3.アルヴの種族世界
彼女達に嫌われる方法とは、一体どのようなものなのか。
それをひたすら考え続けることで、何とか平静を保とうとしていた。
「ねー、やってみてよ」
「右耳が、永遠の友情。左耳が、永遠の愛。ウィルくんは、どっちにしてくれるの?」
湿度が適度に保たれている。木造りの建物の周りには、青々とした植物が生い茂っていた。降水量が限られてくる乾季においても、この集落は潤いに満ちている。術的な力が働いているに違いない。
ただし、気温は高いままだ。ウィルも動きやすい服装で来ていたが、周りにいるアルヴ達には敵わない。
もし、面倒な制約がなかったら。彼は俯く。絶対に、ルイシーナについていった選択をなかったことにしただろう。これほどやり直したいと思ったのは、初めてだった。
彼の両肩に、一体ずつ女性が乗っている。いくら彼女達が小さな子共の体格をしているとはいえ、ウィルでは支えきれない重さだ。しかし、実際は崩れることはない。彼女達は自発的に浮いて、負担を減らしていた。
「少し暑いので、離れてもらえませんか?」
左右のアルヴは、無邪気に笑っている。
「なんでかしこまってるのー?」
「わたしたち、まだ子供だよ?」
お前らの方が実際は年上だろ。そう返せるほど、ウィルは余裕を保ててはいなかった。積極的にまとわりついてくるのはこの二体だけだが、少し離れた所で他の大勢が取り囲んできている。どこを見ても、褐色の肌しか映らなかった。
「早くしてよ」
「そうだそうだ」
「具体的には、何をすればいいんでしょうか?」
右肩にいた、短い黒髪の方が逆さまに浮かぶ。頬にえくぼを作りながら、ウィルの目の前に耳を向けてきた。ルイシーナのものよりも、やや太い。
「おまじない。相手が、わたしたちの耳を小指で触るの。右だったら、友情。左だったら愛を誓うってこと」
ウィルは、そういった明確な根拠のないものが大嫌いだった。
「それはつまり、そちらの魔素器官の特性に関係していると?」
左肩に乗っていた、濃い金髪の少女が首をかしげる。
「まそ?」
「貴方達の種族で言う、恵素です。右耳と左耳では、その性質が違っていると聞きました。それがおそらく、おまじないとやらの起源に関係しているのではないかと」
「ウィルくんは、」
黒髪のアルヴが、泣きそうな表情になる。明らかに作っているとわかる不自然さだったが、今の彼には判別ができなかった。
「わたしたちに、したくないってこと? ごめんなさい、そこまで嫌われてるなんて…」
周囲のアルヴ達から、すぐさま笑顔が消えていく。これもまた大げさな演技じみていたが、当然ウィルにはわからない。
これだから。
彼は偏見というものを嫌悪していた。しかし、今だけはそのことを無視している。これだから、感情的な種族は嫌なのだ。こちらの話にまるで取り合おうとしない。距離の詰め方も、おかしいくらい強引だ。もし男のアルヴがいたら、少しは違っていたのだろうか。
結局、彼女達の要求に従うことになった。それぞれの右耳に、小指を付ける。大したことではないはずなのに、なぜかいけないことをしている気がした。そうした途端、興奮したように飛んでいく彼女達の反応もまた、それを助長している。
そしてさらに、他のアルヴも同じことを求めてきた。来客用の広間で、行列ができる。中には成熟した女性も含まれていたので、追いつめられるような感覚がより強くなってきていた。 そしておかしな点にも気がついたが、口に出すことはしない。
最後のアルヴは、一番背が高い相手だった。ウィルが指を近づけた途端、その手首を強く握りしめてくる。彼が思わず身を引くと、豪快に笑う。鋭い歯が、野性的な魅力を与えていた。
「初心で可愛いじゃないか。女王様もいいのを連れて来たねえ」
