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夢から覚めたら  作者: 麦倉樟美
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第5章 再会(1)

高月 礼亜 (こうづき れあ)

上総 脩一 (かずさ しゅういち)


 見慣れた……でも案外そうじゃない、淡いペパーミントグリーンの天井。

 同じ色の壁。

 左右に広がる窓、教壇、黒板、ズラリと並んだ木目プリントの机―――誰もいない教室───の、一番後ろ。

 上体を起こすように抱きかかえられていた。

「……せん……」

「バカ!」

 覗き込まれるような間近な距離でいきなり怒鳴りつけられて、礼亜は自分の体がまるでプールから上がったときのような身重さと気怠さに浸されているのも気づかず、呆然とした。

「なんでタイムスリップなんか……っ! 下手すれば二度と時空の狭間から出てこれなくなるのはきみだって分かってるだろっ!」

「!───」

 なまじ整っているだけに上総先生の真剣な表情は怖かった。

 滅多に見ない───いや、見たことがなかったからこそ、余計に。

 とはいえ恐怖───もしくは畏怖───に打ち勝てるものは理不尽さゆえの怒りと相場が決まっていて……。

「……わたしのこと、知ってるのね!?」

「レア……」

「あなたは一体誰っ? 誰よ! わたしは? わたしは誰!?―――こんなこと言うなんて! なんなのよいったい! さっぱり分からないっ! 先生は辞めちゃうっていうし―――ひどいわっ、無責任よ! バカ!―――」

 先ほどまでいた(と思われる)、舞台セットのような訳の分からない空間。

 全部知っているっぽいのに説明してくれない、思わせぶりなムカつく二人(特にディー!)。

 そして今先生に怒られたこと。

 突如吹き出した整理できない激情に抗おうと───むしろ流されたのか───礼亜は大声で叫んだ。

 そんなことは生まれて初めてかもしれない。

 その時、

「!」

 両の頬を、先生の温かい両手で包まれた。

「―――落ち着くんだ、アストレア。……もっとよく“考えて”」

「………」

 アストレア。

 この懐かしい響き―――声!

 手が離れていき、教室の床の上、二人は間近で見つめ合った。

「アストレア……って、わたしのこと……?」

「そう」

 おそるおそる尋ねると、先生はあっさりと頷いた。

「レア───アストレアがきみ(・・)の本当の名前」

「───先生、わたしのこと、知ってたんだ……」

 唖然と見上げる礼亜に、先生は一瞬驚き、それから軽く肩を竦めた。

「……まーね。よく知っている」

「ひどいっ!」

 それまでの至近距離を惜しげもなく離して───多少居心地悪い、と思っていたけれど───礼亜は床の上、先生から離れて座り直した。

「どうしてすぐに教えてくれなかったの? 知らんぷりして」

 突飛な言いぐさ───かもしれなかったが、礼亜は真剣だった。

 どんな理由があったとしても、どんなにその時機(・・・・)でなかったとしても、『知らんぷり』は傷つく。

「と、言われても……」

 先生も真面目な様子だったが、礼亜よりは軽く。

「きみだって僕のこと忘れてるんだし───お互いさまだろ」

「そんな……!」

 黒々とした誠実そうな瞳が一瞬だけ悪戯気を帯びて、どこかで見た気がしながらついカッとなった。

「ひどいっ、ひどすぎるっ! 先生のバカ!」

 既視感と違和感。

 現実が現実味を帯びた現実ではないというこの悪夢から逃れる術があったとしたら……。

 ───しかし自分は、自分のこの認識する世界以外の世界があるなんて気づいてさえいなかった。

 ただ、しくしくと棘が刺さったように小さな鈍い痛みをずっと感じていて……。

 それがどんなに苦しいものであったか、彼女のボキャブラリーではとても説明できない。

「―――あ……」

 不意に、よりにもよって先生に───バカと言ってしまったことに気づく。

「すみません。そんなつもりじゃ───」

 しかし先生は気にする様子も見せず、

「その方がきみらしいよ」

 と笑った。

「わたしらしい?」

「ディーとはいつもそんな調子だったろ。きみはまるで変わってないよ」

「……ディー、とって……」

 何か気になるようなことを言われた気もしたけれど、礼亜は先生の口から『ディー』の名前が出たことに驚いた。

 ディーも先生のことは言っていたから、二人が知り合いなのは明らかだったが。

 青い髪、紺色の瞳のコスプレイヤーのような───自分と同じ年くらいの少年。

 ───今日の午後から始まったのだ。

 一人きりの緊張する追試が終わって、一息ついた途端、由美子から上総先生が聖セシリアを辞めたことを知らされ、自分でもびっくりするくらい動揺しながら、先生に会いたいと強く願ったら───一目、初めての日の先生に会えたような気がした。

