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オルランの一人ぼっち  作者: 矢部涼
1/11

1.白きアルヴ

 自分自身が、曲がり角から現れたらどうするだろう?


「左に曲がれ。あと十五秒後に」


 普通なら、唖然とするのかもしれない。立ち止まり、様々な疑問を相手にぶつけることさえするかもしれない。

 ウィルは、怒鳴り返すことを選んだ。


「一体なんでこんな──」


 全力で走っているために、息苦しさが伴う。

 相手は彼と全く同じ顔をしながら、全く同じ声で答えてきた。


「後でわかる」

「あれだけ気をつけて…」


 既に、未来のウィルは消えている。まるで何かを恐れているかのような早さだった。

 恐ろしいのは、自分も同じだ。既に翼の音が複数近づいてきていた。躊躇していたら、あっという間に捕まってしまうだろう。

 両足にかけていた加速を、再び確かなものにする。

 周りの光景が、さらに速く流れていった。


「止まれ!」

「ギデオン様、やはり彼です。カラート第三通りを逃走中」

「傷つけるつもりはない! 分身体をすぐに」


 聞いたことのある声。何度か世話になっている部隊らしい。さらに全身が重くなった気がした。もし捕まってしまったら、面倒になることは確実だ。

 右からも声がしたので、即座に左へと方向を変えた。まさに先ほどの忠告から十五秒後だった。自分が何をしてしまったのかを考え、すぐに頭の外へと放り投げる。

 談笑している、獣頭の男女。どちらも肉を容易に裂けそうな牙を持っている。彼らの間を通り抜けて、さらに前へと進んでいく。

 問題は何をしたのかではない。どうしてそれを知られたか、だ。 

 突然上の方から、叫ぶような指示が飛んでくる。


「靴を使え! 壁を走らないと終わるぞ!」


 今度は、どれくらい後の自分なのだろう。

 最初よりも切羽詰まったものだった。つまり、すぐに実行しなければいけないということ。

 両足へと力を入れて、地面から跳び上がる。

 同時に身に着けていた愛用の靴が、浮力を産み出していく。それほど高価ではなかったが、十分な働きをしてくれていた。

 壁に着地し、そのまま走り続ける。立体広告が目の前にあったものの、止まることはできない。〈東部第十四界壁、修復作業のため五時間閉鎖〉〈アルヴ回帰主義者が処刑。ルイシーナ女王に危険は及ばず〉〈海獣種(セド)が新たに重要指定保護種へと認定。胆狩りの活発化が原因か〉日常を彩る文字や画像が、踏み散らされていく。

 地面から、二枚の白い翼が飛び出してきた。潜って待ち伏せしていたのだろう。もし壁を使っていなかったら、そのまま捕まっていた所だった。

 しかし、安心する余裕は与えられない。

 ウィルは、思わずうめいた。壁の一部に、甲殻類の体液のようなものがこびり付いている。少しの粘着性と滑りやすさを申し分なく兼ね揃えていて、靴を簡単に制御不能にした。

 壁から滑り、空中へと体が投げ出される。

 とっさに両手を胸に当てて、流れを意識した。全身にやるのは初めてだったが、信じるしかない。

 地面に激突する前に、体が減速していくのを感じた。

 膝の先が着くと同時に、体の時間の流れを元に戻していく。初めての成功を、喜ぶ間もない。すぐに走り始めなければいけなかった。


「そこのゴミ箱に入れ! 我慢しろ」


 偉そうなことを、と反論しそうになったが、指示してきている相手も既にそうしたことがある可能性に気がつく。最初にこの馬鹿げたことを始めたのは、どの自分なのだろう。

 泥沼のような疑問にはまる前に、廃棄物の塊へと飛び込んだ。

 息をひそめていると、周りの音が良く聞こえる。すぐそばを、羽ばたきの音が通り過ぎていく。どうやら非常に優秀な種族であっても、限界はあるらしい。ウィルが別の方向に行ったと勘違いしたようで、追跡者達の気配が遠くなっていった。


