10.ウィルの真実
痛みで朦朧としている意識の中でも、それがいかに馬鹿げたことであるかはわかった。前に進もうとすると、ルイシーナが支えてくる。
「何、言ってるんだ」
口から出た声は、かすれている。ホロは穏やかな顔でいたが、少しも冗談を言っているような雰囲気ではなかった。
『ぼくには、これしか思いつかない』
「ふざける、な」
『きみも今まですがってきた考えのはずだ。結果を変えずに、過程だけをいじる。もし、きみの両親を襲った襲撃犯と、きみの魂を奪った相手が別だったとしたら?』
それは、今まで一度も考えたことがない筋だった。自分の両親が殺されたことと、魂が半分奪われたこと。無意識のうちに、それらが同一の目的、同一の集団によって行われたものだと思い込んでいた。
ウィルの視線を受けて、ホロはため息をついた。
『こうなることは、決まっていたのかもしれない。これが、時間というやつさ。嫌になったかい?』
「待て……。そもそも、無理だ」
ルイシーナに寄りかかっていると、多少は苦しみがましになってくる。ものを考える頭も、戻ってきていた。
「そんなに前へ戻ったら、ここには、帰ってこられなくなる」
『ああ、それね』
ホロは耳をやや下げた。まるで何かをごまかすようにして、苦笑いを浮かべる。
『不可能じゃないんだよ。ただ、ぼくへの負担を無視すればいいだけで』
「おい、ホロ……」
『ぼくのこと嫌いだって言ってたね。ぼくも、きみのことは好きじゃない。どうせなら、もっと可愛い女の子に宿りたかった。…でもね、感謝はしてるんだ。きみと一緒にいるのは、とっても楽しかったから』
捕まえようとしても、意味はなかった。その跳躍種には、触れることができない。体が倒れかけると、ルイシーナが慌てて引き戻してきた。
『ぼくにも、格好いい場面があってもいいでしょ? 八年前に戻ったとしても、ここまで帰ってこられるよ。それくらいの力はある』
「もう、これ以上誰かが」
『きっと、跳躍種は表に出てきちゃいけないんだよ。今回でよくわかった』
「やめろ」
ルイシーナが、正面に回ってくる。より強く、抱きしめてくる。
『残念。実は、きみの意思なんてどうでもいいんだ。きみを助けたい女の子のために、がんばるだけさ』
「ごめんなさい。私は」
『おかまいなく。そろそろ、異常を知った者達が駆けつけてくる。行こう』
ウィルはほとんど初めて、巻き込まれる形で跳躍した。
どうやら、ホロは話していないこともあったらしい。ルイシーナに色々と教えながら、共に過去へと遡り始めた。
『一気に八年前まで戻るわけにはいかない』
「やめろ、やめろ……」
『きみの自宅前にたどり着くまでは、少しずつ跳躍する。誰かに発見される恐れもあるけど、一瞬で確認すればいい』
最初は、界壁の前だった。
アルヴの種族世界側ではない。その向こう側。一日半ほど前に戻っているのが、感覚として伝わってきていた。
ちょうど、自分も含めた皆が集合していた時だ。
『危なかったね』
「なんでだよ。なんで、お前は」
『ギデオンだけじゃない。過去のルイシーナとフィーリタにも察知されてた。こっちのルイシーナの姿まで見られてたら、大惨事になってたね』
既に、透身が発動されている。だが、跳躍のせいで乱れてはいた。ルイシーナも万全ではないのだろう。効果が切れてしまうこともある。
ギデオンが死んだことで、界壁が元に戻ったのは確かだった。既にオルランへと戻ってきている。様々な種族が歩いている中を、跳んでいく。他の全ての者達が進んでいる方向とは真逆へと、時間の中を跳んでいく。
『いいかい? 事前に言っておく』
「俺なんかのために、なんで」
『きみの両親を救うことはできない。過去の結果は変えられない。もちろん、ルイシーナを救った例もあるけど。誰かの死という事実を覆すのがどんなに難しくて、辛いことか。きみはもうわかってるはずだ』
「他の奴が死ぬくらいなら、俺が死ぬ方がいいんだ……」
「いいえ」
正面から、ルイシーナはくっついてくる。倒れそうになる自分を、どこまでも支えてきている。彼女の体で多少見えなくなっていても、その家は存在感をしっかりと示してきていた。。
人間種用に設計された、二階建ての自宅。一部は改装されているものの、シカウス夫妻が殺された後もちゃんと機能している。ギデオンがわざわざここに引っ越してきて、ウィルの保護を名乗り出たこと。その中の居間で、ルイシーナと話したこと。もう、はるか昔の出来事のように思えた。
「貴方は、特別です。生きていてほしいんです」
彼女の方が、やや背が高い。だから正面から抱き合えば、気まずいことになる。彼女は少し足を曲げて、顔もずらし、完璧な位置取りをしていた。