 実際、出会ったのは、あの少年とあの美しい人で───いや、あの少年はその前に一瞬見たかもしれないけれど───。

 ブロンド美人はすぐにいなくなり、少し歩いた(?)あと、ディーに突き飛ばされて……。

 …覚えてろ───…

 そこでハッと我に返った。

「―――わたしらしいって何?」

「レア?」

「わたし、どんなコだったの?」

 自分が礼亜でなく、アストレアというならば、知らぬ間に溜まっている利息のように、今の自分より性格が良ければいい、と期待したのだが……。

「どんなコ?」

 クスッと、はぐらかした笑いだけが先生の答えだった。

「―――」

 さっきも一瞬感じた、いたずらっ子めいたその笑みは、どこかあのディーという少年の面影にダブるような気もしたけれど───雰囲気も年も全然違う分───少年よりもさらに人の悪さに拍車がかかっているようにも思えた。

「―――きみも気が強いところ、あるしね。特にディー相手だと」

 フフフと楽しげに笑う先生に礼亜は思わず見惚れた。

「だからケンカはしょっちゅうだったな」

「先生と!?」

「……僕と?」

 意味あり気な眼差し。

「───」

 息が、止まる。

「―――いい加減、限界だな」

「えっ……」

 礼亜をドキリとさせた甘さは素早く消え、先生はその表情をわずかに引き締めて改めて礼亜を見つめた。

「もうずいぶん思い出しかけている。だからもう一息───僕の力を加えて、完全に思い出してみないか?」

「そっ……んなこと……!」

「いや?」

「───」

「いつまでもこの世界にいたい?」

 礼亜は思い切り首を横に振った。───一瞬のためらいもなく。

「……そう」

 先生は、この時初めて何かを納得したように―――あるいは満足いく答えを見い出したかのように頷いた。───決してあからさまではなかったが。

 それを見て礼亜は、いつも穏やかな先生が、何かを今までずっと抑えて───というか、堪えていたことに今初めて気がついた―――ような気になった。

 何か、は今はまだ───……今でもまだピンとこなかったけれど。

「できるの……?」

 『何』をできるのか、そこは分からず、省略した。

 それでも期待や興奮のようなものがこみ上げてきて、思わず声が掠れた。

「ああ」

 即答のあと、先生は何かつけ加えかけたが結局は言葉にはしなかった。

「?」

 その代わり、どこかじれったい、とでも言いたげに首を振ると、

「いいかい?」

 更に畳みかけるように礼亜に確認した。

「こっ、ここで……?」

「すぐ済む。誰も来ないから大丈夫」

「えっ? 今は……」

 そこで礼亜は初めて辺りをキョロキョロと見回した。

 一目で自分の教室だと分かったからそれ以上深くは考えなかったけれど、もしかして、こんなところで先生と二人きりでいたら───誰かが来たら───マズイのではないか……。

 床に直接、先生は片膝を立て、礼亜は両膝を揃えて正座するように、お互い顔を見合わせて向かい合っている。

「部活も終わってる。学校にはほとんど……校舎の中には誰もいないよ」

「え……部活……終わった……」

 瞬間、「疲れたよー!」と元気にぼやく友だちの笑顔が思い浮かんだ。

 彼女から聞いたのだ、自分が学校を休んでいる間、上総先生が辞めたと。

 だから会いたくて……。何としても会いたくて……。

 ―――会ったような気がした。

 ……あの一瞬の光景は……。

「驚いたよ。ようやくきみを見つけたと思って感激していたら、三カ月後のきみまで現れたんだから」

「!」

「……ああ、でも戻ってきているよ、『今』に。僕と違って、今のきみはこの世界の人間だから」

 どこかで聞いたフレーズ。

「―――まだ。だから……いきなりいなくなってしまうわけにはいかない。“彼女”の記憶を調整してからでないと」

「意味が……分からない」

「レア」

「でも『思い出せば』分かるの?」

 失ったことさえ気づいていなかった記憶を───自分を。

 礼亜はじっと先生を見つめた。

「ああ」

 先生は力強く頷き、それから優しく付け加えた。

「怖がらないで……」

 …怖くない───…

 ふと思って、礼亜は小さく笑った。

 …―――怖いのは、あなたのことだけ…

 あなたを怒らせること、失望させること。

 ……が、他の誰かに心を寄せること……。

「───!」

思わずハッとした。

「レア?」

 戻ってきている―――これが記憶。

「先生……」

 なのにまだ実感が伴わないのは断片的でとりとめがないからだ。

 印象的なこと、大事なことだけを思い出すにしても、こんな切れ切れじゃ本物の記憶とはいえない。

 本物の自分じゃない。

「……思い出したい……」

 目を閉じて、切に呟く。

「レア……」

 微かな声と共に人の動く気配。目を開けると間近に先生がいて、その、どこか常人離れした黒い瞳に吸い込まれ……───いや、言葉も思考も消え去り、ただ見つめた。


 いつの間にか先生は淡い光に包まれていた。

 輪郭を微かにぼやかす、その光の色は何ともいえぬ───薄く、淡いのに決して他に紛れない、美しさよりは英知をイメージさせる雄弁なブルー。

 それは彼のエネルギー(リレンティ)固有の目に見える色(レーラズ)であり、無造作にかきあげる緩やかなウェーブのかかった───今とあまり変わらぬ髪型の───色でもあった。

 深い紺碧と漆黒のイメージ。───“デュアルス”。

 …私の……───な、人───…

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