかしフィーリタの背中を見て、何とか直立を保つ。彼女の方がはるかに覚悟をしてきているはずだった。
「中には、四十年以上生かされた者もいた」
全ての声がなくなるまで、ほとんど時間はかからなかった。フィーリタは少しの間俯いてから、死体を外へと運び始める。その動作はゆっくりだったが、ウィルは決してそれを急かそうとは思わなかった。
「ろくな扱いを受けなかったとはいえ、故郷だ。その大地の中で、安らぎを得られればいいが」
自分に話しているわけではない。彼女の声は土に落とされて、埋葬されたアルヴ達へと染み込んでいく。
静かなその横顔を、なぜか見ていられなくなった。彼女の中にあるであろう様々な感情に、流されそうになったわけでもない。ただ、直視するのが耐えられなかった。自分がまるでこの場にそぐわない存在のような気がしていた。
顔を逸らしていると、フィーリタの方から視界に入ってきた。腰を少し曲げて、こちらの目線に顔を合わせてくる。
「付き合わせてすまない」
「いえ……」
「ウィル」
彼女の瞳は、やや引力を持つようになっていた。名前を呼んでくるその声も、柔らかくなっている。
「お前は、本当に知らなかったようだな」
「え?」
少し迷うような素振りを見せてから、彼女は続けた。
「有名な話だろう。お前の父親と母親のことだ」
「どういう?」
「シカウス夫妻は、アルヴに対しても研究協力をしていた」
無味で得体の知れない何かを飲み込んだような感覚がした。いよいよ、目の前のアルヴをまともに見れなくなる。
彼らは、魂の形成に関する研究を行っていた。その分野に関しては、世界的な権威だったようだ。それくらいはもちろん知っていたが、まさかここで話に出てくるとは思っていなかった。
「こんなことにも、あのヒト達が関与していたと?」
声が不安定になる。
フィーリタは穏やかな表情のまま、彼の肩を一度優しく叩いた。
「責めるつもりはない。与えられた考えと技術を未熟児の加工に使ったのは、アルヴの方だ。それにお前は当事者じゃない。前までの私は、それがわかっていなかった」
ここでようやく、フィーリタが歓迎会で襲ってきた時の心理を把握できた。疑うのも当然だったのだ。自分がもし彼女の立場にいたとしても、ウィルという男が初めから何もかも理解した上で、ルイシーナと共にいると思っただろう。
フィーリタは完全に立ち上がり、少し盛り上がった土の上に花を添えた。薄い青色の綺麗な花びらが、墓を彩る。
そして、小さくこちらへと話しかけてきた。
「頼んでもいいか?」
「何ですか?」
「界壁が正常に戻ったら、さらに過去へ跳ぶんだろう? できれば…、私も連れて行ってほしい」
今までは戦士らしい鋭さを持っていた表情が、ここへきて初めて揺れていた。
「え、いや。かまわないというか。むしろ、助かりますけど」
「私も協力したい。足を引っ張るかもしれないが」
「そんなことは、ないですよ」
どこか弱さを見せている雰囲気に、ウィルは思いっきりたじろいでいた。どうしてそんなに遠慮をしているのかもわからない。先ほどまでの、命を見送る毅然とした態度が崩れてきていることにも、動揺させられていた。
「ままがいくなら、わたしもついてく」
フィーリタは、まとわりついてくる黒いもやに対して、今までで一番の笑顔を見せた。
「ニーハがいてくれるのなら、心強い」
「ウィルが、ままにへんなことしないようにするの」
『重要な役目だね。お姉さんの胸を見た回数は、既に五十を超えてるよ』
ホロを蹴る真似をしてから、ウィルは前へと進み始めた。
残る部隊は、二つだけ。最も難しい配置をしていた。これらの部隊は、連動して動いている。ある程度は離れているが、一方で戦闘が始まった瞬間、即座に合流できるような備えをしているはずだ。今まで以上の動きが要求される。
しかし、ここで一つの綻びが生じた。
大講堂周辺に跳躍し終えた直後、横の長身が揺れた。
「大丈夫ですか?」
声を大きくしないようにしながら、すぐにフィーリタへと駆け寄る。彼女は明らかに、大きく消耗していた。膝をつき、自分の力では立ち上がることができないでいる。額に浮かんだ汗は、暑さのせいだけではないはずだった。
「私は……、まだ」
ホロが難しい顔で、彼女の顔を覗き込む。
『いよいよ、限界だね。連続で跳躍に関わりすぎた。休ませないといけない』
ここまで付いてこられたことが、奇跡のようなものだ。ウィルもまた、体に重さを感じている。あまり実際の時間は流れていないが、体感では何時間も動き続けているようなものだった。
屈みこんで、フィーリタの顔を見る。
「ここからは、俺だけでやります。ニーハ、彼女を頼む」
「うん」