「簡単に死ぬことなんて、許されません」
彼女の香りが一気に広がる。その瞳は、いつものルイシーナのものではなかった。ウィルそのものを包んで、二度と離さないと言わんばかりの引力を持っていた。
その目がほんの少しずれて、別の方を見る。自分の背後だろうか。彼女の腕が体に絡みついいてきているのと、疲労で、振り向く余裕はない。だが彼女が何を見ているのかは、わかるような気がした。
『ここからは、一気に跳ぶよ』
ウィルはもう、何も反論する気にならない。言葉として出すことよりも、ひたすら考えることに集中し始めた。自分は、何なのか。何のためにたくさんの命を奪ってきたのか。ルイシーナのために、どんなことができるのか。跳躍種とは、一体何を目的として生じたものなのか。
辛うじて目を開けると、既に外ではなくなっていた。
彼はルイシーナに寄りかかりながら、俯いていく。魂が欠けたことによる苦痛には、波があるらしい。今は辛くなってきている。せめて決定的な瞬間までには、回復させなければいけない。
目に映る床は、馴染みのあるものだった。魔素を極力発しない木が原材料となっている。丁寧に作られたその床を歩くのは、嫌いではなかった。あらゆる思索を行っている時はいつも、この一階の居間を歩き回っていた。
足音が、聞こえてくる。ウィルはとっさに逃げようとしたが、体は動いてくれなかった。
それは、子供のものだろう。走ってくる音は大きくはなく、どこか急いでいるような感じがしていた。幼い頃の自分は、どんな姿をしているのだろう。
すぐ隣にいたルイシーナが、はっと息を呑むのがわかった。
その口から、喉を締めつけられているような声が出てくる。
「ウィル、駄目です」
それに、不吉な予感を覚えた。彼は全身に力を入れながら、顔を上げていく。彼女の手がこちらの顔を覆うようにして動いてきたが、何とかかわした。
そして、自分自身を見つける。
「見てはいけません!」
最初は、よくわからなかった。なぜ彼女がそれほど動揺しているのか。目の前の子供は、普通の姿をしている。たった今転んでしまったようだが、すぐに起き上がろうとしていた。その癖のついた黒髪は、確かに今のウィルに通じるものがある。
だが、その顔が露わになった瞬間、全てが止まった。
無関心でいることはできない。
何せ、自分の過去だ。産んでくれた両親に関わることなのだ。憶えていないから、あまり寂しく感じることはなかったが、試みたことくらいはある。あの日、自宅が襲撃された時何が起こったのか。もしかしたら自分は、襲撃犯の姿を見ていたのではないか。
無理矢理思い出そうとしても。
「うう、う」
浮かんでくるのは、どこまでも続く暗闇だけ。
子供はまた走ろうとして、食器棚にぶつかった。その上に積み重ねられていた皿がいくつか落ちて、割れる。
その欠片を足で踏んでも、少年は気にしていないようだった。そんな痛みよりもずっと、苦しい所があるのだと訴えかけてきていた。
眼窩から、血が流れ出している。そこをかきむしるようにしていた。二つの瞳が無くなっている。なのにまだ存在しているかのように、その部分だけは避けて搔いていた。新しい痛みを生み出すことで、どうしようもない他の苦しみをかき消そうとしていた。
まだ、ウィルの中の時間は止まっていた。自分達が透身術で視えなくなっていることも、頭から抜け落ちている。
廊下の奥から、誰かが歩いてくる。階段から上がってきたようだった。この家にはなかったはずの、地下から。
男と、女だ。どちらも若いとも年老いているとも言えない、歳が判別しづらい外見をしていた。共通しているのは、黒い髪と黒い目だ。
「あれちょっと高かったのよ」
「必要経費だね」
女の方は、たいして残念がるでもなく言っていた。しかし男の方は、かなり失望している様子だ。その目は割れた皿ではなく、その上で何とか歩こうとしている、少年へと向かっていた。
彼は白い長衣装をなびかせながら、ゆっくりと近づく。そして苦しがっている子供の髪を掴むと、食卓の方へと乱暴に投げた。少年はうめき、すぐに立ち上がろうとする。だが足に食い込んでいた皿の欠片のせいもあって、まともに動くこともできないようだった。
「うーん、駄目みたいだ」
「半分だけだったのが、よくなかったのかしら」
「視覚を潰せば、魔素も感じられるようになると思ったんだけど」
「他の種族を混ぜてみるべきね。やっぱり、足りない」
「再利用するのかい?」
「無理そう。また作りましょう」
彼らは平然と会話を続けている。実の息子が苦しみの底にいるというのに、心配している様子はまるでなかった。
