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オルランの一人ぼっち  作者: 矢部涼
4/11

4.過去を変えるために

『変だ』


 こんなのは、何の障害にもならない。

 頭の中では、何重もの壁が生まれていく。それらを突き破っていくごとに、嘲るような声は強くなってきていた。

 認識した結果は、変えられない。

 簡単な言葉遊びだ。最初教えられた時に気づいたはず。あくまで、主観的なものなのだ。自分という意識、魂の連続性を維持するために、主観的な結果が変えられないというだけ。

 その過程は、いじり放題だということ。


『まずいよ。何かがおかしい』


 自分は錯覚に陥ったのだとということにする。ロメテが持ってきたのは別の何かであり、彼女自身、それに気がついていない。そうなるような工作を、過去に仕掛けていけばいい。

 何も、定まってなどいないのだ。ロメテは誰を殺したか、明確に発言していない。だから、手遅れにはなっていない。

 すぐに思いつくのは、入れ替えだ。死体を偽造し、それを本物だとロメテに思い込ませて、過去の自分の元へと運ばせればいい。もちろん、そんな技術は持っていない。死体の作成、複製、加工は重罪だ。だがそれはあくまでも一般の基準であり、そこから逸脱している種族など、いくらでもいる。


『今すぐやめるんだ! 拒絶されて』


 時間が、必要だ。全てを仕組むための猶予が。

 二日三日では足りない。一ヶ月以上は準備に当てなければ。その間、他の者や過去の自分にも気づかれてはならない。心当たりのある種族世界を渡り歩き、あらゆる準備を整えてから、アルヴの世界へと戻る。そして、ルイシーナを。

 頭が、ばらばらに引き裂かれた。

 激痛が、体のあちこちではじける。目に見えない強烈な引力が、手足をそれぞれ違う方向へとちぎってくるような。すぐにウィルは、何も考えられなくなった。声にならない悲鳴をあげながら、のたうち回った。

 目の奥が掻き出される。薄く引き伸ばされ、どこまでも押し潰されていく。上下左右の間隔が無くなっていき、飛ばされているのか、落下しているのか、それすらもわからなくなっていった。

 ある一点で急に全てが止まり、投げ出されるようにして体が転がっていった。壁のようなものにぶつかる。

 暗闇。

 目を開けているはずなのに、何も見えない。両手が、硬い何かに付いている。床なのだろうか。それは少し冷たかったが、一方で周りの空気は蒸し暑いままだった。

 視界が点滅する。頭の奥にじんわりと痺れが広がり始めた。危険な兆候だ。ウィルは何とか頭を振って、意識を失うことだけは防いだ。

 荒い呼吸が収まってきても、闇が辺りを包んでいる。


『平気かい?』

(何が、起きた? どうなってる)

『ちょっと待って。ぼくも慌ててやったんだ。まだ、把握が追い付いて』

(なんでこんなに暗い? 明かりを)


 自分の懐をまさぐる。最重要指定保護種としての心構え。最低限の機能を持つ道具を、常に身に着けておくこと。

 取り出したのは、自宅用の光子鍵だ。あくまで複製されたものではあるものの、特定の操作をすれば本来の働きを取り戻させることができる。だが今は、副次的な機能を利用するだけでよかった。

 先端部分の光が、一気に強まる。それで目の前の壁を照らした。

 どこかの部屋のようだ。アルヴの住居だと考えられる。しかし、ここまで暗いのはおかしかった。どの家のどの部屋も、多少は光が入るような設計になっていたはずだ。今は、夜なのかもしれない。

 光源を左に動かし、他の手かがりを探した。

 ウィルは後ろ向きに転んだ。何かに滑ったわけではなく、自らの許容量を超えた驚きで、全身が跳ね上がったせいだった。

 みっともない声を上げる。立ち上がることに何度か失敗してから、彼はそれへとようやく光を向けた。

 赤い獣の顔。初めは生きていると思い込んでしまったが、それはただの仮面だった。前に、ルイシーナが被っていた。暗闇から急に現れるものとしては、これほど心臓に悪いものもない。

 少し横を見ると、長めの衣装も立て掛けられていた。これも、見たことがある。アルヴの長老が身に着けていたローブだ。そばに手をかざすと、ひんやりとした空気が流れてくるのがわかった。