彼の中で、一気にフィーリタの評価が上がった。彼女だけは、壁に寄りかかって待っている。銀髪を解き、前よりも若々しく見えるようにはなったが、この場にいる誰よりも落ち着いている。単にウィルが気に入らないという可能性の方が高いが。
ここへきて初めて、ホロとの会話が恋しくなってきた。いけ好かない獣とはいえ、興奮しているアルヴを相手にするよりはましだ。しかしそれは、夢中になって女性の集団の間を飛び回っているだけだった。
「それくらいにしておきなさい。こちらの準備も整ったからの」
落ち着いた声が、周りの者達を静かにさせていく。
奥の方の扉から、腰の曲がったアルヴが出てきていた。顔には深い皺が刻み込まれており、この中にいる誰よりも歳を重ねていることがわかる。姿勢は悪いが、歩き方そのものはしっかりとしていた。
その周りには、冷気を発する光が飛び回っている。そのおかげか、薄緑の長ローブを着ていても平気そうにしていた。
ウィルは、ゆっくりと瞬きをした。この老アルヴを見た途端、妙な引っ掛かりを感じたのだ。まるで、見覚えがあるかのような。
彼女は近づいてくると、小さく頭を下げた。
「ウィルさん。お元気そうで何より。随分と見違えた」
「……えっと、すみません」
細い指を口元へと持っていき、相手はくすくすと笑みをこぼした。
「憶えていないのは当然。会ったのは、十年前になる。シカウス夫妻のことは、残念だった」
「お気遣い、ありがとうございます」
反射的に言葉が出た。自分でもよくわからないことで、気を遣われる機会は少なくなかったから、自然と身に付いた答え。それでもこういう会話をしたのは久しぶりだった。
ようやく、ウィルの周りの密度が小さくなってきた。他のアルヴ達は皆、床に座り始めていた。底の深い変形鍋のふたを開け、白い湯気を次々とくゆらせていく。辛みのある味付けがされていそうな具材の匂いが、漂ってきていた。
(こういう、種族的なのはいいな)
『あそこ見てよ。谷間に汗』
鍋から見える汁の色は、薄い白。所々に、混種生物のものと思われる肉が浮いている。調味加工された血液が、周りに滲み出していた。
少し気楽にはなったものの、まだ視線が痛い。ほぼ例外なく、彼女達は自分を見てきている。男が珍しいのはわかるが、それだけでは済まされない何かがあるような気がしていた。
やがて彼女達の話し声も、次第に小さくなっていく。注目の方向もまた、ウィルから別へと変わりつつあった。
アルヴの長老が、目の前の空気を歪める。そして頬を膨らませると、一気に歪んだ部分へと息を吹き込んだ。
鈍い音が響き渡り、広間の一番奥まった場所にある扉が開かれた。
そこの暗がりから、華奢な女性が歩いてくる。白を基調とした流れるような長い衣服。その胸の部分には、淡い緑の布がかけられている。それは力場によって浮いていた。わずかな風にそよぎ、複数の葉が舞っているような光景を思い起こさせる。
ルイシーナの顔は、赤い仮面で覆われている。肉食生物の骨が使われているようで、細く伸びている牙の隙間から、彼女の口元が見えていた。
目の部分が完全にふさがれているというのに、彼女は何の迷いもなく踊っている。下の裾から伸びる足が、滑らかに動いていく。回転を主軸とした舞だったが、時折浮き上がることで、単調さを完全になくしていた。
アルヴは、大地信仰を主としている。彼女が腰を曲げ、床から何かをすくい上げるような動作をしたことも、それに関係しているのだろう。宗教観の違う天理種とは折り合いが悪いという噂も、どこか真実味を帯びてきていた。
ウィルは圧倒されていた。希少な種族の空気に触れるいい機会だとか、その踊りには魔素の流れが組み込まれているだとか、そういう分析もまた、どこかへと流されていく。
彼女が種族の長なのだと、改めて思い知らされた。普段纏っている雰囲気は消え、こちらを覆いつくすような威容だけが表れていた。だがそれは恐怖を産むものではなく、むしろより自分を惹きつけてくるものだった。あまり認めたくなくて、途中からまともに見ないようにした。