「じゃあ今度は、普通の出産方式にしよう。体外受精がよくなかったかもしれない」
「それと、今度は娘にしましょう。正直嫌だったのよ。私どうにも、幼い男が気持ち悪くて…」
「そこは君の意見に従う。長い実験になりそうだからね。一緒に頑張ろう」
「ええ。愛しているわ、あなた」
自分の荒い呼吸の音さえ、聞こえなくなってきていた。
早く。
頭の中では、ただそれだけを待っている。早く、襲撃が始まってほしかった。破壊が、こんな趣味の悪い幻をすべて消し去ってくれることを期待していた。
だが、まだ何も起きない。これからも、起きないかもしれない。
ルイシーナの肩が、一度大きく動いた。
「もう」
それは囁き声だったが、ウィルの停止した頭を動かすには十分すぎるほどの力を持っていた。
「もう、半分しかありません。あの子には、魂が……」
ウィルは一歩前に出ていた。
さらに、歩いた。ルイシーナから離れ、透身の効果が切れても構わず、その夫妻へと近づいた。
彼らは会話に夢中になっていたが、やがて気がついた。男の方、リカドはほとんど反応を見せない。少し興味深そうな顔つきになって、自分の顔をじろじろと見てきた。
「おや、来客だ」
露骨に嫌そうな顔をしたのは、モドゥナの方だ。彼女はウィルの足元を一瞥した。
「土足で上がってくるなんて。野蛮ね」
「そんなことを言うものじゃない」
リカドは、相好を崩した。目を細めて、こちらに手を差し出してくる。
「瞳から察するに、天理種の方かな? 魔素器官の不可視化なんて、珍しい。今日は予定を入れてなかったはずだが。それでも貴方がたから訪問してくれるのは、ありがたい」
「何を、してるんだ?」
微笑んでいたリカドも、顔をしかめていたモドゥナも、虚をつかれたような表情をした。それがまるで、自分が全く知らない種族の動きにも思えた。
少年が、大きくうめいた。同時にリカドが、それをかき消すようにして咳払いをする。
「見苦しい所を。申し訳ない。二階へ移動しようか。落ち着いて話ができるところへ…」
「お前らは、何をしてるんだ?」
彼らは、お互いに顔を見合わせた。
今度はモドゥナが口を開く。ぞんざいに子供を指差した。
「これが、皿を割ってしまって。その片付けをするところです」
「その目は?」
リカドは、腰に手を当てた。退屈な日常の一瞬であるかのように、ほぐし始めた。
「これは、重要な進化を期待しての処置でね。貴方の種族のように、魔素を感知できるようにさせたかったんだ」
ウィルは彼らのどちらとも目を合わせずに、ただ自分自身を見ていた。
「何のために?」
「実験単体の達成目的ですか? それとも、私達の理念そのものを?」
モドゥナを一瞬だけ見て、視線を戻した。
「どちらも」
「これの魂と一部の感覚器官を削り、ある種の覚醒を促しました。他種族の要素を発現できないかと考えたんです。結果はこの通り。上手くいきませんでした。そして、私達の最終目的ですが」
リカドが、続けて言った。
「人間種の可能性を、広げたい。そのために色々と準備してきたんだが、いかんせんこの素体がね。少しばかり精神的にも肉体的にも脆かったようだ。お恥ずかしい。我々としても、責任を感じずにはいられない。今度はもっと、良い子供を作るつもりだ」
途中からは、甲高い雑音のように聞こえていた。
「どうして、自分の子にこんなことをする?」
「私達は、誇りを持ってるんです」
モドゥナは、少しも子供のことを気にしていなかった。足にしがみついてきているのに、少し蹴るだけの対応で済ませている。
「もちろん、他の種族と交じることも考えました。ですが、それでは意味がない。私と夫が産んだ、純粋なヒトの子が変化していく。他の種族に負けないくらい、強大な存在になる。その可能性を証明することこそが、人生における義務なんです」
「素晴らしい。聞いたかい? わが妻は、一番の自慢でね」
彼らはお互いを見る時だけ、生きているようだった。それ以外に対してはほとんど、観察対象としての興味以上のことは抱いていない。そして役に立たなくなったものに対しては、嫌悪に近い感情すら向けている。
夫を見るモドゥナの顔は、少し赤らんでいた。
「貴方も私の宝よ、リカド」
「申し訳ない。内輪の話を客に見せるのは、こちらとしても恥ずかしい。さ、客室に案内しよう。貴方がたからの支援について、少し話し合いたいことがある」
ウィルは、痺れるような思考に落とされていた。
与えられた技術や考えそのものに罪はないと、フィーリタは言っていた。
でも、それだけで済まされるだろうか?