腕を掴んでこようとしているが、手を上げることすらもできないようだった。
「危険、だ」
「それは今までも変わりませんでしたよ。ここで待っていてください」
未だ居所が分からないアルヴの存在も、気になっていた。しかし、ここまで来たのだ。アルヴの数は激減している。素早く残りの部隊を壊滅させれば、勝利したも同然だった。
最後に周りを目でしっかりと確認してから、ウィルは走り出した。
自分の足音以外は、生物の鳴き声くらいしか聞こえない。未だ夕焼けが空を覆っていたが、これからの戦闘に時間をかけ過ぎれば、すぐに暗くなっていくだろう。残った小数のアルヴの位置を把握するのが、難しくなってしまう。
一時的に鳴りを潜めていた心臓の鼓動が、やや早くなり始める。水滴が落ちていく音を想像しながら、何度も自分に言い聞かせた。どう戦うのかを、頭の中で繰り返していく。これからの自分が、細かい部分を忘れないように。
わざわざ走っていたことで、すぐにこちらの居場所がばれた。大講堂の左の方を巡回していた部隊が、木々の間から出てくる。
「やはり狙いは、白餌か」
その言葉を使ってくれることで、助かる部分もあった。あまり相手のことをおもんばかる必要がないと思わせてくれるからだ。
直後、右の方からも草を踏みしめるような音が響いた。別の部隊だ。彼女達は意識下で連携を取り、簡単に合流を成功させていた。
ウィルは球体を取り出しながら、必死に祈った。未来の自分をひたすら信じる。
その願いは届いたようだ。アルヴ達に動揺が広がり始めた。
それぞれの部隊の後ろに、赤い獣の仮面を被った、ローブ姿の男が二人出現している。彼らは両手をぶるぶると震わせながら、相手を挑発するような文句を叫んでいた。
彼らが走り出した直後、ウィルもまた逃走を開始した。先ほど認識したことを頭の中で確認しながら、両足を加速させていく。
元から、追いつかれることは織り込み済みだった。限界まで走行速度を大きくしても、アルヴの身体能力にはかなわない。そして何より、ここは彼女達の土地だ。逃げきることなど、不可能に近い。
振り向いて、相手の数を確認した。四体がそばにまで来ている。上手いこと、分かれてくれたようだった。
身を守るための時場を展開させながら、球体を投げる。彼女達は全員、素早く横へと動きの軌道を変えていた。最大限の警戒をしている。
そして、四つの球体全てが過去へと跳躍した。
失敗はない。全て、敵の頭の中へと出現しているはずだ。
一気に全員の動きが鈍った。
だが、終わりではない。既に目の前で、複数の凶器が時場にぶつかって減速させられていた。さらに迂回するようにして、非実体の刃が流れてきている。相手は、驚異的な生命力を持っている。
ウィルは攻撃が処理しきれなくなる前に、球体を鞄へと戻した。そして、自らを跳躍させる。
およそ十五秒ほど前に戻り、少し離れた所にいる自分自身と協力しながら、固まっているアルヴ達を挑発した。そして少しの間逃げてから、前と同じように球体で相手の頭を一部破壊し、跳躍する。それをさらにもう一回繰り返した。
三つの場所を一周した後は、最初の戦闘へと後ろから駆けつける。自分自身が消えたのを見た直後に、その周囲に投げつけられていた武器を全て、アルヴ達の首へと跳躍させた。そして、過去へと戻る。同じことを、あと二回行った。ここまでくれば、ほとんど作業のようなものだった。
周りが再び、静寂に包まれる。ウィルは大きく息を吐き出してから、目の前の四体が死んでいることを確認した。頭の一部と首を破壊されれば、さすがにもう起き上がってはこない。
直後、一つの死体が溶けた。黒い泥のようなものに変わり、地面の下へと沈んでいく。
後頭部に、わずかな吐息がかかった。
振り向こうとし、すぐに跳躍した方がいいと判断する。
だが、そこまで考える時間しか残されていなかった。
引き締まった腕が走り、その拳の先が喉へと炸裂する。ウィルは一瞬何も見えなくなって、直後血の混ざった唾を吐いていた。
成すすべなく、地面に転がる。すぐに体勢を整えることはできない。なぜなら、両手足が無くなっているから。
四肢の切り口には、濃い闇の塊がかぶさってきている。それが完璧に出血を防いでいた。
「本物で良かった。さて……」
長い黒髪を垂らしながら、ヴァリは手を伸ばしてきた。それに対して、何も言うことができない。喉が潰された痛みで、展開させていた全ての時場が崩れていた。時間の計測も途切れてしまっている。
仮面が外される。ウィルの素顔が明らかになると、相手は苦々しげに舌打ちをした。
「あの白肉、やりやがった。使命から逃げるなんて。これは、色々と工夫しないとねえ?」