長老が、彼女のそばへと歩いていく。いつの間にか、その皺だらけの手にはどくどくと波打つものが乗せられている。
ルイシーナは、それへと手を突き入れていく。恵みを重視する種族らしく、新鮮な臓物に怯むことはなく、両手を血で染めていった。湿った音が、しんとした空間の中で伝わる。
真っ赤になった手のひらを、彼女は自らの胸へと押し付けた。白い布が汚れても、かき回すようにして続けている。
その背中部分から、一瞬で力場が伸びていった。
ルイシーナの口から、意味の汲み取れない言葉が流れ出していた。アルヴに伝わる、独自の言語のようだ。共通言語が制定される前は、こうしたものであふれていたという。
その意味を、推定する余裕は与えられなかった。気がつけば自分は立ち上がっている。彼女の強力な術が働き、その元へと勝手に引っ張られた。
周りは、歌っている。これも共通言語ではない。何かを囃し立てているようで、背中のあたりが落ち着かなくなった。少し抵抗しようとも試みたが、次第に近づくルイシーナの姿に意識が引っ張られ、何もできない。
これは、おかしい。明らかに客人を歓迎する儀式ではない。ウィルは、目の前の力場よりもずっと大きな何かにからめ取られている錯覚へと陥った。自分はここで解体されて、鍋の中に入れられるのだと、非論理的な考えに支配されかけている。
「恵みを受け入れなさい」
その声の圧だけで、押されたような気がした。一歩下がろうとしても、体が動かない。
目の前に肉塊が差し出される。明らかにちゃんとした処理がされていないとわかるもの。手で触るだけでも嫌なのに、彼女はこれを食べさせようとしているようだった。
血の臭い。そして、次第に大きくなっていく周りの声。それらの感覚が体中を駆け巡り、視界が一瞬だけ歪んだ。床が急に揺れた感じがして、慌てて足を動かした。
体が一気に崩れる。だが、尻もちをつくことはない。ルイシーナの術に支えられる形になった。それは、もはやどこにも逃げられないということも意味している。
アルヴの白き女王はかがんで、こちらに目線を合わせてくる。赤い獣の仮面が眼前に広がり、その迫力に負けた。その牙で噛みつかれるのではないかという恐れが、あっという間に広がっていく。
牙の間から見えている口がわずかに開き、吊り上がって。
気の抜けたような声をこぼした。
笑いが、周りにも伝染していく。ウィルが少し首を動かして確認すると、一番可笑しそうにしているのは間違いなくルイシーナだとわかった。彼女は仮面を外して、目元に涙を溜めながら、お腹をさすっている。彼女がこれだけ声を上げて笑っているのは、初めて見た。
「貴方の顔といったら! 長老様、見ました?」
「歴代で、一番の成功じゃな」
周りのアルヴ達も、興奮したように言ってくる。
「可愛かったよ」
「ウィルくん、素敵!」
「取って食われるとでも思ったのかい? ふふ」
絶種させてやる。
頭に浮かんだ言葉は、すぐに消えていった。
まだ、終わっていないと気がついたからだ。よくある手段。もう何も起こらないと安心させてから、本命をぶつけてくる。
だが、それは明らかにただのいたずらではなかった。
『時場を! 今すぐ──』
銀髪が、天井付近で舞っている。うっすらとしか見えていない。透身術だ。護衛であるはずのフィーリタが、明確な殺意を持って、武器を構えていた。
ルイシーナが。
すぐさまウィルは展開を始めた。目の前にいる白きアルヴを守るため、減速の壁を作り出そうとする。
しかし、そこで頭の回転が止まった。彼は、完全に間違えていた。フィーリタが狙っているのは、ルイシーナではなかった。
二つ目の時場を広げる。最初のものよりも小さく、精度も不十分だった。
相手の槍の先端部分が、肩に突き刺さる。こちらの力がそれ以上の進行を留めてはくれたものの、すぐに強烈な痺れを感じた。