アルヴは、戦闘種族だ。己の技を磨き、敵を屠り、子を作る。それ以外はあまり気にすることがないような暮らしをしていた。そういった環境の中で、魂の変化などを考える瞬間が、果たしてあっただろうか。
芽生えのようなものはあったかもしれない。でも、実行までは至らなかった。その状況を変えたのが、外部からの刺激だったとしたら。
例えば優秀な研究者が、アルヴの魂の構成を変えかねないような技術を与える。それを使って、アルヴ達は都合の良い存在を作ろうとする。生贄として最適な、白きアルヴを。
その存在を巡って、派閥間の争いが激化していく。実験の途中でできた失敗作は、保険のために無駄に生かされる。たとえ優秀な白きアルヴであっても、魂の構造が違うからと、対等な扱いをされることはない。
素晴らしい技術と考えをもたらしてくれた研究者達の子供に、役立てようと考える。
もし何もかもが、これまでの全てが、一つの原因に帰着するとすれば? 実験体となったアルヴの苦しみ、ルイシーナが犠牲を強要されたこと、フィーリタがひどい扱いを受け、最後には犠牲にならなければならなかったこと、アルヴの問題に巻き込まれ、最後にはギデオンを殺さなければいけなかったこと。
思い込みに過ぎない部分もあったかもしれない。自分の行いを、他者の責任にしたいという思いもあったかもしれない。だがウィルは、既に生まれた熱へと呑まれていた。痛みに呻く子供の姿が、次第に頭の中で大きくなってきていた。
ならば結局、一番おぞましいのは。
世界で最も優先的に駆除しなければいけない種族は……。
ウィルは何かを叫んでいる自分に気がついた。
一瞬で、全てが終わっている。
二人の人間種が倒れた後も、罵倒を続けた。それが意味のある言葉になっていなかったとしても、ぶつけ続けた。跳躍させた食器が、彼らの喉を潰している。その光景を見ても、心は少しも晴れていかなかった。
しばらく彼は、その場にうずくまっていた。誰も、話しかけてくることはない。触れてくることもない。
上の窓が割れて、何かが瞬時に着地してきた。
「何ということだ」
一番殺してほしい相手が来てくれたことに、感謝した。ギデオンはリカドとモドゥナの死骸を見てから、苦しむ子供を抱きかかえる。その姿は、ほとんど変わっていない。それなら、ほとんど変わらない力で、こちらを滅ぼしてくれるはずだった。
だがギデオンは、最後になってようやく自分を見てきた。正常に機能している目がこちらと合った直後、相手は打ちのめされたような顔になる。
一瞬が、とても長く感じられた。その口が小さく開き、顎の髭が震えていく。
「ウィル……」
背中に、誰かの手が触れてくる。ルイシーナのもの。
そして、馴染みの感触がやってきていた。跳躍する前の、体全体が少しだけ引き絞られるような。
景色が切り替わっていく直前、ギデオンが自分自身の目に指を突っ込むのが見えた。
周りが安定した直後、ウィルはその場に転がっていた。
今胸を締め付けている苦しみが、どちらなのかわからない。魂が欠けているせいなのか、それとも自分の行いに対しての精神的なものなのか。できれば、何も感じていたくなかった。このまま、自身が跡形もなく消えていってほしかった。
「ころ、した。俺が」
吐き気がやってきても、苦痛の吐息だけが目の前の床に落ちていく。自分の首を絞めたくなったが、手は動かない。遠くの方で、耳鳴りの音がしている。鳥の鳴き声のようにも、赤子の泣き声のようにも聞こえていた。
「俺が、俺が、俺が……」
頭を抱え込もうとする手。その動きは、途中で止められる。
柔らかく華奢な腕からは想像できないほどの力で、ルイシーナに引っ張り上げられた。うずくまろうとするウィルに反抗するかのように、再び正面から抱きしめてくる。
今度は、まるで治まらなかった。彼女の体温や香りを感じても、少しも楽になる気がしなかった。自分という存在を相手の目に入れたくなくて、彼は必死に突き放そうとする。だが、白きアルヴの膂力にはまるで敵わない。
「大丈夫です。大丈夫」
耳元で生じる声は、どこかおかしかった。彼女もまた、冷静ではないのだ。それでも自分を、支えようとしてくれている。
「あれから、三年後の未来に来ました。右隣の空き家です。ギデオンとまだ幼い貴方は、遠くへ出かけているみたいです」
「ルイシーナ」
「苦しまないでください。貴方はもう、何も心配しなくていいんです。自分を責めなくていい。もう、悩む必要なんてありません」
ウィルはまだ、混乱の只中にいた。起こった出来事を整理することすらできていない。
だから、自分の胸からやってくる強烈な痛みに、遅れて気が付いた。
「ここで、無様に死ぬのですから」
血が頬にかかっても、彼女は微笑んでいた。むしろその瞳はより、輝きを増している。眩しいくらいなのに、さらに奥へと引き込んでくるような力もまた、強くなっている。
ウィルは一度深呼吸をした。吐き出されるのは息ではなく、血だ。目を下へとやると、白い腕が自分の胸を貫いているのが見えた。
素早く引き抜いていく。その手の先に、内臓が絡みついているのが見えた。
彼女が、遠ざかっていく。正確には、自分が後ろへと倒れていた。視界が大きく揺れた後、ルイシーナは薄い赤色の舌を出した。自らの右手に付いた血液を、少しだけ舐めとっていく。
「さっさと治したら? それくらいの力は残してあげたはずだけど」
