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オルランの一人ぼっち  作者: 矢部涼
11/11

11.オルランの一人ぼっち

 自分自身だからこそ、信じるべきではなかったのかもしれない。

 感じていた後悔は、すぐになくなっていった。目の前に現れた光景が、全てを洗い流していった。ウィルは、何とかルイシーナを抱え直す。唇を一度強く噛んでから、一歩前へと進んだ。

 近づいても、ギデオンは静かに腕を組んでいる。自宅の前に立ちふさがっていた。別に中にまで入るつもりはない。そんなことをしたら、大惨事になるからだ。

 綺麗な夕焼けだった。あまり空を仰ぎ見ることはしない人生だったが、それでも憶えている。あの日の空は、確かにこうだった。


「全部、知ってたのか?」


 その問いかけは、前にもした。だが含まれている意味は違っている。あらゆる言葉を飲み込んで、ウィルはただそう尋ねることしかできない。

 ギデオンは一度、大きく息を吐き出す。眉間を揉みしだく様は、まるで重大な戦争が終わったとでも言いたげだった。


「天よ、導きに感謝を」


 祈りなど、どうでもよかった。ただ、この男がどういう思いでいたのかを、知りたいだけだった。


「答えろよ、クソジジイ」

「まだ老いてなどいない」


 少しだけ、こちらに近づいてきた。

 最初はその視線にまともに対することができなかったが、沈黙が続くに従い、顔を合わせるしかなくなる。ギデオンは最初からずっと、静かな表情をしていた。翼心臓を破壊され、地面へと落ちたあの時と、同じ顔をしていた。 

 そして、その口が動き出す。


「百五十年前、我輩は大切な女性を失った」


 その意味を察し、ウィルは目で先を促した。


「未来を感知する能力は、普通、ごく短い範囲にしか通用しない。だが例外がある。対象が跳躍者(リプナー)だった場合、その効果は著しく増大する」


 今までは、自由だと思っていた。跳躍の力を手に入れたことで、時間の自由をも得たのだと思い込んでいた。

 それは大きな勘違いだった。その力を得た瞬間、囚われたのだ。過去と未来、時間という、巨大な檻に。全ては、決まっていたのかもしれない。跳躍者(リプナー)になったからこそ、決められてしまったのかもしれない。


「何もできなかった。我輩は彼女を、時間という狂気から救い出すことができなかった。……だから今度こそは、何としてでも、どんな方法を使ってでも覆すと決めたのだ」


 瞼がはっきりと開かれ、機能していない緑色の瞳が現れる。所有者に何の光も伝えていないはずなのに、それは強く輝いているように見えた。

 ウィルは、知らずうちに首を振っていた。何を否定したいかわからないほど、様々なものが間違っていると思っていた。


「なんでだよ」

「そう決めたからだ」

「あんたは、自分の目を、俺に移したのか? 魂の一部だけじゃなく」

「そうだ」

「なんで、自分の目をすぐに再生させなかったんだよ。それくらい、できるだろ」

「そこが難しい所でな。お前へと定着させる時間が必要だった。戴天の瞳は唯一でなければならない。完全に力が移るまで、治すわけにはいかなかったのだ」


 ウィルは強くこめかみを搔いた。


「こんなこと、俺なんかに、絶対、おかしい……」


 ふむ、とギデオンは髭を撫でた。


「よかったではないか。お前にもまだまだ、わからないことがあるということだ」

「そういうの、じゃねえだろ。ふざけるな」

「その通り。これは、ただごとではない」


 そこでギデオンは、意識を失っているルイシーナへと顔を向けた。その時初めて、表情が沈んでいく。何も反応できない彼女に向かって、深く頭を下げた。


「我輩の独断で行ったこと。そう周りに伝わるようにしている。事実なのは変わりない。アルヴのことで、お前に責は及ばないだろう」

「そんなことを、言いたいんじゃない」

「わかっている。ルイシーナ様には、死んでも償いきれぬ。我輩の亡骸の処遇、その他デーシスにまつわる全ての裁量は、彼女へと委託される。お前は、気にしなくてもいいがな」