ヴァリはゆっくりと、彼の頬を撫でる。自分の獲物を相手にしているかのような、ねちっこい手つきだった。
「強い男でも、躾ければそれで終わりさ。女王様の前で、あんたをじっくりと犯してやるよ。それからしばらく、不自由なままでいてもらう。安心しな。手足の無いウィルも可愛いからね」
かつては演技をしていたのだと、それで確信できた。ルイシーナを未だ女王と呼ぶその声は、明らかに侮蔑で満ちている。
ウィルは、目をつぶる。覚悟は一瞬で決めていた。
今の感覚で刻める最小の時間。ぴったり〇・一秒前の過去へと跳躍する。
ヴァリの後方へと、出現した。
既に彼女は、反応してきている。恐ろしいほど鋭敏だ。不意を突かれたことの動揺もすぐに打ち消して、手の甲から黒い針を放出させる。
それで、勝利を確信した。
相手の術に時場をぶつける。そうするとすぐに針は消失し、
アルヴの団長の頭蓋へと、突き刺さった。
まだ足りないのはわかっている。相手は、倒れていかない。
地面に転がっている自分の四肢もまた、跳躍させた。
相手の頭から、いくつも血の花が咲いていく。青白い手足がその脳を滅茶苦茶にし、頭蓋骨を無理矢理押しのけて外へと飛び出す。その輪郭だけなら、何かの芸術作品のようにも見えた。
獣のような叫びを、聞いた。
肩に刃が刺さっている。ウィルはその痛みで呻きながら、いよいよ思考ができなくなっていく。
ヴァリは、まだ死んではいなかった。既に頭の原形を留めていないというのに、さらに彼へと反撃を加えようとしている。それはもはや、同じ生物とは思えなかった。人間種よりもはるかに上位の存在が見せる、最後の一噛みだった。
彼女の首へと、黒い煙のようなものが食い込んでいく。
切断された後、首から下だけになった体は、横へと倒れていった。
「ウィル!」
まだフィーリタは、回復しきっていない様子だ。それでも後を追ってきて、決定的な瞬間を見逃さなかった。
助けられたという実感は、すぐに消えていく。彼は倒れている死体を目に入れた瞬間、胃の中がひっくり返るような心地になった。たまらず、何度も胃液を吐き出していく。今まで一番の気持ち悪さがやってきていた。
フィーリタがかがみこんできて、ローブを脱がせてくる。そして彼の肩の素肌まで見えるようにさせ、傷口へと唇を当てた。敵の武具に塗られていた毒が進行する前に、吸い出していく。それを横に吐き出してから、彼女は頬に触れてきた。
「もう終わった。何も心配することはない」
自分の肺が、働くことを拒絶している。必死にたくさん息を吸い込んでいるのに、少しも楽にならなかった。
フィーリタは何度か彼の背中を撫でた後、そっと頭を抱きしめてきた。
「大丈夫、大丈夫……」
彼女の優しさも、今は毒のようだった。それはまさに、吐きそうなほどの自己嫌悪を作り出してくる。今更こうなるはずがないのだ。正しくは、初めてアルヴを自分から殺した時に、なるべき状態のはずだった。
ウィルは既に、答えを掴んでいる。殺し方や自分が傷ついたかどうかの問題ではない。今までは、相手は自分の事を正体不明の術師として扱っていた。ウィルだと認識されてから殺したのは、今のが初めてだったのだ。
おぞましい理屈だった。自分が自分だと知られていなければ、いくら殺しても無感動でいられるのか。冷静ではない頭で、彼は自分の中を刺し続けた。どんどん、ルイシーナの姿が遠ざかっていくような気がした。
だがそんな思い込みも、やがては消えていく。フィーリタの体温が、それを大いに助けていた。頭を撫でることに慣れているみたいだ。徐々に安心感の方が、強くなってくる。
また少し時間を消費した後、彼はゆっくりと立ち上がった。
フィーリタは、まだ両腕を広げている。いつ跳び込んできても大丈夫なように。
「すみません」
「気にするな。……お嬢様にも、よくこうしていた憶えがある。久しく忘れていた」
彼女の目は既に、大講堂の方へと向けられている。
お互いの状態を確認してから、ウィル達は目的の場所へと向かい始めた。
もはや、誰かがいる気配は全くない。長老や残りのアルヴが待ち受けていることも考えていたが、それは杞憂に終わった。大講堂の二階部分にまで到達しても、戦いが起きることはない。
廊下を歩きながら、さらに息を潜めた。部屋の一つでは、かつてのウィルが落ち着かなげに状況の変化を待っているだろう。それに見つかるだけでも、全てが台無しになってしまう。ほとんど足音を立てずに、ルイシーナの自室まで進んだ。
最大限の警戒をしながら、扉を押した。予想とは違い、簡単に開いていく。
鍵が掛けられていなかった理由は、すぐに判明する。中に入って周りを見渡しても、誰も発見することができなかった。ルイシーナは、自室に戻っていない。