天井を見つめながら、ウィルは何とか操作をしていく。不思議だった。今まではひたすら自分を消し去りたいと思っていたのに、死にそうになったら逆のことを考える。治す手段があるのなら、使わずにはいられない。
腹の傷を巻き戻しによって消し、彼は立ち上がった。失われた血までが、完全に戻るわけではない。姿勢を保っているだけでも、かなりの苦しさがやってきている。
相手は少し離れてから、片足を曲げた。丁寧な挨拶だった。その姿で行われると、たとえ無視できない粗があっても、形になっているように思える。
「初めまして、ウィル・デーシス」
妙な納得をしていた。
確かに他者へと乗り移れないとは、言っていなかった。
「ホロ」
「ぼくは、ウィル・シカウス。パパとママの仇を、討ちに来たよ」
もうどこにも、白い獣の姿はなかった。
その、愉快そうな表情を見据える。今考えてみれば、確かにそれはルイシーナの姿をした何かとしか思えなかった。彼女が千回を超えた跳躍の負担から、すぐに回復するなどありえなかったのだ。
その口からは、ルイシーナの声が出る。だが、少年のもののようにも思えた。
「もうきみの意思で跳躍はできないよ。嘘ついて、ごめんね」
「お前は」
「未来に跳ぶのは、実はたいしたことじゃない。難しいは難しいけど、ぼくに負担なんてかからない。だましてたのは、きみには逃げてほしくなかったからさ。大事な過去から」
ずっと、そばにいたというわけだ。ウィルが魂の欠乏から逃れるための方法は、平気な顔をして騙してきていた。
彼の魂の半分は、襲撃犯によって奪われたのではない。シカウス夫妻によって取り出されていた。彼らが用のなくなった実験体の魂に、関心を向けるとは思えない。外へと出た中途半端なそれは、再び捕まることはなく、何かしらの過程を経て変化していったのだ。
跳躍種の正体は、人間種の魂なのか。
わざわざそう尋ねる愚は犯さなかった。それはあまりにも陳腐な物語的すぎる。そうではなかった場合も、もちろんあったはずだ。元から跳躍種として生まれてきた個体、そして何かの魂から変化した、後成りの個体。そういう分かれ方になっているだけだった。
ウィルが跳躍者となれたのも、偶然ではなかった。八年前から、ほぼ決まっていたことだったのだ。
「どう、するつもりだ」
シカウスは首をかしげる。
「何言ってるの? 当然、きみは殺すに決まってるじゃん。相変わらず、馬鹿だなあ」
自分の命が危機にさらされていると知っても、ウィルはほとんど感情を動かされなかった。ここまできて命乞いを考えるほど、彼は自分自身に希望を持ってはいない。これが報いなのだと、受け入れるべき罰なのだと、思うこともできる。
だが。
「ルイシーナ、は」
シカウスの笑みが、消えていく。反対にその声は、より軽快なものになっていった。
「きみの死体を乗っ取って、しばらくは彼女を支えてあげるかな。可哀そうだよね。頼れる相手、他にいなさそうだし。そうして彼女を精神的にも肉体的にも依存させてから、目の前で自害するよ。それでようやく、ぼくはすっきりできる」
「そうか」
ウィルは鞄を抱え直した。もう、これで最後にしよう。自分に期待するのは苦しいことだが、ここだけは。この戦いだけは、乗り越えなければいけない。
「それだけは、させられねえな」
「ま、がんばりなよ。ぼくも無敵じゃないし。上手くいったら、殺せるかもね。この体も一緒に……」
ルイシーナの顔は、もはや別物のようだった。彼女は、こんな邪悪な笑みを浮かべることはしない。
一歩進むと、急に鞄から何かが出てきた。その黒い煙のような生物は、ウィルの体を押しのけて、シカウスへと向かっていく。
そしてニーハは、その腕に定着した。
「ごめん。わたし、ままにあいたいの」
「安心していいよ。彼女できみの首を斬ったりとかはしないさ。もっと、気持ちのいいなぶり殺し方があるからね」
これだから、非実体種族は。
言葉として出すことはしなかった。まるで格好がつかないからだ。今までそういう存在に散々頼ってきたのは、自分だった。敵だろうが味方だろうが、それぞれには様々な思惑があるのだと、学んだばかりだった。
「最初は、決闘みたくしよう。構えて同時にってやつ。はい、さっさと準備してね」
シカウスは、ルイシーナの片腕をもぎ取った。大量の血が流れ出る前に、即座に新しい腕を巻き戻しによって形成させていく。取れた方の腕は、さらに半分に折られた。彼女自身が動かしていないとはいえ、その力は維持されているようだ。最終的に、その腕は四つの肉の塊になった。
相手が砲弾を調達している間、ウィルはゆっくりと鞄から球体を取り出していた。二つしか残っていない。それらを片手で握り、構える。
シカウスはその様子を見て、可笑しそうな顔をする。笑い声は出てこない。
「じゃあ、はじめ」
同時に、それぞれの物体が投げられた。
ウィルは跳躍の操作をしながら、両足を最大限加速させる。今まで散々武器として使ってきた力なのだ。それが自分に向けられた時のことを、考えていないわけがない。横方向へと全力で走り、避けようとした。
顔が、床に激突する。痛みで一瞬何も考えられなくなった。
脇腹と両足に、肉が食い込んでいる。体の中に突然異物が出現するというのは、想像以上にきついものだった。これ以上の苦痛を感じながら。多くのアルヴ達は死んでいったのだろう。
地面に転がっている粘土の球体を拾い上げて、シカウスは嘲笑した。