 彼は深呼吸をしてから、その場に座りこんだ。


(どうなってる)


 ホロが、天井から生えてくる。こんなものでも、見ると安心できてしまうのが悔しかった。


『ここは、祭具室だ。大講堂の地下にある』

(なんで、まだアルヴの種族世界に…)

『できなかったんだよ』


 それは珍しい顔をしていた。焦りと、恐怖の表情。


『一日半以上前、つまりアルヴの世界に入るよりも前に戻ろうとした瞬間、壁に阻まれた』

(界壁か? お前、そんなのは簡単に超えられるって)

『だからおかしいんだよ。完全に封鎖されてる。跳躍の力さえ拒絶する何かが働いているんだ』


 それが結局何を意味するのか。ウィルは何度も考えて、時間を浪費した。普段ならそんな行動を侮蔑する側だったはずなのに、続けていた。

 もう一度挑戦する気にはなれない。さきほどまでの苦痛は、壁に拒絶された時のものだろう。あれは、意志の力などでどうにかできる痛みではなかった。無理矢理突破しようとするのは、自殺も同然だ。

 そこまで考えて、自分を落ち着かせる。

 現状の把握が先だった。


(今は、いつだ?)

『壁に弾かれた後、ぼくが独断で未来への跳躍を行った。きみほど正確には測れないけど、おそらく、一日と数時間前』


 手で口を覆いながら、ウィルは思考に集中する。


(つまり、広間での歓迎会が中断された後か?)

『そう。結構経ってはいるみたいだけど。誰かが入ってくる可能性が、一番低い場所を選んだ』


 呑気な方の自分は、個室で眠っている頃だろう。ひとまず動く必要はないとわかり、彼は息を吐き出した。途中で震えて、最後までは続かない。胸の鼓動が、首元まで届いてくるようになる。

 これで、結論は出た。わずかな時間しか遡れないために、必要な準備ができない。今回の目的の達成は不可能。

 黙れ。

これは解決しなければならない問題であり、できるかどうかは関係ない。だから、取り組まないという意見を持つ自分を八つ裂きにした。


(界壁を、どうにかしないと。誰かに…、直してもらう)

『なるほど。種族世界の界壁に干渉する権限があるのは』

(その種族の長)


 ルイシーナは、あらゆる術の扱いに長けている。界壁の異常にも詳しそうだった。

 彼女を連れ出し、界壁まで一緒に行く。直ったところを確認してから、再び跳躍を始める。今手持ちにある情報を利用した中では、これ以上の方針はない。 

 問題は、彼女そのものの扱いだった。もし安易にルイシーナを外へと逃がしてしまえば、今までの事実と矛盾が生じる。時間軸の分裂によって、確実に自分は死ぬ。彼女をこの世界に留めたまま、全てを進めなければならない。

 いよいよ、立ち塞がってくる障害について考えなければならなかった。

 仮説その一。

 ロメテもまた、回帰主義者だったということ。上手く潜入し、ルイシーナを殺す機会をものにした。これは、ほとんど信憑性のない考えだ。なぜなら、彼女は自分を殺そうとはしていなかったから。

 ──わたしたちの王になるの。

 この言葉が自分に向けられたものだとしたら、それはあまりにアルヴ回帰主義の考えとかけ離れている。別の種族をアルヴの長にさせようとするなど、ありえない。

 仮説その二。

 実は、回帰主義者の考えは逆だったということ。外部の要素を拒絶しているのは回帰主義ではない側の考えであり、ロメテがルイシーナを殺した意図は、別の部分にあった。これは、一番駄目だ。仮定に仮定を重ねてしまっている。

 仮説その三。 

 そもそも回帰主義者などという存在はまやかしで、外部の目を核心からそらさせるためのものでしかなかった。どのような考えが本物だったにしろ、ルイシーナの殺害は必要な手段であり…。

 肩の重さが、さらに増した気がした。ほとんどの仮説が、敵が少数ではないことを示している。歓迎会でのことを考えると信じたくもない事実だ。しかし解体された死骸の幻影が、その疑いを捨てさせてくれなかった。


(戦力が、足りない)


 ホロは耳を揺らした。


『この力は、強いよ。勝てる見込みはある。それでもかい?』

(もし最悪の事態になってたら、多分無理だ。せめて)