「違う!」


 事前に、音を抑える力場を張っていたようだった。自分の叫びがやけに反響していくのを、少しの間聞く。

 それから、相手を睨みつけた。


「あんたは、なんであんなことをした?」

「なるべく自然な流れで、お前に殺される必要があったからだ」


 顔は再び、満ち足りたようなものへと戻っていた。ウィルにとっては、それが一番我慢ならなかった。もし自分が相手の立場だったら、全く逆の反応を示しているはずだからだ。ギデオンの様子の何もかもに、納得がいっていなかった。


「戴天の真髄たる力は、それが所有者の衰えを感じることによって初めて、譲渡の動きを認める。ただ我輩が自害しても、意味はない。いきなりお前にこちらの殺害を頼んでも、効果を発揮しない」

「だから、アルヴのことを利用したっていうのか?」

「その表現は少々、間違っているな。アルヴにおける未来を視たからこそ、全ての筋がようやく定まってくれたのだ」


 ただ怒鳴りつけられれば楽だったのに、ウィルの意識はそれを許さない。すぐに相手の言葉を補完するような動きへと変わっていった。


「俺が、ウィル・シカウスと戦うと知っていて、そのためにやったってわけか?」

「結末は、おそらく複数あった。もし別の道を選んでいたら、破滅だ。枷を失った跳躍種(リプン)が、どれだけの災いを世界へともたらすか。我輩でも全てを想像することはできない」


 おそらく、他にも意図があったはずなのだ。

 リカドとモドゥナが殺された直後、ギデオンは駆けつけた。その時、未来のウィルの他にも、発見していたに違いない。ホロが操作していたルイシーナ。それを見ていたからこそ、アルヴを利用することにも踏み切れたのではないか。

 最初は、本当にルイシーナを殺すつもりだったのではないか。変わったのは、それでホロまでもが滅びるわけではないとわかったから。視えた未来以外の何かに託すよりは、既にある流れに沿う形で、ウィル・デーシスを勝たせる方が確実だと考えたのではないか。

 だがそんなのは全て、馬鹿らしい。


跳躍種(リプン)と、跳躍者(リプナー)そのものを、さっさと滅ぼせばよかったんだ」


 ギデオンはここで初めて、苦笑いをする。


「そう思うか?」

「あんたが、あんたほどの存在が、犠牲になる必要はなかった。俺ごとやればよかったんだ! そうすれば、最終的には、ましな結果になったはずで」

「お前のそういう自虐的な所は、これから直していきなさい」


 両肩に、手を置いてくる。あまり時間が残されていないことは、誰もが分かっていた。ギデオンは、真摯な目を向け続けてきている。


「心配はしていない。ルイシーナ様もおられる。彼女は、お前に良い変化をもたらしてくれるだろう。その縁は、大事にしなさい」

「ふざけるな……」

「何に、納得がいっていないのだ?」

「何もかもだよ!」


 ウィルは、相手を突き放した。ルイシーナが落ちていかないように気を遣ったせいで、その勢いは弱々しい。それでも、相手は離れた。


「この後どうなるか、わかるか?」

「想像に難くないな」

「あんたは、前代未聞の重罪者として扱われる。重要指定保護種を私情のために利用し、壊滅させた罪を被るんだ。誰もが、今まであんたを敬っていた奴らも全部、裏返る。模範とするべき強大な戦士から、一気に転落する」


 ギデオンは愉快そうな顔になってきていた。ウィルの絞り出すような言葉の途中で、何度か頷くこともしている。


「至極真っ当な分析だ。耳に痛い」

「なんで、そんな平気そうなんだよ」

「実際、平気だからな」

「全部なくなっちまうんだぞ!」


 声と一緒に、目の奥が緩んでいくようだった。この時点に来た直後から、決めていたこと。どんなことを言われても、ギデオンに対して決然とした態度を取り続ける。彼がどれだけ愚かなのかを、はっきり指摘してやるのだと。

 だが、そんなことはもう、ウィルは忘れてしまっていた。


「あんたが、今まで積み上げてきたもの全部。名声も、功績も、最後に誇りが、汚されるんだ。俺は、俺はそんなの認めない。あっていいはずが」

「何だというのだ?」


 再び肩を掴まれても、拒むことはできない。

 相手は少し屈んで、ウィルへと顔を近づけてくる。今まで見たことがないほど、優しい笑顔を浮かべていた。だがその白濁した瞳から発せられる意思は、どこまでも固い。どんな訴えでも、覆ることはないだろう。