「きみってさあ、ほんと、自分のこと賢いと思ってる種類の馬鹿だよね。空間座標の調節をしてたのは、全部ぼくだ。過転砲の撃ち合いで、勝てるわけないじゃーん」
右足を潰しかけている肉を排除するために、時場を展開させる。
「愛しのルイシーナを、体の中で感じる気分はどう?」
「愛しくなんか、ねえよ」
「あっそ」
立ち上がった瞬間、背中を殴られる。一歩前に踏み出そうとしたら、右足を踏み潰される。シカウスが側面から抱き着いてきて、腕の骨を折ってくる。
三体の敵から同時に攻撃されて、ウィルは再び床に伏した。
「ほら、がんばって。立って立って」
その位置を把握しようとしても、不可能だ。透身を行っているわけではない。ウィルがギデオンとの戦いでやっていたように、短い跳躍を繰り返しているのだ。これはさすがに、実際に体験してみるまでわからなかった。
ここまで、対応するのが難しかったとは。
両耳の先が、切断された。うめきながらも、何とか巻き戻しを行っていく。肉は戻るのに、流れ落ちた血はほとんど還っていかない。
「ニーハの切れ味は、ほんとにすごいね。気に入ったよ。言ったでしょ? 跳躍者の最後はってやつ。これも、自殺みたいなものだよね」
自分自身に、殺される。
可能性を一つ一つ潰していくのが、重要だった。
もう過転砲は使えない。それは明らかだ。座標の指定というのは、かなり難しいものらしい。今ここで、苦痛に耐えながら習得できることではない。
そもそも、攻撃をするという選択肢そのものが駄目だ。跳躍種は非実体種族。今持っている攻撃手段では、通用しない可能性が高い。もし通ったとしても、それはルイシーナを傷つけることでしかない。
だから、今できることだけをするべきだった。徐々に研いでいって、扱える段階にまで引き上げればいい。ウィルはそのために、目を閉じることだけはしなかった。決定的な感覚を掴むまで、決して屈することはしないと決めた。
シカウスに歯を折られた直後、少しだけ笑ってやった。
「なに?」
「よく、口が回ると、思って」
頬をさらに殴られる。
「んー、もしかして足りない? 慣れちゃったかな」
「八歳のガキのくせに、小賢しい喋り方、しやがって。俺って実は、幼い頃は天才だった、のか?」
「今、きみが喋る時間じゃないよ」
重要なのは、相手に冷静な判断をさせないということだった。いつ気が変わって、とどめを刺そうとしてくるのかもわからない。それを防ぐため、こちらを痛めつけなければならないとシカウスに思わせる。
「それとも、俺の脳から引き出しでも、したのか? 気持ち悪い」
「うるさいな」
「あるいは、親の教育の、おかげか?」
「黙れ」
その蹴りは、今まで一番感情に揺さぶられていた。元から鋭さはあまりない。ルイシーナの膂力に頼っているだけの、荒い暴力だ。
だからようやく、捉えることができた。
腰を少し抉られる。焼けるような痛みがやってきた。だが、それだけだ。
本当は、もっとひどい怪我になるはずだった。
相手は少しの間だけ、動きを止めた。
今度は、顎を砕こうとしてくる。このまま何もしなければ、拳の中指と薬指の部分が当たって、盛大に脳を揺らされるだろう。さらにその追撃として、腹を蹴ってくるつもりのようだった。
ウィルは体の動きを加速させて、最初の拳を完全にかわした。
「どうした?」
シカウスは何かがおかしいことにが気が付いている。だがまだ、その原因に思い当たっていないようだ。わずかに距離を取り始めた。
「愚図の人間種によけられてんぞ」
いままでずっと履いていた、靴の機能を開放する。後ろの壁へと跳び移り、正確に着地をする。靴底に溜められていた魔素の形質が変化し、十分な粘着性を持つようになる。靴の上の方ではさらに別の種類の魔素が放出され、全身の重力制御をやりやすくしていく。
そのまま壁を走りながら、相手の攻撃を避けていった。途中からシカウスは過転砲も利用し始めたが、当たることはない。敵の様子が見る見るうちに乱れていくのは、今までの痛みが紛れるほど愉快なものだった。
「おかしいだろ」
「なんで、なんで、この」
「どう考えたって、お前の言っていることはおかしい。パパとママの仇だ? 笑わせんなよ」
「当たらない」
「あんな奴らのどこが、親なんだ? 俺はよく知らない。でも、お前は知ってたはずだ。あんなのは、虐待だろ」
「うるさい!」
どうやら、もう少し力に余裕を持たせていたようだった。処理すべきことが、倍増していく。ウィルは最小限の動きを念頭に置きながら、次々と出現する肉やこの家の一部をよけていった。
完璧にとはいかない。自分は優秀な白きアルヴでも、心から尊敬できるその姉でも、歴戦の天理種でもないのだ。だから、怪我は確実に増えていく。それでも、今までよりははるかにましだった。
シカウスは一度、自身の跳躍を止めていた。
「うるさい、うるさい……」
唇の先だけを、自分自身の爪と重ならせるつもりらしい。地味に痛そうだったので、さらに本腰を入れてかわし始めた。
直後、目の前を指が通り過ぎていく。
それで止まることはない。さらに三度ほど己を跳躍させて、ウィルの死角を取ろうとしてきた。だが再出現する時には、既にこちらは体の位置をずらし終えている。少しでも乱れが生じると、相手はまるで対応できなくなるようだった。