毒。武器に塗られていたのだ。
誰かが名前を呼んでいる。大量の血が顔に降りかかってきた。生暖かい。様々な感覚が遠くなっていく。
視界が真っ赤に染まるのを感じながら、ウィルの意識は暗闇の底へと落ちていった。
「結魂とか、興味ある?」
「はい?」
目を覚ましてからすぐに、黒髪のアルヴが抱き着いてきた。名前は、ロメテ。前に、ウィルの右肩に乗っていた少女だ。かなり心配していてくれたらしく、その両目は濡れていた。しかし彼女が喋り始めると、すぐに他のアルヴによって部屋の外へと引っ張り出されていった。
彼に割り当てられた個室には、ルイシーナだけが残った。彼女だけが、使われた毒の抽出を行えるらしい。自分が寝ている間にある程度進めていたらしく、既にかなり体調はましになってきていた。
「背中を、こちらに向けてください」
ためらいの気持ちがあった。彼女にあまり見てほしくないものが刻まれているからだ。だが結局は、指示に従う。
少し間があってから、彼女は処置を再開した。
「意外と、鍛えているんですね。もっとたるんでいるのかと」
「瘦せてるだけだよ。あのな」
顔を後ろへ動かすと、思いのほか近くにルイシーナの瞳があった。ウィルはすぐに視線をそらしてから、口元を緩める。
「別に、気を遣わなくていい。お前らしくもない」
種差し指が、背中の一部分に触れてくるのがわかる。ほんの少し、暖かいような気がした。
「この傷は…、どうしたんですか? それなりに経っている」
「八年前のものらしい」
「それは、」
見なくても、彼女の表情が曇っていくのがわかった。
「貴方の、ご両親が……」
「そう。俺もやられそうになったんだって」
軽い口調で、繕っているとは思われたくなかった。
本当に、実感がないのだ。およそ八年前、モドゥナ・シカウスとリカド・シカウスの自宅が襲撃された。当時三人しかいなかった人間種の居住場所であるために、強力な防護が施されていた。それなのに何者かが侵入して、夫妻を殺害したのだ。
「これも、言っていいのかはわかりませんが」
「気遣いがすごいな。年の功ってやつ?」
彼女は鼻を鳴らして、耳をつねってきた。それから整理するような時間を置いた後、先ほどよりもはっきりとした声で続けてくる。
「貴方の傷を治す時、少しだけ魂の状態も見ました。あれは…どういうことですか?」
「どう、とは?」
「形に一貫性がありません。まるで途中で、継ぎ足されているような」
ウィルは、目の前の壁を見続けるように努めた。
「襲撃犯が、俺の魂の半分くらいを持っていったんだ」
「そんな、ことが」
「つまり、相当やばい奴だってこと。で、駆け付けたギデオンが、俺の中に魂を足したんだ。……自分のものを、削って」
魂の存在は、既に証明されている。魔素を引き付けるもの、非実体器官。様々な別名があるが、種族そのものの特性を含んでいることは確かだ。魂が、種族を形作るとまで言われている。それに関する技術は、かなり高度なものだった。
つまり、ウィルの中には人間種と天理種両方の要素が入っているということだ。だが彼は、それを実感できたことがほとんどなかった。
その中の例外に、ルイシーナはすぐ思い当たったようだ。寝具の上を膝立ちになりながら移動し、こちらの正面まで回ってくる。
少し前までは、考えられないはずだった。会うのは学園の中だけで、試験の点数以外の話など、ほとんどしたことがない。それが急に、ルイシーナの故郷に行って、自分の事情を打ち明けるまでになっている。
彼女の手が伸び、ウィルの目尻に触れた。目のやり場に困り、彼は斜め上を何となく見続けることにした。
「これも、ギデオン様の影響ということですか?」
「そう。つまり、偽物の緑子ってわけ」
緑色の瞳は、天理種のごく限られた者しか持たない特徴だとされている。そのほとんどが、やがて光輪を得て、世界の制定者として名を残すことになった。できることなら、別の色に染めてしまいたい。今のままでは、あまりに滑稽だ。