「このままじっとしてろ。下に行ける。地下処理場から、家に向かう道は知ってるだろ?」


 ウィルはあまり息を吸いこまないようにしながら、横を見た。

 そろそろ切らなければと思っていた、ぼさぼさの黒髪。緑色の目。その下は、うっすらと隈ができている。

 鏡もないのに自分自身の顔を眺めるのは、妙な気分だった。


「一体何したんだよ」


 おそらく未来から来たであろうウィルは、肩をすくめる。


「正当な権利を行使してる。すぐにわかるよ」

「お前、むかつくな。絶対俺の方が賢い…」


 最後まで言わせてはもらえなかった。箱の底が消失し、諸々の残骸と共に落ちていく。再び体を減速させる必要があったせいで、未来の自分が消えていることに遅れて気がついた。

 着地の痛みはなかったものの、臭いのある塊と共に転がっていく気分は最悪だった。口を両手でふさぎ、目を固く閉じながら、処理場に到着するのを待つ。

 流れが止まったのを感じてから、数秒数えた。それからゆっくりと、目を開ける。

 半身を起こしたウィルに対して、二体がじろじろ眺めてきていた。


「あんた、ゴミじゃねえだろ」


 茶色の毛でおおわれた顔。黒い鼻。獣類の一種だろう。そしてもう一方は、四つの目を持っていた。産毛すらない光沢のある顔の上に、作業員の証である帽子がかぶせられている。こちらは、甲殻類だ。

 ウィルは、その額から伸びている触角を見つめながら、立ち上がった。


「最近、壁に唾吐いたりしました?」


 縦に並んだ二つの右目が、糸を引きながら瞬きした。


「おれの癖知ってるのか。光栄だなウィル」


 獣顔の方を見れば、既にふさふさとした耳を立ち上げている。今まで散々見たことのある表情。好奇心というのは、種族が大きく違っても、はっきりと伝わってくるようだ。

 一度尻尾を振ってから、獣顔は笑顔を強めた。 


「握手してくれよ。娘に自慢できる」

「いいですけど、先に体と服洗わせてください」


 要求したものに加えて、処理場の作業服までもらえた。正直実用性があるかどうかは疑問だったが、親切を跳ねのけてはいけない。多少常識がずれていると思っても、受け入れる。この世界では、常識の一つだった。

 ついでに皆で立体写真を撮ってから、別れた。

 そこからは何の苦労もなかった。ここらの地下道は整備がしっかりとされていて、危険な生物が出てくる心配はない。だから多少の臭いを我慢するだけで、安全に進んでいくことができる。

 作業員からもらった鍵を使い、地上への出口を開ける。

 もちろん油断はしていなかった。少しだけ顔を出し、周囲の状況を確認する。何かを探しているような存在はいなかったので、一気に上がった。

 家路につきながら、考える。

 可能性は、無限大のように思えるのだ。彼には今、重大な選択肢が課されている。つまり散々創作物で登場してきたような、未来と過去に関する問題が。

 指を一本立てる。もしこのまま自宅で隠れ続け、明日までやり過ごせたとしたら。天理種(ヴィラ)に目を付けられるなどという未来も、なかったことになるかもしれない。全てが丸く収まる可能性が、まだ残っているのだ。

 ほくそ笑みながら、自宅のある通りへと出た。

 そこで、思考が固まる。

 一組の男女が、情熱的に抱き合っていた。

 男の方はよくわからない。こちらに背を向けていて、外套のようなものを身に着けている。このような暑い環境下では、より奇妙に映った。

 そして女の方は、ウィルをじっと見つめてきている。男の肩に顔を乗せ、抱きしめながら、より瞳を大きくした。空色のそれが異様な光を発する。どこかへと、引きずり込もうとしてくる。

 ウィルは、深呼吸をした。

 少し瞬きをしただけで、彼らは消失している。大きく首を振ってから、眉間を指で揉んだ。どうやら、かなり疲れているらしい。彼女の幻を見るなんて、冗談にもならない。

 歩みを再開した所で、上空から何かが急速に降ってきた。

 破砕音を響かせながら、大柄な男が目の前に着地する。


「お前で四人目だ。さて、どうしたものかな」

 

 六枚の白翼が、一度だけ揺れた。

 相手の頭上にある光輪を一瞥してから、ウィルは冗談を言う時のような笑みをこぼした。


「いやいや、おかしいよ。何もやってない」

「ウィルよ。これは、高くつくぞ」

「ギデオン、さん。俺はまだ何もやってないって!」


 茶色の髭を一度撫でてから、天理種(ヴィラ)の頂点の一体が近づいてくる。ウィルは何とか後ずさろうとしているが、もはや逃げられないことはわかりきっていた。

 いや、果たしてそうだろうか?