 肩に触れる指先が、わずかに震える。


「息子の未来に比べて、それが一体何だというのだ?」


 記憶の激流が、全ての栓を破壊していく。これまでのこと。アルヴの森を抜けた先で裏切られたと思っていたこと。ホロとの戦いで力を託されたと知った時のこと。その包みこんでくるような六枚の翼のこと。傷ついた少年を抱え上げていた時のこと。その他全ての、物心ついた時から刻まれてきた思い出のこと。

 ホロが狂うのも無理はない。ウィル・デーシスはちゃんと幸福だった。実の両親が生きていた頃とは比べ物にならないほど、与え続けられていた。

 それが今、こぼれていってしまっている気がした。少しも止まらない。歯を食いしばっても、目を必死に閉じようとしても、意味はない。透明な液体となって、下に落ちていく。ギデオンの翼が、その涙をほとんど受け止めている。

 跳躍の感触が、近づいてきている。

 ウィルは必死に抗おうとしていた。顔をしっかりと上げて、最後までギデオンの姿を目に入れようとした。それだけは何とか、成功する。

 口からこぼれだす言葉は、どうしようもなく崩れてしまっていた。


「俺はあんたに、何も。なんの、恩も……、かえ、せずに」

「お前と過ごした八年間は、無上の宝だった。何も気にするな」


 ギデオンは、晴れやかな表情をしている。ひどく乱れているウィルとは違い、何かの意思によって保たれていた。

 だが、もうウィルは知っている。そんな抑制など、この後すぐに容易く外れていくことを。家の中に戻り、おそらくそういう未来を感知する暇もなく、戴天らしからぬ表情へと崩れていくことを。

 それまでほとんど流したことのないはずのものを、今のウィルと同じようにあふれさせるはずだった。その感情をごまかすために、中にいるかつてのウィルとルイシーナに対して、どのような行動をとるか。それすらも、わかりきっていることだった。

 だからこそ、彼はまともに立ってることすらできなくなった。

 支える手は、もうない。跳躍に巻き込まれないよう、ギデオンは離れ始めている。


「ごめん、ごめん……」


 必死に手を伸ばしても、相手は寄ってこない。

 だが確かに、その包みこむような手が、わずかに動いたのがわかった。最後のためらいが、ギデオンの心を揺らしていた。


「達者でな、ウィル。我が誇りよ」


 義父の名前を呼び、前へと動いた体は。

 直後、広い胸に受け止められていた。

 もう何の温度も発さない体の上に、ウィルはうずくまる。少しだけ乾いた血の臭いが、体の力を次々と奪い始めた。

 彼は辛うじて動く。そしてローブの裾で、その口の端からこぼれている血をぬぐい取った。開かれたままになっている白濁した目の瞼を、二つとも閉じさせていった。投げ出されていた腕を、体と平行になるようにずらした。

 そして、遺体の横へと転がる。

 平原の草が、一度大きくなびいた。いくらか葉が飛んでくる。森の中を進んできたのだろう。アルヴの死体にも、毒の沼にも、大講堂にも、何にも妨げられることはなく、風や葉は到達してきていた。

 界結道の方から、大勢の声が聞こえる。羽ばたきの音がする。最後にそれを聞いてから、ウィルは目を閉じた。














 せっかくの乾季休暇全てが、台無しになった。

 あまり細かな記憶はない。最初はずっと、部屋に閉じこめられたこと。何度も同じ質問をされたこと。途中から見憶えのある天理種(ヴィラ)の誰かが怒鳴り込んできて、多少は楽になったこと。ルイシーナとは、一度も話さなかったこと。

 思い出したくないのにもかかわらず、未だに残り続けている光景もあった。敵対したアルヴの中で唯一生き残った、ロメテと会った時のことだ。

 ほとんどまともに会話をするつもりはなかったが、それは相手も同じようだった。こちらを視界に入れてから、無理矢理収監されるまでずっと、叫び続けていた。彼女は本当に、何が起こったのかわかっていないようだった。ちゃんとルイシーナを殺したと訴えかけてきたその声は、まだどこかで響いているような気がする。