目の前のルイシーナは、小さく首を振った。
「いいえ、偽物などではありません」
「いや、でも」
「ギデオン様が、貴方を助けるためにした行いの結果です。そこに真偽は必要ない。わかりますか?」
「ああ、うん」
「家族の恩を、歪んだ目で見てはいけません。私でも、わかります。ギデオン様は貴方を愛しておられる。それにどう応えるか。一番大事なのは、そこではありませんか?」
少しの痛みを我慢して、ウィルは両手を掲げた。
「わかったよママ。降参降参」
「貴方のそういう、すぐ冗談でかわすところは好んでいません。さあ、背中を向けてください」
「あ? お前の方がこっちに回ってきたんだろ」
「不孝者なんですから、それくらいはしなさい」
「ほんとに母親みたいだな」
少しの間会話が途切れた。
しかし、彼女はまだ気になることがあったようだ。手を動かしながら、再び声をかけてきた。
「あまり、思い出したくはないかもしれませんが。襲撃犯の姿は、見たのですか? 今も捕まっていないと聞きました」
ウィルは頬をかいた。
「あー、それなんだけど。全然憶えてないんだ」
「え?」
「というか、そもそも俺には、八歳以前の記憶が全くない。多分魂を取られたせいだと思う。ギデオンも、記憶を戻すのは難しいって言ってたな」
だから、両親の顔すら知らない。無理矢理思い出そうとしても、無駄だった。浮かんでくるのは、どこまでも続く暗闇だけ。忘れているという段階ではないのだ。もうウィルの中には、存在していないもの。
「そう、ですか。すみません、このようなことを訊いて」
おかしい。前半の方はなぜか怒っているような調子を含んでいたのに、後半になると別の意味で声が震えていた。
彼は非常に嫌な予感に襲われる。やめろ、と自分に言い聞かせても、振り返ることを防げなかった。既に背中から伝わってくる感触で、どんなことが起きているのかわかっていたはずなのに。
ルイシーナは、片手で両目を隠していた。耳の端のあたりが、赤くなってきている。それらよりもさらに雄弁なのが、顎から流れ落ちる透明な雫だった。
何かを言おうとして口を開けたものの、何も出てこない。ギデオンの時といい、普段そういったものから対局にありそうな相手の涙を見ることは、ひどく落ち着かない気分にさせる。
彼女は指の隙間から、瞳をのぞかせる。そして顔から素早く手を離し、ウィルの服の袖に擦り付けてきた。
「拭くなよ」
やっと出せた声は、あまりにも頼りなかった。
「すみません。見苦しい所を。…本当に、此度は申し訳ありませんでした。貴方を傷つけることになってしまって」
「どういう、ことなんだ?」
彼女は横を見た。頬に濡れた後が残っている。
「フィーリタは、回帰主義者だったようです。今までずっとそれを隠し続けて、貴方を殺す機会をうかがっていた」
どの種族にでも、変化を嫌う勢力はいる。アルヴにおける回帰主義者も、その一例だった。外部から誰かを招き入れること、特に男を客として招くことすら、嫌悪しているそうだ。柔軟な考えを持っている現女王のルイシーナに対しても、その悪感情が向けられている。
「年寄りのアルヴが長老しかいないのも、関係あるのか?」
驚いたように、ルイシーナは首を回す。
「おかしいと思ってたんだ。ほとんど若い奴しかいないから」
「そう、です。もうこの世界にはいません。どこかに、潜んでいる」
老いている方が考えが固いというのは、いかにもな話だった。百年単位で生きていると、やはり自分の考えを変えられなくなっていくのだろうか。しかし、フィーリタのような者もいる。もしかすれば、回帰主義者が他にも紛れ込んでいるかもしれない。
だが今は、現実のものとなった危険よりも、そばのルイシーナの様子の方が気になっていた。彼女は明らかに、いつもの調子ではなくなっている。その原因は、ウィルへの申し訳なさだけではなさそうだった。