 ギデオンは、満面の笑みをしている。この男がそういう顔をする時は、本当に喜んでいるか、繕う必要があるほど激怒しているかだ。


跳躍者(リプナー)の扱いがどれだけ難しいか、わからぬわけではあるまい? 我輩の仕事が劇的に増えてな。二日は寝れん。お前もその苦しみの一部を味わうといい」


 またあのゴミにまみれるのかと思うと、うんざりする。しかし、不公平は良くない。過去の自分も今のような目に遭うべきだった。これは、正当な権利なのだ。

 ウィルは、過去への跳躍を始めた。








「制限時間は、五十分。それでは始めてください」


 教室内は、常温に保たれていた。この気温を好む種族の割合が、一番多いためだ。もっと暑い、あるいは寒い環境を好む者は、各々の手段で自身の周りの温度を調節していた。

 赤精種(グイカ)氷霊種(アズー)に挟まれているウィルは、不運と言ってもいいのかもしれない。しかし彼でも、慣れはするものだ。両者から等距離の場所を見極めれば、最低限の健康は保てる。

 それよりも、寝不足による問題の方が大きかった。前期最後の試験は、多分類学。最も得意な科目ではあるものの、集中を切らせば足元をすくわれる。

 支給された印字道具が、手から落ちてしまった。左の炎と右の氷が動きかけたが、それを無言で止める。凍らされた後、溶かされて濡れてしまった道具を使う羽目になったのは、一度だけではないからだ。その逆も然り。

 印字道具を拾うと、何かがおかしいことに気がついた。

 先端部分から、白いものが出ている。

 耳だ。

 思わず、左右を確かめた。誰も気が付いている様子はない。あまり続けると別の疑いを持たれそうなので、目線を戻す。

 それは、完全に姿を現していた。まず目に入るのが、二つの長い耳だ。ウィルが口を半開きにすると、ぴくぴく動き始めた。

 光を淡く反射している、つぶらな黒い目。そして六本の細いひげと、鼻の下にある控え目な口は、その生物が保護されるべきものだと主張している。女子が見れば、大騒ぎするに違いない。獣類の一種に似たものがいたような気もするが、これほど小さな個体はそういない。

 ウィルが見つめても、その生物は首をかしげるだけだった。その場に座りこんで、空間に投射されている試験問題を眺め始める。

 残り時間が半分になったことが告知され、彼は慌てて手を動かした。気にはなるものの、後で解決すればいいだけだ。今は、優先すべきことが他にある。

 結局、試験は微妙な結果に終わった。


「では、皆さん。乾季休暇を楽しんでください」


 長い鱗の胴体を引きずりながら、教員が出ていく。直後、ほとんどの者達が歓声を上げた。様々な属性の光や物体が天井まで打ち上げられ、祝福の音を鳴らす。

 左右の種族からの誘いを断ってから、ウィルは机の端に寄った。難しい顔をしながら、試験結果と謎の白い生物を見比べる。


「ウィル・デーシス」


 その声は大きいものではなかったが、教室全体のざわつきを全て貫通するほどの威力があった。一気に、周りの生徒の話し声が小さくなっていく。

 彼はたっぷりともったいつけてから、声の方を向いた。

 一番前に座っていた女子生徒が、いつの間にかそばにまで来ている。ウィルの試験結果をちらりと見てから、さらに大きく目を開いた。

 おそらく、それが一番の特徴だろう。背中にかかる白みがかった金髪よりも、横へと伸びている細い耳よりも、気品と少しの色気を兼ね揃えた顔の作りよりも、空色の瞳が印象的だった。

 ウィルは下からその目を覗き込み、思考に沈みかけた。あの引きずり込むような力は感じない。一体、何が違うのだろうか。


「な、なんですか?」


 その声で、自分が見過ぎていたことに気がついた。

勢いよく立ち上がる。両手を広げて、無理矢理微笑んだ。


「これはこれは、白きアルヴ。オルランの麗宝とも称される、ルイシーナ・エイブリー・フレヤ・アルヴ十八世様ではありませんか。このような若輩者に、一体何用ですか?」


 先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。残っている全ての生徒が、この両者の会話に注目している。ほぼ例外なく、楽しげだった。また面白い見世物が始まったとも言いたげだ。