 その後、彼女を見ることはなかった。重罪者として、処刑されたからだ。

 アルヴの個体だけでは収まらなかった。六天の一体の凶行が行われた場所として、誰もがその種族世界の消滅を望んだ。ルイシーナが反対していたかどうかはわからない。どちらにせよ、アルヴは永遠にその故郷を失った。 

 ウィル自身に関しては、恐れていた事態が起きたわけでもなかった。安静のため、そして周りの騒ぎに巻き込まれないため、二十日以上にわたって外に出ることを禁じられた。それほど苦にはならなかった。一人で考え続けることは、嫌いではなかったから。

 誰も、ウィルが全てを行ったとは考えていないようだった。どうやらギデオンは、跳躍のことも上手くごまかしていたらしい。最初の跳躍の後一緒に追いかけてきていた者達にもまた、別の説明をしていたようだ。

 ギデオンが断罪されていくことに、割り込むことはしなかった。それが彼の意志を踏みにじることであるくらいは、わかっていたのだ。だから自分自身の気持ちがどうであれ、状況が流れていくのをただ待っていることしかできなかった。

 もちろん、ウィル自身も素直に解放されたわけではない。まずはどこに住むのかが問題になって、すぐに解決した。天理種(ヴィラ)のオルランにおけるもっとも大きな拠点。そこには、個室がいくらでもあった。しばらく彼は、起床した後廊下に出た時、舞い散る羽毛に悩まされることになる。

 差し伸べられた救いの手は、それで終わる。

 ウィルの体調は、ある一定の水準を維持してはいたものの、完治することはなかった。もし他の種族の魂が欠けていたなら、すぐに解決しただろう。しかし、彼はたった一人だった。  

 かつてのギデオンのように、卓越した術師が魂を分け与えてくれれば、まだ助かる道はあったかもしれない。しかし、誰も名乗り出てくることはなかった。被害者だと思われていても、他の五天はあまり彼と関わりたくなかったようだ。不自然なほど、ウィルのその後についてのことは誰も触れないようになった。

 ルイシーナは、どうしているのかも把握していない。彼の方が、意図的に避けている部分もあった。どういう顔をして会えばいいのかわからなかったし、会ってはいけないような気もした。できれば、このまま二度と。

 様々な相手から、彼女のことを頼まれた。ウィルも戦いを乗り越えるまでは、彼女を生かさなければという思いでいた。だが全てが終わった途端、それまで目を逸らしてきたことが一気に襲いかかってきたのだ。

 誰が悪かったのか。ギデオン、シカウス、あるいはアルヴそのもの。ウィルは全く別の答えを持っていた。自分だ。どんな事情があったにせよ、もし跳躍者(リプナー)として自分がアルヴに関わっていなければ、まだ別の未来があったのかもしれない。

 良くない想定だとはわかっていた。だがどうしても、考えてしまう。もし自分の魂の半分が、跳躍種(リプン)にならなかったら? リカドとモドゥナが己の行いを反省していたら?

 そもそも、人間種(フーニ)など存在していなかったら? ルイシーナやフィーリタ、ギデオン。他の全ての関係者達もまた、今よりはましな状況にいたのかもしれない。

 持っていないことは、悪いことではない。自分にないものを求めるからこそ、力が生まれていく。それが世界を動かし、生物を次の段階へと進める。今までもそうやって、色々な事が進化してきた。

 だが、良いことでもなかった。その最たる例が、ヒトだった。彼らはおそらく、最古に近い種族だ。アルヴよりもはるかに長い歴史を持っていた。それなのに、数を減らしていった。

 理由は、脅威だったからだろう。持ち得ないからこそ、他種族の力を奪い取ろうとして、世界全体から恐れられるようになったのかもしれない。ウィルはその考えにほとんど傾きかけていた。自分自身がどんな行いをしたのかを考えれば、無理もない話だった。

 だから、ここで終わらそうと考えた。自分で、人間種(フーニ)を絶えさせる。アルヴをほとんどそうさせたのだから、報いとしては妥当なものだ。

 ルイシーナに対する義務は、わからない。死んでしまった者達の一部から、責められることになるだろう。

ウィルからすれば、勘弁してほしいくらいだった。彼らは当たり前のように彼女を自分へと託すようなことをしていったが、正直恥ずかしい。本当に大事なのは、彼女の気持ちのはずだった。