座標は、適切だ。だが跳躍そのものにはやや遅延があった。相手は正確な時点を捉えられていない。今までは、別の誰かに任せていたことだから。
シカウスは後ろへと跳んで、穴が開くほど見つめてきた。
その顔が、苦々しげに歪んでいく。
「きみ、まさか」
「俺の質問に、答えろよ」
「未来を。ありえない! ギデオンの真似事なんて」
否定の言葉は、途中で消えていく。
シカウスの見る先には、ウィルの瞳があった。その色が、変化している。前よりもずっと濃い緑になっていた。
ウィルは少しの間目を閉じる。この力が、視覚に依存しているわけでもないことは、わかってきていた。一度も教えられたことはないのにもかかわらず、馴染みのあるものとして中にある。
再び瞼を開くと、出てきた瞳はほんの少しだけ潤んでいた。
そして、相手を挑発するような笑みを浮かべる。
「俺とお前の差を、教えてやるよ」
「ウィル・デーシス……」
「家族だ。お前は恵まれなくて、残念だったな」
こめかみに触れてくる、太い指先。
ギデオンの最後の生きた感触を思い返し、さらに別の仕掛けを施し始めた。
シカウスの姿が、消失する。
本番でいきなりやることがあって、それを成功させなければいけない場面がどんなに多いことか。ウィルがそれを学んだのは、ごく最近だった。結局生き残るのは、少ない好機を捉えた者なのだと。
次は、五つの方向から攻撃がやってくる。その一つをかすらせることを選び、後は全て完璧に避けた。
猶予はわずかだ。見える未来の範囲も、大きくはない。同時に複数のそれを処理しなければいけない場合がほとんど。それでもウィルは、成功し続けていた。
簡単な事だ。時場の一つを、自らの脳に割り込ませているだけ。そうして、思考を加速させている。こうすることで、短い時間でより多くのことを考えられる。相手はできないだろう。自分のものでもない頭の中へと干渉するのは、相当難しいはずだ。
本番でいきなり使うことを想定していた技だった。自分以外、誰にも教えることはなく、もしかすれば死ぬまで使っていなかったかもしれないもの。危機への対策としては、有効だった。
ウィルにとっては、当然の備えだった。時間を操作するなどという一番胡散臭い存在が、そばにいたのだ。そもそも言葉と態度で一度は示したはずだった。ホロを信頼することはできないと。
その拳が耳のすぐ横を通り過ぎていく。とてもゆっくりに感じる。
「わかってるんだ」
シカウスはすっかり余裕を失くした声で、続けた。
「ずっと、そうだった。ほとんど外に出させてもらえなかった。変な薬を何個も飲まされて、ずっと閉じ込められてた」
「だろうな」
「それでも、パパとママだったんだ!」
黒い刃が、変形している。その動きが一番複雑だった。さらに見なければいけない未来が増えて、さすがにウィルの方も苦しくなってくる。
もう少し。
「それでも、産んでくれたんだ。育ててくれたんだ……。なのに、お前は! 全部台無しにした!」
「お前の苦しみの原因が、全部あのクズどもだったとしても?」
「ふざけるな!」
相手の怒りは増しているようなのに、学び始めてもいるようだ。結局ウィルは、跳躍で逃げることはできない。体の動きは加速できても、身体能力そのものは弱いままだ。だから無理矢理捕らわれてしまったら、抵抗はしづらくなる。
彼の腰の上に乗り、シカウスは拳を振り上げた。
何度も、顔を殴りつけてくる。
「なんで、なんでお前だったんだ! もう片方だっただけのくせに、なんで! ぼくは何も感じられないまま八年漂ってきたのに、お前は呑気に生きてきた。ふざけるな……。お前の全部を否定してやる。全部壊してやる。ざまあみろ。お前の大切なものはもう、ほとんど残ってない。お前自身が、壊したんだ。だから最後まで、やってやるんだ」
「じゃあ、さっさとやれよ。クソガキ」
「お前だって、ガキだろ!」
「ガキの攻撃なんて、痛くもなんともねえんだよ。工夫しろよ馬鹿。全部よけてやるけどな」
すぐに、相手は己が持ちうる手段について思い当たったようだった。それを使うことがどれだけ危険かも考えようとはせず、ただウィルを痛めつけるためだけに発した。
風の刃が、首元を狙ってくる。
当然それは読んでいたので、顔をわずかに動かしてかわした。
だが、それまでだった。同時に繰り出されていた貫手までは、対応することができなかった。
再びルイシーナの腕によって、腹を貫かれる。さらにそこを支点にして、持ち上げられた。ウィルは盛大に血を吐いて、笑っている相手を見下ろした。
「もういい。もう殺してやる」
なるべく邪悪に見えるような表情を、心掛けた。ここまできて気が変わり、自分の命が一番大事になったのだと思わせるような。
「俺は、誰を犠牲にしてでも、生きるよ」
「は?」
「術を、使ったな?」
相手が気付く前に、時場を操作した。シカウスにも、ちゃんと見えているはずだ。二つの時場が、右耳と左耳を包もうとしていることに。それらは加速と減速に分けられており、魔素の暴走を誘発させるものなのだと、理解している。
今までは、避けていたはずだった。その殺害方法を一応警戒して、ほぼ肉弾戦だけ行っていた。その冷静さを崩すことこそが、ウィルにとっての勝利条件だった。
ホロが、ルイシーナの頭に身を落ち着けていることは簡単に予想できた。跳躍種といえど、彼女を操作するのは、中枢器官に近くなければできなかっただろうから。もしそこに、魔素の爆発がやってきたら?