 相手の女子、ルイシーナは少しの間固まっていた。目の端が一度震え、表情が引き締まる。しかしすぐにその唇が、獲物を見つけたかのように吊り上がった。


「あら」


 彼女の周りで、透明な光が弾ける。この女性が、あらゆる属性に愛されている証拠だ。

 ルイシーナは、華麗な挨拶をしてみせた。片足を曲げてから元に戻るだけで、確固とした形になっている。


人間種(フーニ)。そして緑子のウィル・デーシスではありませんか。他種族の知識の豊富さにかけては、右に出る者がいないと聞いております。貴方の多分類学の試験結果は…、九十三点? 私は満点でした。まあ! 勝ってしまいましたわ」


 後半は、ほとんど聞いていなかった。

 ルイシーナの体を、白い生物が軽々と登っている。彼女は気づいてもおかしくないのに、ウィルの口数に対抗するのに夢中だ。周りの生徒達も、その存在が見えていないようだった。

 獣類の一種は、その小さな足からは考えられないほどの跳躍をして、彼女の肩に乗った。そしてウィルを見つめると、非常にいやらしい笑みを浮かべる。


『尻か胸か?』


 思わず、驚愕の声が出かける。


『喋らないで。思うだけでいいからね』


 その生物が、自分にもわかる言葉を使うこと自体は、大したことではなかった。問題はその言葉を、他の者達が全く拾えていないという点だ、どんな術が施された音でも、聞き取れる種族はいくらでもいるはずなのに。


(何……、なんだお前)

『知りたいなら、質問に答えて』

(はあ?)

『おしりか、おっぱいか?』

(わけわからん)

『きみ、男性器付いてるよね? どっちかは好きに決まってるよ』


 少年の声と、可愛らしい外見には似合わない言葉。それが余計、状況判断を遅らせた。彼は言われたことをそのまま受け入れて、勢いのまま答えてしまう。


(胸、だろ)

『当たり! ぼくの思った通りだった。だからこの女の子かー』


 その生物は、ルイシーナの首元で浮いた。これ見よがしに、胸の辺りへと腰かける。もちろん、ふりだけだ。さすがに小動物を支えられるほどには、抜きん出た特徴でもない。

 そこまで考えて、ウィルは己の過ちに気がついた。

 教室の沈黙が、先ほどとは別種のものになっている。主に女性からの視線が、強くなってきていた。

 一番鋭く睨んできているのは、当然ルイシーナだ。


「どこを、見ているのですか?」


 既に、白い珍獣はいない。彼女は自分の胸を両腕で隠していた。

 狼狽を何とか抑えながら、この状況を打破しようと考える。


「胸を見てたんだ。八十八点ってとこだな。俺の試験結果を上回るくらいにはがんばれよ」


 口が勝手に動いた。

 顔が横に吹き飛ばされるような感触の後、痛みがやってきていた。

 周りであらゆる鳴き声が爆発する、二秒前のことである。


 

 






 二足歩行種専用の階段を使い、一階部分へと降りた。自分の荷物置き場にたどり着くと、持っている光子鍵で開ける。

 まだ痛む頬を撫でてから、溜まっている音声通知の処理に取り掛かった。

〈がまんできない。血吸わせて。東棟二・五階に来て〉

 熱烈な音声。相手が一体だけで待ってるとは限らないので、当然却下。

〈今度水棲類との集まりあるんだけど、来ねーか? 詳細は第二ホールで〉

 ウィルの友達の口調を装っているが、罠の可能性が高い。

〈休暇中、遠力術の補修があります。忘れないように。補足事項の確認のため、第四冷水場に来てください〉

 彼がその授業を落第しているのは確かだが、これも罠だ。前に一度、教員にも巻き付かれたことがある。

 他にも大量の通知を消去していった。いくら術的防護をかけてもらっても、それを欺こうとする者が出てくる。この学園は、優秀な種族がそろっているらしい。最後に思いっきり戸を閉めてから、正門へと向かった。

 途中集まってくる視線は、ほとんど障害にはならない。慣れたのは、いつからだっただろう。自分の数倍以上の速さで地を走り、空を飛び、海を泳いでいく存在を受け入れるのと同じくらいは、難しい問題だったはずだ。