 さらなる衝撃が、ウィルを打ちすえた。壁に手を突き、どうにか倒れることだけは防ぐ。

 壁に掛けられている仮面を見て、今まで自分が認識してきたことを思い返した。

 ロメテの行動と対立するようなことを、行った者がいる。ロメテは自分を何かに利用しようとした一方で、あのアルヴは自分を殺そうとしていた。そこに、事態の解明へとつながる何かがあるのではないか。

 今の段階では、かなり強引ともとれるような考えだった。しかし、フィーリタの話を聞くことが、重要なことに思えてならない。このまま暗中模索を続けるよりは、はるかにましだ。

 指の先が、赤い牙に触れる。

 自分が認識したことを、変えてはならない。裏を返せば、それに従ってさえいれば何を起こしても問題はないということ。

つまりフィーリタの脱走は、外部からの侵入者が仕組んだのではなく。


『どうするの?』

(また未来に、跳べるか?)


 白い獣は肩をすくめた。


『できなくもないけど、きついね』

(お前の方に、負担がかかるのか)


 よく見てみれば、毛並みがやや乱れていた。明らかにホロは、疲弊している。ウィルの比ではない。


『繰り返せば、ぼくは耐えられない。なるべくやらないでくれると助かるよ』

(なら、しばらくはここで待機だ。三時間くらいは)

『それからは、どうするつもり?』

(まずは、俺の荷物を盗む)


 首をかしげるホロを脇目に、彼は仮面をつかんだ。そして同時に、横にあったローブも取り外していく。

 どのような行動をするにしろ、誰かに見られることは避けられないだろう。その時、こちらがウィルであることを気づかれてはいけない。相手に知られれば、過去の方の自分を抑えようとするかもしれないからだ。そうなれば確実に、自分の認識したことからずれていってしまう。

 だから顔を、姿そのものを隠さなくてはならない。

 かなりの気味の悪さを感じながら、薄緑のローブを身に纏った。







 自分の寝顔を見ていると、妙な気分になる。

 幸い、部屋に余計な存在はいなかった。ウィルは物音を立てないようにしながら、床に置いてある鞄を手に取る。

 首を回して、仮面を外す必要がないことを確認した。どうやら、目の部分に仕掛けが施されていたらしい。傍目からは完全にふさがれているように見えても、実際は十分な大きさの穴が空いている。さすがにルイシーナも、両目が見えないまま踊ることは厳しかったようだ。

 荷物を持ちながら、再び過去へと跳ぶ。

 場所のずれは、跳躍を始めた所が起点となっている。過去の自分や、他の様々な物体と〈重なる〉のを防ぐための処置。これを利用すれば、楽に移動することが可能になる。

 ホロの調節は、正確だった。二回ほど細かい跳躍をして、再び祭具室へと転移する。合計で一時間ほど前の時点に戻っているはずだった。

 いつも学園で使っている、合成革の鞄。その中に向けて、声をかけた。


「おい、ニーハ」


 鞄の口から、細い煙のようなものが出てくる。それはまるで、相手の機嫌を伺っているような恐る恐るとした動きだった。


「だれ……?」


 その黒い煙から、少女の声が漏れてくる。


「俺だ。ウィルだよ」

「うそだ。なんでそんなこわいのつけてるの?」

「事情がある。顔を知られたくない」

「じじょー?」


 彼は頭をかいた。普段はほとんど会話することがないため、失念していた。自分の鞄の中を住まいの一つとするこの非実体種族は、あまりちゃんとしているとは言い難いのだ。


「これは、おしゃれだよ。わかるだろ?」

「でも、そんなにかっこよくないよ?」

「お前の力が要る。協力してくれ。頼む」

「めんどくさいけど、ひさしぶりだし。わかった。しょーがない」


 黒精種(オヴニ)のニーハは、ようやく外へと完全に姿を現した。周りの闇よりも、やや色が濃くなっている。はっきりとした体やその他の部位を持たないため、その濃い黒で存在を確認する必要があった。