 自分のことを、良く思っているはずがない。今までどれだけ上手くいっていようが、種族を滅ぼした相手と、関わり続けることなどできない。

なるべく彼は、ルイシーナの意識から外れるようにした。いくつかあった尋問の中で見かける機会はあったが、すぐに逃げて事なきを得た。格好悪くても、仕方がない。それが彼女のためになるのなら、喜んでやるつもりだった。

 唯一定期的に話していたのが、ニーハだった。彼女とは数年の付き合いだが、家族と言っても差し支えがない。ギデオンのことをちゃんと知っている存在でもあったから、他愛のない会話をしているだけでも癒された。

 ただ、彼女はたまに行方をくらますことがあった。そういう時は決まって、数日は帰ってこない。寂しかったが、これから絶えゆく種族には似合わない感傷だと、あまり気にしないように心掛けた。

 そして新しい学期が始まる今日、再びニーハの姿は消えていた。できればついてきてほしかったが、自分だけで終わらせろということなのだろう。


「退学、ねえ」


 長い鱗の体を波打たせてから、担任の教師は頬杖をついた。


「通学するのも、やっとみたいな状況なので」

「補修もさぼったしね」


 彼女の口から、長い舌が出てくる。先の方が分かれていて、互い違いに揺らされていた。


「俺死ぬところだったんですよ。勘弁してください」

「本当にやめるの?」

「とりあえず、最初は休学の形を取ります。まずは体を回復させないと。目途が立ったら、復学します。無理そうだったら、退学」


 嘘だった。この手続きを終えてから数日後に、オルランの端にでも向かうつもりだった。もちろん追手は多数出されるだろう。捕まらない方が、難しいのかもしれない。

 だが彼は、そこまで自分に自信がないわけでもなかった。もはや過去にも未来にも跳躍できないが、加減速の時場を張れるだけの力は残されている。そしてなんといっても、戴天の力が宿った目があるのだ。

 未来感知は、いつでも使えるわけではない。あの戦いが終わった後四日以上眠り続けることになった最大の要因は、その力の副作用だ。やはり、自分の体には余る代物だったらしい。安易に使い続ければ、確実に寿命が減っていくだろう。

 それで自殺するつもりはなかった。

 治っていない魂は、徐々に体を蝕んできている。正常な生物ではないと、毎日言われている気分だった。肉体的な障害だけではなく、記憶の欠落も起こるようになってきている。さすがに忘れてはいけない者達はまだ残っていたが、この教師の名前などは、少し考えないと出てこないようになっていた。

 徐々に欠けていく感覚を味わいながら、ある日の夜眠った後に死ぬ。思い描く最後は、それだけだった。逃げる途中でまともな所には泊まれないだろうから、寝心地は最悪になる。

 そこまで考えて、教師の目が細まっていることに気がついた。


「何か?」

「別にー。ウィル君は、優秀な生徒です。模範的とは、言えないかもしれないけど。やめるのはもったいないな」

「そこはおいおい決めていきますよ。まだ、どうなるかわかりませんから」

「ふーん」


 どこか、おかしい気がした。

 この学園の教員数は、それなりに多い。色々な種族に指導するため、数をそろえることは重要なのだ。しかし今は、ほとんど外へと出払っているようだった。


「じゃあ、もう行っていいですか? この後、また裁定所に行かないといけないので」

「教室で、もう新しい係決めとか始まってるよ。行かないの?」


 じゃあなぜ担任の彼女がここにいるのか。そこまでは、訊かないことにした。


「いや、さすがに。皆も、戸惑うと思いますよ」

「正しかったわけだ」


 教師はぐるぐると胴体を巻いて、そこに背中を寄りかからせた。なぜか、感心したような顔になっている。


「はい?」

「これくらいやらないとだめな相手も、いるってことか。先生も参考にしよう」

「はあ」

「お疲れ。帰っていいよ」


 ウィルは補助用の杖を持ちながら、立ち上がった。紅蛇種(ラライ)の教師が急に尻尾で捕まえてくるなんてことはなく、廊下へと出ることができた。

 すぐに立ち止まり、左を見る。

 尋常ではない数の生物が、薄っすらと見えていた。これほどの数の透身術が使われている光景は、かなり珍しい。その中でも練度の差は確実に存在しているようで、時折はっきりと姿を現してしまっている者もいた。中には最初からできていないのか、堂々と廊下を占拠している集団もいる。