彼の視線を受け止めてから、ルイシーナは俯く。
「フィーリタは、かつて祖母エイブリーに仕えていたんです」
前にいた、白きアルヴ。そのエイブリーの他にも、フレヤという遠い先祖が白い肌で生まれてきたという。ルイシーナは、史上三例目だった。
「幼い頃は、私のこともよく気にかけてくれて。姉のような、存在でした。ですが近頃は彼女なりの考えがあったようで。護衛としての役目を果たすこと以外、関わらなくなっていた。きっと、私が……」
「おかしいだろ」
また向かい合うような形になっていたが、さきほどよりは気が楽になっていた。間近でルイシーナの瞳を見ても、揺らされるようなことはない。
「あのアルヴが、勝手に回帰主義者になって、勝手に遠ざかっていっただけだ。お前は何も悪くない。自分を責めることは、間違ってる」
言っている途中から、再び気まずさが強くなってきていた。もう平気になったはずなのに、彼女が優しそうに目を細めていく度、言葉をうやむやにしてしまいたくなる。だが、冗談を言ってはいけない時くらいは判別できるつもりだった。
「そう、思いますか?」
「だから、ああ、そうだよ。お前は、がんばってるんじゃないか?」
「私に訊いて、どうするんですか」
「知らねえよ」
なぜか、このままにしておくのはまずい気がしていた。相手は表情を緩めているのに、肩にかかってくる重さは変わらない。ウィルは必死に頭を回転させながら、次の話題を探し始める。ずっと話していれば、軽くなると思っていたからだ。
先に話を再開させたのは、ルイシーナの方だった。
「久しぶりに、祖母の話をしました。思い出したことがあります」
彼女は既に、泣いていたことなどすっかり忘れたような顔になっていた。学園で見る時のような、挑戦的な表情が浮かんでいる。それは、彼にとってもありがたいことだった。
「祖母がよく語ってくれたことに、エドゥク・ロがあります」
それはアルヴの言語の中でも、かなり有名なものだった。
「聞いたことあるな。結縁詞だったか」
「これはアルヴに古くから伝わるものなのですが、一つ問題を出しても?」
「望むところだ」
安心しつつ、ウィルは壁に寄りかかった。
ルイシーナは小さく咳ばらいをした後、口を開ける。
「己は結ぶ者。恒久の友誼を願い、ここに示す。汝は縁る者。不変の敬愛を約し、ここに示せ。この詞に対して、相手側は何と答えるべきですか?」
細かい文言までは、憶えているかどうか曖昧だった。それが学園の要綱から逸脱しているものだから、という言い訳は通用しない。彼女の視線が、かなり強まっているのを感じていた。正解しなければという思いが、より思考を焦らせる。
「確か……」
喉の先まで出かかったところで、急に部屋の扉が開けられた。
驚いてそこを見ると、ウィルよりも一回り背の高いアルヴが立っていた。確か、ヴァリと名乗っていたはずだ。今のアルヴの戦力をまとめている、団長。
「フィーリタが脱走しました。ルイシーナ様、すぐに自室へお戻りを」
女王は、すぐに立ち上がっていた。既にその姿には、先ほどまでの落ち着きが抜け落ちている。
「そんな、どうやって」
ヴァリは、悲痛で顔を歪ませる。
「看守のエラが、殺されていました。おそらく外部からの手引きです。奴の他にも一体、敵がいます」
ウィルは、刺されてから八時間ほど眠っていたらしい。
その間に何者かがアルヴの種族世界へと侵入し、フィーリタが囚われている離れの地下牢へとたどり着いた。
犠牲が出ている以上、もはや客を歓迎する空気ではなくなっていた。ウィルは安全のため、与えられた個室から出ることを禁じられた。その処置自体は納得のいくものだったので、大人しく従った。
つながらない通信具を横に投げ捨ててから、彼は天井を眺める。
(これは、どうするべきなんだ?)