「この鞄と、俺の口を覆ってくれ。他からは見えないように」

「えー……」

「帰ったら、屋根裏の穴全部塞いで真っ暗にしてやるから」

「やくそくだからね」


 これで、より正体を知られる危険性は低くなった。外見はかなりおぞましいものになっているが、今はこれくらい用心した方がいい。むしろ、足りないくらいだ。

 ニーハは耳元にまで体を伸ばしてくる。


「ここ、なんかきもちわるい。ひっぱられるかんじする…。はやくでよ」


 彼女が暗い所を忌避するのは、初めてだった。


「同感だよ」


 今度はさらに短い時間を意識しながら、跳躍を開始した。

 ただの球体にやるのとでは、やはり感覚は違ってくる。しかし、思っていたほど難しいものでもない。自分はいつの時点にまで戻るのかを意識すればいいからだ。現れる場所の指定は、ホロがやってくれる。役割の分担は、かなり重要だった。

 離れにある地下牢は、一度目にしたことがあった。この世界へ来たばかりのころ、大勢のアルヴに先導されながら紹介された。対立している勢力を一時的に捕縛しておくための施設とのことだったが、まさか自分から向かう羽目になるとは思ってもいなかった。

 小刻みに跳躍を繰り返し、過去へと戻りながら、転移を重ねていく。転移先の状況把握は、ほぼ一瞬で行わなければならなかった。たとえ誰かがいたとしても、すぐに跳べば気のせいだと思ってくれるかもしれない。

 綱渡りなのは、今更だ。もっと繊細な、時間そのものを相手していると言っても過言ではないのだから。

 そうしてウィルは、地下牢の中へと出現した。他の場所では、ルイシーナと過去のウィルがお互いのことについて話している頃だ。

 気配があるのは、一番奥の方だった。

 目を凝らして、壁のそばに立っている存在を確認する。周囲に溶け込みかけているほど薄くなっているが、アルヴの特徴的な色の肌が動いていた。フィーリタではない。牢の外にいて、透身術を使用している。見張り役と考えて間違いなさそうだった。

 その影が一歩近づいてきたので、すぐさまウィルは口を開けた。声を加速させて、正体が露見するのを防ぐことも忘れない。


「中にいる回帰主義者と話をさせてくれ」


 目の前で、狂暴な顔が黒い光を散らせた。

 気を抜いていたわけではない。だが、ここまで相手の躊躇がないとは思っていなかった。

 事前に時場を張っていなければ、首を食いちぎられていただろう。


「気持ち悪い力場ね。雇われた術師さん?」


 気だるげに言葉が紡がれていく間、複数の攻撃が行われていた。周囲の闇が蠢き、刃となってウィルへと突き立てられる。

 その全てが、彼の周囲を覆う減速の壁によって防がれていた。しかし、全く安心はできない。完全に止まっているわけではないので、放っておけばそのうち体へと到達してしまう。

 次の言葉を出そうとして、固まった。おそらく、アルヴ以外が来たら即座に排除するよう指示が出ていたのだろう。外部の者がフィーリタと接触するのをよほど避けたいようだった。

 後ろへと、避難することもできない。少し呆気に取られている間に、背中の方にも相手の刃がやってきていた。まだ黒い刃で埋まっていない視界の中で、妖艶な雰囲気のアルヴが鋭い歯をむき出しにしている。


「殺さないわ。安心して」


 今まで一度も試していないことを、しなければいけないのか。

 ウィルが覚悟を決めかけた瞬間、その声が頭の中で響いてきた。


『二つの時場を、相手の両耳に』

(あ?)

『早く! 今彼女の魔素を乱せば』


 直接手で触れなくても、術的な干渉ができる柔軟な領域。力場と呼ばれている。それに倣う形で、ウィルは時間的干渉が可能な領域を、時場と名付けていた。研究はそれなりに進んでいたが、まだわからないことは多い。その未知の部分を、ホロの方がわかっている場合もあった。だから即座に、指示に従って操作をする。

 右耳に加速を、そして左耳に減速をかけた。この時間的な力は他の誰にも認識できないらしく、避けることも防がれることもなく、効果が発揮される。

 看守のアルヴは目を見開き、表情を苦悶で歪め、


『簡単に殺せる』


 頭を破裂させて、前のめりに倒れた。

 その光景を見た瞬間、全ての時場が消え去っていく。飛び散った血が妨害されることなく、ウィルの体にもかかった。

 胸の一部が、ざわつくような感触。目が自然と下がっていき、硬い石の床に転がっている凄惨な死体を見た。膝が震え、前にふらつきかける。広がっていく血だまりを踏んでしまい、その感触でついに吐き気がこみあげてきた。壁に手をつき、胃が捻じれていくような感触に何とか耐える。