相手は確実に、離脱しようとするはずだ。自分の死を防ぐために、より表面の方へと出てくるはずだ。たとえ暴発させる動きがただのふりだったとしても、引っかかってくれるはずだった。
ウィル・デーシスとウィル・シカウスの差は、他にもある。それは、先ほど戦ったギデオンとの違いでもあった。
一人ではない、ということ。
シカウスの右腕から、瞬時に黒い線が伸びていった。それはルイシーナの頭をあっさりと貫通していく。しかし、傷ができることはない。ニーハが狙っているのは、ただ一体の非実体種族だけだった。
白い長耳が、ルイシーナの頬から飛び出してくる。その全身が引きずり出されるのは、あっという間だった。ホロは何とか体勢を整えようとするが、遅い。ニーハから伸びた無数の針によって、集中的に攻撃を受けた。
そしてぼろきれのように、白い獣が転がる。そのつぶらな黒い瞳を天井へと向けながら、血の混じった唾を吐いた。
『これだから、非実体種族は』
「うまくいった」
『ひどいよ。約束、したじゃないか』
ニーハは、ルイシーナの腕を引き抜こうと四苦八苦しているウィルを手伝った。そして彼の傷が巻き戻されていくのを確認した後、堂々とその場で浮かんでいく。
「さきに、ギデオンとやくそくしてたの。なにがあっても、ウィルをまもるって」
『律儀だね』
「それにね、わたし、ままがのぞんでないことは、したくない。ままは、ルイシーナとウィル、どっちもしあわせになるのをねがったの。だから、こうするの」
『ああ、そう。なるほど。結局、勝てる見込みなんか、なかったわけだ』
悠長に会話をしている間に、逃げられる可能性もあった。だが、何もしてこない。見た目から考えても、満身創痍であることは確かだった。ニーハの破壊能力は、非実体に対して最も強く発揮される。
ウィルは立ち上がり、ただその種族を見下ろした。かつて自分だったもの。もしかすれば、自分がなっていたかもしれないもの。
『何してる?』
「お前の無様な姿を堪能してる」
『さっさとやりなよ。ぼくを上手く食べたら、魂を完全な形に、戻すことができる』
「俺達を未来に戻せ。できるんだろ?」
『だから、ぼくを吸収すれば、簡単にできるんだって……』
「質問してやる」
毛で覆われた耳が、わずかに立った。
虚ろになり始めている、相手の瞳を覗きこんだ。
「俺が、一番嫌いなことは何だ?」
相手はほとんど、迷わなかった。
『何かに、囚われること』
ヒトという枠組み。魔素も優れた膂力もない、劣等感。向けられる貴重な種族への憧れ、付随する嫉妬、恨み。それらを良しとしない両親。
そして、自分自身。
「さすがは、ウィル。よくわかってるな。お前は、このまま消えるのがお似合いだよ」
ホロは、苦笑していた。
『きみって、ひどいよね』
「お前みたいな奴を、魂に含めるなんてぞっとする。くたばっとけ」
『別れられて、せいせいするよ』
時場の流れを、感じる。
ホロの中にあるそれと、自分の中にあるそれが、結合していく。これで、帰る準備は整った。ウィルは不思議な気分でいた。少し前まで殺そうとしてきていた相手に、委ねている。元々、自分は未来へと跳躍することを全く練習してこなかった。そこだけは、馬鹿だと罵られても仕方がない。
「じゃあな」
そう言った直後、ホロの口が少しだけ開いた。
徐々にその顔が、横へと向いていく。
『ぼくの初恋は、六歳の時、だったんだ』
十年前だ。
その瞳は、真っすぐ彼女へと向けられている。
『毎日苦しくて、何も楽しくなくて。でもその日だけは、出してもらえた。ぼくは、あんなに綺麗なもの、初めて見たんだ……』
相手も、ちゃんとウィルのことを認識したのだろうか。回帰主義者から助けられたばかりの頃だったはず。それでも、白きアルヴとしてのお披露目をやり遂げたのだろうか。少なくとも人間種の少年に対しては、成功していたようだ。
「もう、わかった」
『だから、だから……。楽しかったのは、本当。きみがいなければ、かんぺき、だったね。もし、この先、彼女を苦しめたら、死んでも』
「もう言わなくていい」
他の道があっただろうか。
少し考えて、やめる。きっとどんなことがあっても、結局はこうなっていただろう。〈ウィル〉は、自分へのあらゆる仕打ちを忘れない。最後まで、目的のために進もうとする。それは幼い頃から変わっていなかったのだと、ある意味安心していた。
馴染みの感触に包まれた。最後の跳躍が、始まろうとしている。
そして全てが切り替わっていく直前、ホロは会心の笑みを最後に浮かべた。
『癪だから、跳ぶ先を、追加しちゃうね』
「あ、おい」
止めようとしても、何もかもが遅かった。
『ばいばい、ウィル』