 胸に、わずかな痛みが走る。ここ数日間、忘れていた感覚だった。あまり周りを見ないようにしながら、学園の敷地から出た。

 視線が絡みついてくるのは、変わらない。だがその中で、ただの好奇心ではすまされないものもあった。

 道の向こう側から、女性が近づいてくる。銀髪を後ろで縛り、黒い鋼帯服の上からでもわかる引き締まった手足を動かしながら、ウィルの横に並んだ。


「どうも…」


 初対面というわけでもなかったので、会釈をした。しかし、相手は細長い褐色の耳を少し動かしただけで、何も返してはこない。明らかに嫌われているとわかっているのに、一緒に歩かれるのは非常に気まずかった。


「今度は、フィーリタの体でも狙っているのですか?」


 驚かされるのは、これが初めてだった。

 真横に出現したルイシーナが、鼻を鳴らす。同時に先ほどの女性が、やや後ろへと下がっていった。白きアルヴはその動きを複雑そうに見送った後、ウィルへと向き直ってくる。


『また、平手打ちしに来たのかも…』


 肩に図々しく座っている獣を消せるのなら、それも受け入れるつもりだった。


(お前のせいだろ)

『きみが思ってることを、代弁してあげただけだよ。失敗は認める。もうしないよ』

(どうだか)


 他からは見えず、聞こえもしない存在。つまり、自分の頭の中だけにいるということだ。そういったものを信じない方がいいのは、あらゆる事例が伝えていることだった。だが一方、この存在に注意を向けているおかげで、アルヴの女王と一緒に歩いているという事実を緩和することができている。

 彼女は前を向きながら、唐突に声を出してきた。


「大丈夫ですか?」

「何が?」


 澄んだ瞳が難しそうに細められている。


「貴方が、あの試験で間違えることなどありえないはずです。何か異常でも?」

「女王様と違って、間違えることもあるんだよ。俺もあと十九年生きたら、ましになるかもな」


 目のまえで、光が飛び散る。やや熱いこと以外は、特に害もなかった。

 ルイシーナは、ウィルを捻り潰したそうな顔をしている。


「どうした? 三十五歳」

「アルヴの基準では、まだ子供です」

「知ってるよ。そもそもなんで三十五歳は、俺についてきてるんだ?」


 ウィルが少し足を早めると、相手は浮き始めた。地面すれすれを維持しながら、前へと飛行し続けている。労力的にはむしろ辛くなっているのだろうが、どこか釈然としない光景だ。


「十六歳のいたいけな幼子が、勉学に支障の出るようなことに巻き込まれたのではないかと、心配しているのですよ。私は、あれが純粋な勝利だとは思っていません」

「別に、なんでもねえよ」

「そうですか?」


 彼女は指に付いている輪で、記事を流してくる。

 それは、非常に見覚えがあるものだった。


「最重要指定保護種、廃棄物処理場で作業員と交流」


 もしまたあの二体に会ったら、文句でも言ってやろうと思った。

示されている画像は、明らかに昨日、ウィルが彼らと一緒に撮ったものだ。真ん中の彼は頬を指で横に広げ、舌を出している。獣顔は威嚇するように牙を見せていた。甲殻類は、彼からすれば元から変なので、表情を作っているかどうかすらあまりわからない。

なるべく変な顔をしろと指示した挙句、情報商社に売り渡したとは。裁判を起こせば、勝てそうな気がした。


「なぜ、このような所に?」

「…気分転換」

「昨日、天理種(ヴィラ)が慌ただしい動きをしていたとの噂がありましたね」

「あいつらはいつだって、忙しそうだろ」


 あの力のことを一番知られたくないのは、この女性だった。それに関して、ウィルは明確な理由を持ち合わせていない。何かがごっそりと無くなってしまうような暗い予感がするのだ。

 ルイシーナは腕を組んで、右の種差し指と中指を上げた。それで肘の部分を叩くことを繰り返す。


「試験前に遊ぶのは、感心しません」


 他人の自宅の前で、男と抱き合ってたお前よりはましだけどな。

 実際に言うのは簡単なはずだったのに、ウィルの口から出ていくことはなかった。もしあれが本当に幻だったとしたら、妙な空気になることは確実だ。後ろの護衛に痛めつけられるかもしれない。