ホロはすぐ横で同じように寝転がっている。
『何言ってるの?』
(戻るべきかって、言ってるんだよ。そうしたら、犠牲もなかったことに)
『わかってるでしょ。もう確定しちゃったんだよ。他の者達も、死亡を確認してる。もしそれを安易に変えてしまったら、きみの方がさよならだ』
これは選択の問題だと、把握していた。全てを後悔のないようにしようと思ったら、どんな策でも通用しなくなる。ウィルは、跳躍をなるべく自分のためだけに使おうと考えていた。薄情かもしれないが、他のものまで抱えられると思えるほど、自分を評価してはいない。
だがもちろん、嫌な思いは残り続けている。
『やめた方がいいよ』
(何が)
『難しく考えるなってことさ。この力を持った者は皆、そういう傾向にあるらしい』
(わかるのかよ)
『そういうものだから。ぼくは跳躍種として生まれた瞬間、理解させられたんだよ。色々とね。後成りの奴は少し違うみたいだけど、そこまでは詳しく知らないな』
聞き逃せない情報が出ていたが、今はあまり興味がわかなかった。
『気をつけてね。跳躍者はほぼ例外なく、自殺してるから』
わかりやすい例は、百五十年前の女性だろう。あまり細かい記録は残っていないが、最後は己を傷つけながら首を吊ったという。
(時間は面白いのにな。発狂する意味が分からない)
ホロはにやりとした。
『ぼくも、きみがそうならないことを願ってるよ。時間を、嫌いにならないようにね?』
(お前のことは嫌いだけどな)
『ひどい。ねえ、そんなことよりもさ、もっと楽しい話しようよ。ただでさえ暇なんだし』
ウィルはうめいた。まだ毒の効果が残っているのか、眠気が強くなってきている。
(たとえば?)
『そうだね。あ、初恋の話とか! すごく興味あるな。初めて好きになったのは、どの種族だったの?』
(ねえよそんなもん)
『不能じゃないんだから。あるでしょ』
(決めつけんな)
『いいや、根拠はあるね。ぼくはきみに宿って初めて、自意識を得た。つまりぼくのこういう性格は、きみの嗜好を反映したものということになる。おっぱい大好きとかね』
(死ね)
『いいから教えてよー。つまんない。お互いを知るいい機会なのに』
(まずはお前から言えよ。そっからだろ)
『馬鹿だなあ。ぼくにあるわけないじゃん。さっきの話聞いてなかったの?』
(こいつ……)
他にも色々とやかましかったが、無視している内に寝付いていた。まるで跳躍の力を得てからの気苦労が全て降りかかってきたような重さが、彼の覚醒を遅らせていた。
次に目覚めたのは、やや日が沈み始めた頃。物音が聞こえたような気がして、彼は半身を起こした。何度か瞬きをしながら、周りを見回す。何かが欠けていることに気がついたのは、数秒ほどしてからだった。
慌てて、部屋全体を見て回る。いくら探しても、持ってきていた自分の荷物が見当たらなかった。彼も用心していなかったわけではないのだ。もしもの時のための道具を詰め込んだものが、消えていた。
外に向かって呼び掛けても、返事はない。扉の防護は完璧で、内側からも開けられない構造になっていた。これを解除できるのは、ルイシーナだけだ。突破できる方法はあるが。
急に、怒鳴り声が聞こえてきた。
ウィルは小走りになりながら、窓の方へと近づく。そこもまた出れないように処置がなされていたが、外の様子を見ることはできた。
森の中を、いくつもの灯りが疾走している。アルヴ達のものだ。明らかに何かを追っているとわかる動き。
報告の通りだった。フィーリタの他にも、敵がいる。それは一体で走っている。アルヴ達よりも少し小柄で、全身を隠すような衣装を身に着けているせいか、性別の判断すらできなかった。