 正面に並ぶ窓にも、様々な種族が張り付いていた。中には、一応友達であるドランもいる。手足と翼を上手く使いながら、三階分の高さを維持していた。擬態がばれているとは思っていないようで、必死に窓の一部になりきろうとし続けている。


「ほら、あそこだよ。はやくはやく」


 右を見た瞬間、ニーハの声が聞こえてきた。

 その黒いもやに先導されて、早足で歩いてくる女子生徒を見た瞬間、ウィルは必死に頭を回転させた。これだけの数で囲まれていては、無理矢理突破するわけにもいかない。穏便な方法で乗り切る必要があった。

 と思ったものの、相手の表情を見て考えを変えた。どうやら、ニーハがあらゆることを喋っていたらしい。

 もはや非実体種族かどうかは関係なく、ニーハという個体そのものが問題なように思えてきた。彼女がウィルから離れている間どこに行っていたのか。よく考えれば、選択肢は一つしかなかったのだ。

 ルイシーナがさらに足を踏み出そうとしたところで、ウィルは口を開く。


「これはこれは、最重要指定保護種。白き唯一のアルヴにして、オルランの麗宝とも称される、ルイシーナ・エイブリー・フレヤ様ではありませんか。このような下賤な者に、一体何用ですか? アルヴの仇を討ちたいというのなら、結構。喜んでこの身を捧げましょう」


 嫌われればいいと思った。

 ウィルは、こういう誰かとの関係性を、これまで必死に考えてはこなかった。だから跳躍の力を利用した戦いに対してなどとは違い、未熟な行動をしてしまうのは無理もない。

 その声は、言葉の内容とは裏腹に、情けないものだった。ルイシーナは少しも止まらずに近づいてきていたのだ。そして徐々にはっきりと見えてくるその表情は、燃えるようだった。

 明らかに、激怒している。これまで見たことがないほどに。

 それなのに、彼女は一度微笑んだ。ウィルを思いっきりその場に縫い止めた。


「こう言えば、満足ですか?」


 その声は、どんな力場も跳ね返す何かが宿っているようだった。


「貴方のせいで、故郷と大切な姉を失いました。永遠に、恨みます」


 欲しい言葉かどうかは、わからなかった。判断する前に、さらに彼女が接近してきたからだ。そして、右腕を掴んでくる。そのまま少しずつずらしていき、やがて彼女の小さな手が、ウィルのそれと握り合った。


「己は結ぶ者」


 抑揚のない声だったが、どこか歌のようにも聞こえた。


「恒久の友誼を願い、ここに示す。汝は縁る者。不変の敬愛を約し、ここに示せ」


 彼女はしっかりと、目を合わせてくる。


「ここに示せ」

「は……、え?」

「ここに示せ」


 ルイシーナから発せられる不可視の力に押されているようだった。自分の中で引っかかっていたものが取れ、喉から自然にこぼれ出していく。

 今まで思い出せなかったのが、不思議なくらいだった。


「結縁相成りて、万象に誓う」


 そう言い切った直後、自分が吹き飛ばされたと思った。

 奔流のようなものが、ぶつかってきている。廊下を端から端まで流されて、学園の外へと出ていって、オルランから転げ落ちていく気分になっていた。

 絶対に倒れたと思っていたのに、まだ自分は立っている。

 ルイシーナが、引っ張ってきている。

 歩行用の杖が、倒れていた。彼女が少し離れても、真っすぐ立つことができていた。今までは補助なしで立ち上がることもできなかったのに、姿勢を保つことができていた。

 頭の中が、一気に澄み渡っていく。徐々に淀んでいくような心地だったのに、嘘のようだった。胸にずっとあった疼くような痛みもまた、消失している。


「昔、とある夫妻がアルヴに接触してきました」


 ルイシーナは、もう体に触ってこない。だが、より近づいてきていた。瞳を燃やしたまま、段々とその姿が視界の中で大きくなってくる。


「その目的の一つに、古くからアルヴに伝わる、魂に関する秘術がありました。しかし、彼らはそれに関心を持つことはなかった。結縁詞は、彼らの求める、魂を奪う術ではなかったから」