 次の言葉が思いつかないのは、彼女も同じようだった。沈黙が両者の間に降りてきて、そのまま停滞する。

 上空では、非実体種族の集団が通り過ぎていく。よく見れば、試験で一緒だった炎と氷も含まれている。彼らは時々混じり合いながら、楽しそうに飛んでいた。

 どうして、このアルヴはまだついてきているのだろう。自分と同じ方向に家があるわけではない。学園のそばにある寮に入っているはずだ。どんどん遠ざかっているのにも関わらず、進路を変える気配がない。


「何か、話でもあるのか?」


 ウィルは少し歩みを遅くし、彼女の方へと顔を向けた。相手は何か含みがあるというような表情をしていて、彼の質問に答えようとする。

 しかしその直前、正面に大きな影が現れた。

 彼らが立ち止まると同時に、大柄な男がゆっくりと着地する。服の上からでもわかるほど、発達した筋肉。ルイシーナの護衛とは、鍛え方が違っていた。

 剃り上げた側頭部をやや汗で濡らしながら、その男は翼をたたんだ。


「これは驚いた。いつの間にオルランの麗宝と縁を結んだのかね?」

「そういうのじゃねえよ」

「大量の氷を徴収したところでな。皆涼んでいくといい」


 ルイシーナとフィーリタという護衛は、明らかに気圧されていた。慣れていない者が相対すれば、そうなるのも当然だろう。

 世界に六体しかいない、光輪持ち。天理種(ヴィラ)の代表は、満面の笑みを浮かべた。





 フィーリタだけは、ウィルの自宅に入ることを断った。ギデオンの存在が、十分護衛の役目を果たしてくれているとのことだ。彼女は他にもやることがあるらしく、早々に去っていった。

 はっきり言って、あの女性に白きアルヴの護衛を任せた者は、無能だ。油断や怠慢というよりは、意図してルイシーナを避けているような感じがした。いざという時、悪い結果が生まれるのは明白だろう。

 微妙な空気を意にも介さず、ギデオンはにこにこしながら飛び上がった。


「大したもてなしもできず、申し訳ない。我輩のようなむさくるしい男は、邪魔だろう。ウィルは捻くれたところもあるが、なかなか頭の回る子だ。存分に話をしなさい」


 ルイシーナは、硬い表情のまま顎を引いた。右頬の部分が、少し膨らんでいる。彼女はかなりの暑がりのようで、あまり遠慮することなく氷を口の中に放り込んでいた。

 ギデオンは体の向きを反転させると、家の外へと飛んで行った。彼もまた相当暑いのが苦手だったはずだが、それを我慢してまで環境を整えようとしている。男女に何の邪魔も入らないような環境を。