その横顔は、まるで獣のようだ。わずかに牙がのぞいている。既に何かを食らったのか、赤く染まっているように見えた。数体のアルヴ達に追われながら、あっという間に視界から消えていく。
ここから出るべきだとは、あまり思えない。戦力的にも、味方側が圧倒的に勝っていると考えられる。自分の力が加わったところで、意味はないのかもしれなかった。
ルイシーナの様子も知りたかったが、連絡の手段はない。このような事態になった以上、ギデオンの助けを借りることも考えるべきだった。しかし、渡されていた通信具は機能していない。界壁を挟んでいるため、不安定になるのは仕方がないことなのだ。
もう眠る気にもなれず、じりじりと時間が過ぎていくのを待っていた。その間に時場操作の練習もしたが、集中が足りないためか、芳しくない結果に終わる。
動きがあったのは、さらに数十分ほど経ってからだった。
入り口の扉が、ゆっくりと開かれていく。
ウィルは跳び上がりそうになったが、冷静に考え直した。つまり、防護が必要なくなったから、解除されたということだ。ルイシーナが、やってきたのだろうか。
予想とは違い、現れたのは黒髪の幼いアルヴだった。
「ロメテ?」
「おぼえてくれたんだ」
彼女は褐色の顔の一部を戸口から覗かせながら、嬉しそうに笑った。足を踏み出して、中へと入ってくる。
そこで彼は、本当に寝具から跳び上がった。
ロメテは、無事とは言えない姿をしている。左耳が切り落とされていて、体の半分が血に染まっていた。歩き方もどこかぎこちなく、痛々しい印象を残すものになってしまっている。平気そうにしてはいるが、いつ倒れてもおかしくない怪我だ。
ウィルはすぐさま彼女の元へと駆け寄り、手を泳がせた。
「早く、手当を」
彼女は黒髪を無事な方の耳にかけてから、上目遣いをしてきた。
「時間がないの。敵の増援がかなり強くて。長老様も殺されちゃった。早くしないと」
様々な衝撃が、疑問とそれに対する思考がぶつかり合い、ウィルをその場に留めさせた。なるべく混乱しないように自らを落ち着かせていると、妙な感覚が強まってくることに気がついた。
血の臭い。
傷ついたロメテから、漂ってくる。
いや、おかしいのはそこではない。彼女だけがここに来た理由だとか、状況にしては落ち着き過ぎているだとか、その表情がまるで夢見るようなものだとか、そんなことよりもずっと大きな違和感があった。
多すぎる。ロメテに付いている血液は、明らかに致死量を超えていた。もしそれが全て彼女のものなら、こうして立って喋っていること自体が、ありえないことだ。
「三回くらいは産みたいな。子供に囲まれるの、楽しそうだもん」
異常に気がついても、ウィルは動けないでいる。ホロが何かを叫んでいたが、全て素通りしていった。
彼女は何かを引っ張り出すような動作をした。力場は、部屋の外にまで伸びている。あっという間にそれらが転がってきて、彼の前で止まった。
「早く食べて?」
ウィルは、口を手で押さえる。喉の奥から、高い音が漏れた。
空色が、暗く沈んでいる。片方の瞳は眼窩から垂れ下がっている。半開きになった瞼にかかる白金の長髪も、白い肌も、おびただしい量の血に汚されていた。首の断面から広がっていく赤い溜まり場は、他の胴体や切断された手足をも飲みこんでいくようだ。
腹の部分にある黒子が、色を失っている肌の上で目立っていた。
「これで、わたしたちの王になるの」
彼は跳躍した。
今までにないほどの力で。
激流のような思考に押されていきながら、時間という奔流に逆らい始めた。どこかから、冷笑するような声が聞こえる。それをもっと大きな叫び声でかき消して、ひたすら続けた。
認識した結果は、変えられない。