 あえぎながら、口を手で押さえた。

 殺した。たった今、自分は重大な罪を……。


(お前、何を)

『呆れた。今更? わかってるくせに。もうほとんどのアルヴには、生かす価値なんてなくなってるよ』


 考える。

 他者の魔素を操ることは、不可能に近い。だからこのアルヴは、そうされる可能性など少しも考えずに、術を重ねていった。制御器官である耳に時間の加減速を与えたことで、魔素の流れが乱され、ぶつかり合い、ちょうど中心の頭で暴発したのだ。

 この力は、魔素そのものの時間にも干渉が及ぶ。

 さらに深く考える。

 重要指定保護種の殺害は、間違いなく重罪だ。たとえ加害者側がどんな地位にいようとも、命で償わされる可能性が高い。死罰を拒否し、逃亡すれば、あらゆる種族から追われる立場になるだろう。

 これは、正当な防衛に当たるのかどうか。ウィルはひたすら考え続けることで、相手の頭が破壊された瞬間を忘れようとしていた。同じ言葉を喋る生物を初めて殺めた感覚を、消し去ろうとしていた。

 その試みは、予想していたよりも簡単に成功する。前にもっと陰惨な死体を見ていなかったら、ここでくじけていたかもしれない。

 おそらくエラという名前であろうアルヴをまたいで、一番奥の牢の前に立った。

 気分は、最悪のままだった。映像や文章が伝えてくるおぞましいあれこれ。それらは本当に、茶番でしかなかったのだ。

 硬い格子の向こうで、フィーリタは少しだけ身じろぎをしている。血や他の気の滅入るような臭いを感じてもなお、その体の状態の方に意識が向かった。

 両腕がない。十分な手当てはされていないようだった。薄い服の布に、赤い染みが広がっている。右肩の皮と肉が削げていて、骨の一部が露出していた。そして耳も両方切り落とされており、垂れ下がる銀髪から覗くはずの左目は、ない。鋭い刃物で抉り取ったような傷だけが残されている。

 今度こそ我慢できずに、ウィルは少しだけ吐いた。

 善悪、敵味方の判断が曖昧になっていく。確かにこの女性は、自分へと危害を加えようとしてきた。だが、ここまでのことをされる正当な理由になるのだろうか。仮にも同種族であるはずなのに、他のアルヴはこんな。

 格子扉は、固く閉ざされている。少し押しても、びくともしない。彼は手の震えを何とか抑えながら、集中した。

 鍵を探す必要はない。これくらいの障害なら、乗り越えられる。ほんの少し前に戻って、体の座標をずらせばいい。だが、上手く調節する必要がある。戻り過ぎればまた見張りと対することになるし、そもそも過去の自分に見つかるような真似は厳禁だ。


「そ、こ」


 肩をびくつかせてから、ウィルはまだ冷静とは程遠い状態にいることを自覚した。

 無事な方の瞳が、しっかりと彼を捉えてきている。フィーリタは顎をわずかに動かし、転がっている死体を示した。

「腰に……」


 最後まで聞くことなく、彼は動き出した。飛び散った脳漿に触れても何とか我慢しながら、体を探る。そしてすぐに、古典的な金属製の鍵を見つけ出すことができた。

 牢の中に入り、彼女から少し離れた所で止まる。


(大丈夫だよな? 球体では簡単だったんだ)

『跳ぶ前に彼女の傷を治した方がいい。負担がかかるから』


 理想とは、まるで違っていた。新しいことを試すのは好きだ。だが失敗の許されない本番がこうも連続でやってくると、文句の一つも言いたくはなる。

 一歩近づくと、フィーリタもまた動いた。わずかに体を横にずらす。それを警戒の表れだと解釈し、ウィルは両腕を掲げた。


「治療します。何も危害は加えません」


 加速も減速もさせていない、素の声で言った。彼の正体を察したのだろう、フィーリタは大きく息を吸いこみ、何かを言葉にしようとした。

 その隙を見計らって、まずは彼女の顔に触れる。嫌がるようなそぶりを見せたものの、直後起きたことで、彼女は驚いたように息を吐き出した。大きな傷のあった頬の上の部分が綺麗になり、そして痛々しく欠けていた目もまた、元の形を取り戻していく。