 小さくなった氷を飲みこんでから、ルイシーナはこちらを向いてきた。


「気後れしないのですか?」

「外ではともかく、ここではただのおっさんだよ。余計な気も回すしな」


 彼女はあまり納得していないようだ。


戴天(たいてん)様の養子というのは、それなりに重圧があると思いますが」

「別に。気にしなかったら、何もないも同然だろ」

「それは…」


 彼女の表情が、面倒な色になった。何かを指摘する時の顔だ。ウィルも冗談で反撃する準備をしていたが、それは無駄に終わった。

 既にルイシーナは諦めている。その、どこか寂し気な様子が目に留まった。


「いい場所ですね。手入れが行き届いていて、空気も美味しい」

「来たことなかったっけ?」

「頭でもやられましたか? この辺りまで来たのは、初めてです」


 嘘を言っている気配はない。

 そこで一旦、疑問は放っておくことにした。いつまでも一つに囚われていると、大事な瞬間を逃すこともあるのだ。


「右隣の敷地、魔素がやや乱れています。何か事件が?」

「数年前に。俺とギデオンがいない間に、やられたらしい。別に俺を狙ったわけではないみたいだったけど」

「まだ痕跡が残っているなんて。よほどのことがあったんでしょうね」


 遠回りな話は、ここまでにするべきだった。


「で?」

「たいしたことではありません」


 彼女は浮かしていた体を動かし、椅子の上に着地させた。袖の短い緑色の上着をつかみ、前後にゆらす。そうして素肌へと風を送りこんでから、視線を合わせてきた。


「乾季休暇は、何日間ありますか?」

「あ? どういう?」

「こんな簡単な質問にも答えられないなんて、いよいよ末期ですね」

「ちょうど一か月だろ。喧嘩でも売ってんのか?」


 咳払いをする。彼女はそこで、ウィルから視線をそらした。


「短いようで、長い休みです」

「そうだな」

「貴方のような者にとっては、尚更そうでしょうね。やるべきこともせずに、勝手に退屈で押しつぶされるのが目に見えるようです」

「挑発すんなよ。更年期か?」

「ですから、良い機会をあげましょう」


 今度は、ためらうこともなく顔ごと向いてきた。長い睫毛まつげが、日の光と魔素の光に照らされる。ちょっとした仕草でも大仰なものになってしまうのが、ウィルにとっては苦手だった。


「数日後、私は故郷に帰ります。その時、いくらか学園の方達を連れてきても良いということになっているので」

「はあ」

「その中に、貴方も含めてあげてもいいですよ。不本意ですが」

「じゃあ別にいいです」

「重要指定保護種、夜精霊種(アルヴ)の集落ですよ? 怠惰な日々を過ごすよりは、はるかにましです」


 確かに、魅力的な提案ではあった。おそらくこういう誘いがなければ、一生行くことが叶わない場所だろう。

 ただ、彼女は大きな勘違いをしていた。ウィルには他のことに関わっていられないほどの大事が舞い込んできており、その検証を行うことこそが最優先なのだ。だから迷いなく、その提案を断ろうと思っていた。

 性欲旺盛な白い獣が、ルイシーナの膝で寝ている。


『ぼく、消えちゃうかも。断ったら』

(なに、ほざいてんだ?)

『アルヴは女性しかいないんだよ。知ってるよね? 行くでしょ。付いてるんだから』

(お前が消えて、この女とも離れられる。いいことづくめだな)

『いいのかなー。もう力使えなくなるよ?』

(はったりの可能性だってある)


 その生物は不敵な笑みを浮かべる。


『きみがあともう少しで、最悪な死に方をしたかもしれないって言っても?』


 窓から差す光は、紅に染まりかけていた。遠くで、甲殻類の特徴的な鳴き声が聞こえてくる。体温調節のための信号だ。乾季が深まってきたこの頃では、珍しくもない。

 ルイシーナは、段々と落ち着かなげな様子になってきている。ウィルの返事が遅くなっていることに、不安を覚えているのだろう。


『詳しく聞きたかったら、受け入れなよ。別に嫌じゃないよね?』

(…想像と、違った。もっと超然としてるかと)

『よく知られていない種族に対しての思い込みは、捨てた方がいいよ』


 ウィルは少しの間頭をかいてから、小さく頷いた。


「わかったよ」


 目に見えて、彼女の表情が柔らかくなった。


「はい?」

「行くから。そんなに来てほしいなら、しょうがない」

「愚かな勘違いをしているようですが。私と、貴方の友達も誘うつもりですよ」

「それはそれは。すごく楽しくなりそうだ」


 彼女とほぼ同時に立ち上がる。自分よりも少しだけ頭の位置が高くなっているのが、やけに目についた。

 ルイシーナから目をそらした直後、ギデオンの姿が目に飛び込んできた。


「どうし……」


 途中で、言葉を失う。記憶のある時から、ほとんど笑顔しか浮かんでいなかった岩のような顔。その上を、二筋の涙が流れ落ちている。今まではどれだけ忙殺され追いつめられていても、見せたことのない表情をしていた。

 ウィルはルイシーナから離れ、戸口へと近づく。


「なんで、泣いてるんだよ」

「なに…、感慨深くなってな」


 ギデオンは大きな手で目を拭ってから、力が抜けたような笑みを見せた。

 次の瞬間、その体が視界全体にまで広がった。

 すぐ隣で、ルイシーナが小さく悲鳴を上げる。彼女も太い腕に巻き込まれて、ウィルと一緒に抱きしめられた。


「これで、人間種(フーニ)が絶えることは無くなった! 素晴らしい」


 それまで恐れ多いといったような表情をしていたルイシーナが、嫌そうな顔になった。自分の方へと目を動かし、睨みつけてくる。

 それに対して、思いっきり同じ視線をぶつけてやった。



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