フィーリタは途端に落ち着かない様子になった。
「どこかへ、連れていかれたんだ」
何のために、とは考えるまでもない。ヴァリの口ぶりでは、まだ手遅れにはなっていないような感じだった。しかし、このまま発見できずにいたら、そう遠くないうちに全てが終わってしまうだろう。
ウィルは、こういう時こそ冷静になるべきだと、己を叱咤した。大講堂の外にまで行ったとは考えづらい。自分にルイシーナを食べさせる。魂の儀式。アルヴの将来を決める重要な事の準備を行うのは、どこなのか。どこであるべきなのか。
ある記憶が急激に浮かび上がってきて、彼の口を動かした。
「ニーハ」
「え、なに?」
彼女は取り乱すフィーリタの相手をしていたが、彼のただならない呼びかけに応じた。
他のアルヴとルイシーナでは、魔素の扱い方が根本的に異なっている。アルヴは普通、己の中で生成されるものを利用するのに対して、白きアルヴは外から様々な魔素を取り入れて活動するのだ。
「お前、引っ張られたって言ってたな」
「どういうこと?」
「祭具室にいた時だ。具体的にどこから引っ張られてるのか、感知することはできるか?」
ニーハはすぐさま理解したようだ。返事もせずに、全速力で移動を始めた。フィーリタの走力でも追いつくのが難しそうだったが、問題はない。どこに行くべきかは、わかっている。
広間へと降り、地下へと続く扉に向かう。既に大きな穴が開いていた。ニーハは止まることもせず、突き破っていったようだ。すり抜けることもできるだろうに、よほど焦っているようだった。それは、他の全員にも言えることだが。
「ここ。ぜったいここ」
暗闇の中でも、ニーハの体はくっきりと表れている。祭具室の端の方にある敷布に隠されていた床扉を、体で示していた。ウィルの目だけだったなら、見つけることはかなわなかっただろう。かつてルイシーナを助ける方法を考えていたまさにその時点で、彼女に最も近づいていたかもしれないとは。皮肉めいた流れがあることを、思わずにはいられなかった。
ウィルが開けようとしても、重すぎてできなかった。すぐにフィーリタが割り込んできて、軽々と扉を持ち上げていく。
また、階段が続いていた。彼は周囲に時場を展開させながら、できる限り音を立てずに急いで下りていく。まとわりつくようだった暑さが次第に薄れていき、心地よいと言えるほどの涼しさが肌を撫でた。だが、それはどこか気味の悪い感触を起こさせるものでもあった。
たどり着いた先は、一つの部屋になっている。中央の台で寝かされている女性が、一番最初に目に入った。
ウィルとフィーリタは同時に声を上げながら、ルイシーナへと駆け寄った。まるで長い時を経て再会したような気持ちになっている。
「生きてる」
その首に触れると、確かな鼓動が返ってきた。
フィーリタも、ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「調合された入眠薬だろう。とにかく、このまま界壁まで運んで…」
反応できたのは、彼女ではなかった。
その肩にくっついていたニーハが、一瞬でその身を不定形の刃に変え、飛ばしていた。
短い呻き声が、壁の方から聞こえてくる。
闇から滲み出るようにして、アルヴの少女が出現した。左耳が、切断されている。その部分を押さえながら、鋭い歯をむき出しにしていた。
「邪魔をするな」
ロメテは、痛みをすぐに克服したようだ。立ち上がり、前傾姿勢になっていく。
「ウィルくんのためのものなの。取らないで」
それでも万全ではなくなっていたらしい。目の前にまで迫ってきていたフィーリタの足に反応することができず、そのまま蹴り飛ばされる。壁に激突し、床にうずくまった。
フィーリタはさらに追撃を加えようとする。
「だめだ!」
彼女はすぐに、今までウィルが言ってきたことを思い出したようだ。素早くルイシーナを背負い、彼へと目配せしてくる。
彼らは、階段を駆け上がり始めた。正直、先ほどは生きた心地がしなかった。ロメテを下手に殺してしまえば、矛盾が生じるところだったのだ。今は、逃げるしかない。どうにか界壁にまでたどり着けば、次へとつながる。
床扉を乱暴に閉めて、彼らは祭具室を出た。
自分達の呼吸音以外は、ほとんど音が存在していない。鳴き声を発する虫達でさえ、この世界で起こった大量の死に怯えているのだろうか。辺りが暗くなってきていることも相まって、まるで種族世界そのものが死にかけているようだった。
木々の間を縫うようにして走っていると、急にフィーリタが速度を緩めた。何事かと見れば、その背中にいるルイシーナが身じろぎをしている。
「フィー?」
その声は、まどろみの中で揺れていた。