 治った目が大きく開かれていくのを確認してから、ウィルは側頭部にも触れていった。巻き戻しは、耳の肉にも作用している。両耳が再生されていく途中で、肩と腕の方にも同じことをしていく。一呼吸する間に、彼女の体機能が全て取り戻された。


「お」


 即座に、ウィルはフィーリタの肩を掴んでいた。彼女の表情の動き、声の張り方から、明らかに有効的な反応ではないと直感したからだ。

 そして、景色が一気に切り替わる。


「ま、まえは……」


 彼女は少しだけよろめいた。素早く周りを見渡してから、すぐに彼へと視線を戻してくる。動揺してはいるものの、すぐに立て直したようだ。今最も警戒すべき相手はウィルだと、仕草で伝えてくる。

 木々の向こうで、何かの声が聞こえた。およそ数分前に戻っているから、死体が発見されたわけではないだろう。そもそも、まだ過去の自分は地下牢にぎりぎり到達していないはずだ。

 ウィルはゆっくりと仮面を外し、慎重に首を振った。


「静かに。他にばれたら、大変なことになります」


 確実に、胸を貫かれたと思った。

 相手の手が突きつけられている。その指先は、わずかにローブに触れているだけだった。それでも、鋭い凶器を向けられているような威圧感があった。


「何が目的だ、人間種(フーニ)。私をさらに辱めるつもりか?」


 一度、そのしなやかな腕の勢いによって繰り出された槍で、肩を傷つけられたことを思い出していた。目の前の相手は自分を屠るだけの力があり、今もなお悪感情を向けてきている。

 その事実が、彼の思考を急激に鈍らせた。何かを言うべきなのに、口から声が出ない。彼女が腕に力を込めたのがわかっても、何も思いつかなかった。


「俺は跳躍者(リプナー)です。ルイシーナの死を防ぐために、未来からやってきました」


 口が勝手に動いた。

 そして足が前へと踏み出され、自分から胸を相手の指に押し当てる。まるで命を預けると言わんばかりに。

 フィーリタの剣呑な雰囲気は、やや乱された。


「ふざけたことを」


 さらに続けようとする前に、彼女は視線を動かした。そして唖然としたような顔になる。


『本当さ。ぼくがその証だよ』


 ウィルは別の驚きで、逆に平静な状態へと引き戻された。フィーリタは明らかに、ホロを視認している。その声も、はっきりと聞こえているみたいだった。

 ホロは黒い目をじとりと向けてくる。ウィルは無抵抗を示すように両手を見せながら、ようやくまともにフィーリタと目を合わせた。


「他のアルヴ達は、何かを企んでいる。そうですね? そしてその達成には、俺が必要だった。だから貴方は、俺を排除しようとした」


 フィーリタは黙っているままだ。肯定を意味しているのは明らかだった。あまりにも短絡的で馬鹿な行動だったと、指摘したくなる。だが、今はそうするべきではない。

「お願いします。信じてください。ルイシーナを救うためです。とにかく、貴方の話を聞きたい。どこか落ち着ける場所はありませんか?」

 彼女はウィルとホロを交互に見つめていた。やや、白い獣の方へと重点的に意識が向かっているようだ。

 しばらく沈黙が続いた後、少し遠くから怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。複数の女の声。おそらく、死体が見つかったのだろう。

 それに大きく反応し、彼女は耳をわずかに下げた。そして、構えていた手を元の位置へと戻していった。


「ここからかなり歩いた所に、隠れ家がある。お前が私の足についていけるのなら、考えてやってもいい」


 ウィルは仮面を再びつけながら、小さく首を振った。


「いえ、わざわざ歩く必要はありません。跳躍すればあっという間ですから。むしろ、かかる時間はマイナスになります」

「おい、やめ」


 できるだけ相手よりも、精神的優位に立つ必要があった。彼女が跳躍の感触に不慣れなことはよくわかる。だからウィルは有無を言わさずに、彼女の肩に触れて始めた。



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