 少しの間、眉間に皺が寄る。彼女が何かをこらえている様も、綺麗だった。


「これは、魂の共有を目的としています。しかも、片方の魂が不完全な状態でないといけません。わかりますか?」


 口の端が、震える。


「わかっているんですか? その上さらに、私から貴方まで奪っていくつもりだったんですか?」


 後ろへと行きたかったが、ルイシーナが肩に触れてきたせいで、固まってしまう。

 言葉が何も見つからない。口を回すことだけは、得意なはずだった。この女性の前では、何もかもが正常ではなくなるようだった。


「許しません。ふざけないでください。これで、寿命が延びましたね? 貴方が死んだら、私も道連れになるということです。どうしてくれるんですか? 責任を、取りなさい」


 最後には、挑むように見てきていた。

 少しでもその睫毛のあたりに触れれば、目から雫がこぼれ出してきそうだ。

 やめてほしかった。追いつめられているのは、自分も同じなのだ。もう二度とみっともない顔を晒しはしないと決めたはずだった。ギデオンに対してが、最後になるはずだった。

 何の備えもできていなかったのだと、実感する。守りたいと思っていた相手から、生かさなければならないと決めていた女性から、全てをすくい上げられる。その気持ちは、形容しがたかった。

 ただそれも、幸福の一部であると悟っていた。こうさせてしまったという罪悪感よりもはるかに強く、ウィルの芯を動かしているものがある。それはきっと、これからもずっと維持していくべきものだった。何よりも尊いものだった。

 生涯、彼女に勝てはしないと決まった瞬間でもある。そもそも最初から、無謀な勝負だったのかもしれない。彼女はおそらく、あらゆる所に手を回していた。自分以外が、ウィルを助けないようにしていた。こうなることを見越して。

 でも、どうなのだろう。このままでいいのか。

 ウィルは、激しく情緒が乱されていた。こぼれ落ちないように抑えることで精一杯だった。だから、冷静な思考ができなくなっている。

 彼女に一矢報いることはできないのか。せめてその顔を動揺に落とすくらいは、許されるのではないだろうか。

 だから彼は、普段絶対にやらないようなことをすることにした。自分から彼女へとさらに近づき、片手を上げる。なるべくその顔を、覗き込むようにした。

 今になって言えることを、心からの言葉を口に出した。


「ルシ―、お前と出会えてよかった」


 永遠の友情を意味するのは、確か。

 小指を、アルヴ特有の長い右耳へと付けた。

 もし冷静だったのなら、気づくはずだった。フィーリタが行った接吻のこと。ルイシーナに対してと、ウィルに対してやった場所の違い。もし彼の認識が正しかったのなら、フィーリタはルイシーナに友情を、彼には愛を誓ったことになる。

 そのアルヴのおまじないを教えたのは、ロメテだったことも思い出すべきだった。彼女と他のアルヴ達が右耳に彼の小指を付けてもらった時、どのような反応をしたかも。

 ロメテが教えてきたことは、本来の意味とは逆だった。その仮説を今まで一度も考えてこなかったのは、明らかにウィルの過ちだった。

 結果はすぐに表れる。

 最初、ルイシーナが新しい魔素を得たと思った。それが顔中の肌を覆っていくのを、口を半開きにしながら眺めていた。もし全身に広がったら、赤きアルヴと呼ばれるようになるのだろうか。

 空色の瞳が、いっそう輝いている。片方から、透明な涙がこぼれていく。

 それでも、染まった頬を洗い流してくれることはなかった。ルイシーナの紅潮は、彼の脳の奥まで強烈に割り込んでくる。きっとすぐに目を逸らしていたとしても、像が残り続けたに違いない。このまま逃げ去っても、寝る時に思い出していたに違いない。

 彼女は力が抜けたように笑い、床を蹴った。白い両腕が、ウィルの首へと回されていく。

 そうして、彼はルイシーナと共に浮き上がっていった。

 周りであらゆる鳴き声が爆発する、二秒前のことである。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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