第2章 始まり
高月 礼亜 (こうづき れあ)
上総 脩一 (かずさ しゅういち)
たとえば、ここは自分の場所ではないという強烈な感覚。
じゃあどこが自分の場所?と反問すると答えられないし、じゃあここってどこ?って思うと余計に分からなくなる。
じれったい、よく分からない。
ちょっぴり絶望感も混ざり、ベッドの中でビクッと硬直してハッと目が覚めるような……。
でも内容なんてまるで覚えていない。もしかしたら具体的な何かなどないのかもしれない。
───そんな『悪夢』をよく見る。
原因は不明。
でもあの事故以来のこと。
正確には、目覚めて以来のこと───。
痛みや事故時の恐怖というよりは、もっと抽象的な───自分の足元の地面がサラサラと零れ崩れていくような怖さ───に近く、他人に説明できるようなものではなかった。
親にすら。
───やがて、いつしか、どうしようもないうちに『それ』はしっかりと自分の中に根づいてしまって、いっそ朝起きるのが―――夢から覚めることができのが、ホッとするくらいだった。
なのに次の瞬間、感じてしまう。
見慣れた自分の部屋、聞き慣れた目覚まし時計のアラームの音色。
二階にある自分の部屋から降りてきて、朝の挨拶を交わすお母さん───たまにいる、お父さん。
日常。
それら全部が自分にとって安心感を与えてくれるものでない―――ということを。
これはそう……『違和感』。
でも一体、どこから来るもの?
…これ、事故の後遺症なのかな? 何か精神的な───…
───そう冷静に量れるくらいなら違うのだろう、と思っていても……。
そうして、そんな朝を何回も重ねると、まるで『悪夢を見る』こと自体が当たり前の習慣になってしまい……。
けれど、いつまでたっても慣れない『日常』だった。
「Both Roy and his sister Lisa―――」
若々しい―――しかし少年のものではあり得ない、いかにも青年めいた声。
発音は正確で、誇張もわざとらしさもなく、速度は初心者が聞き取れるくらい、ゆっくりと。
礼亜は教科書に視線を落とす振りをして軽く目を閉じた。
上総先生が着任して一カ月。授業回数にして八回。
受ける生徒側もそろそろ先生の考え方や行動の特徴というものが分かってくる時期だった。
それこそ生徒の才能だ。
いち早く教師の癖をつかむこと。学校生活を円滑に送るためのコツの一つだ。
端正で目立つルックスのわりに、上総先生のふるまいはいつも年不相応なくらい落ち着いていて、軽薄な部分が少しもない(あるいは見せない)人だった。
本当は少しくらい軽い方が女子高生たちにはより受けるし、実際、真面目すぎるところがダサい───なんて言い始める子も出てきたが、今現在、それはまだ少数派だった。
礼亜はもちろん多数派に与している。
上総先生が来てから行われた最初の小テストは、結果が、というより反応がくっきり二つに分かれたらしい。
褒められたくて、たとえ他の科目はそっちのけにしても英語を重点的に勉強し、点数を上げた子、反対に先生自身に気を取られすぎて、浮ついてしまってそれが正直に点数に出てしまった子……。
礼亜はあいにく前回までと変わりなく、次回こそはいい点を取って、可能ならば先生に一言褒められたいと思っていた。
最初の授業のときからずっと、先生は礼亜と正面スロープで会ったことは口にしなかった。
礼亜のことを覚えていない───と考えるのが妥当だが、たとえ覚えていたとしても、授業のこと以外、生徒と個人的な会話はほとんどしない先生だったから不思議ではなかった。───とはいえ、もちろん多少はガッカリしたが……。
「高月」
「はっ、はい!」
半分思考が飛んでいて、それでも立ち上がったのは条件反射のなせる技。
「Why are they happy?」
「びっ……ビコーズ、リサ、イズ、トゥ、メリー、トム」
夢想に入る前に、一応答えをチェックしておいて助かった───と思った礼亜だった。
「はい、正解」
似合いすぎててかえってヘン───と礼亜が密かに(もちろん友だちには内緒に)───思っているシルバーフレームの眼差しが向けられ、あくまで実務的に───でも穏やかで優しい口調で言われて───礼亜は、それが自分にだけ向けられるものではないと分かっていても、口元が緩むのが避けられなかった。
休み時間、きっと由美子や智恵に突っ込まれるだろう。
礼亜はできるだけ表情を引き締めながら腰を下ろした。
生徒として当たり前のことといえばそれまでなのだが、先生に指名されて、『正解を言えた』ことは、彼女の心にほのかな充実感と幸福感を呼び起こした。
礼亜は先生もクラスメイトも誰も見ていない───みんな授業に集中している───のを確かめてから、思いきり頬を緩めた。
大きな窓から見る外は秋晴れの、珍しいくらい雲一つない青空だった。
まるでよりいっそう心が軽くなるような……。
目を転じると、見慣れた教室には先生がいて――……。
毎日がこんな風だといいな…、と礼亜はふと思った。
秋から冬へと変わっていく───十月末のある夜。
礼亜はいつもの通学路を、学校に向かって歩いていた。
外はもう完全に暗くなっていて、制服の上に薄手のコートを羽織ってもまだ風は冷たく感じられた。
忘れた宿題を取りに行くという気の重い用事が小走りの足を多少重くもさせていたが―――いつもと違うことをしているという、多少のワクワク感も確かにあった。
ちょうど母親が『お茶』の会合とかで家にいなかったのも幸いしている。
ずっと口数が少なくて、ずっと厳しくない父親しかいなかったから、正直に説明すると、あっさり、こんな時間に家を出ることを許してくれた。どころか車を出そうかとまで言ってくれたのだが、そんな大袈裟なことをして母親に気づかれたらと思うと、「お願い」とは言えなかった。
交通事故による一時的な植物状態から奇跡的に意識を取り戻した―――という、希有な体験は、もちろん礼亜にも深い傷跡を残したが、何よりショックが大きかったのは母親だった(父親だってそうだろうが、露骨に表には出していなかった)。
事故そのものが、自動車の運転手と歩行者の礼亜双方の不注意という、避けられそうで、いつ遭遇してもおかしくはない類いのものだったせいで、母親の心配と不安は未だに尽きない。
日常、交通量の多い道を礼亜が通ることは禁止したし、通学路が危険なルートだったら、転校すら言い出しかねない様子だった。
礼亜自身はもうそれほど気にしてはいなかったが、確かに自動車にはねられた瞬間を思い出すことは恐ろしくてできなかったし、何よりも自分が起こした事故でどれだけ母親を恐怖に陥らせたかと思うと、「ごめんなさい」という気持ちと共に、もう絶対そんな思いをさせたくないという感情が強く働いた。
とはいえ、行き慣れた───母親も認めた───車の入らない道が大半の通学ルートを辿り、学校まで宿題を取りに行くのは別問題だ。
古典が一時限目でさえなかったら友だちに写させてもらうことも可能だったが……───ついていない。
まだ明るい商店街のアーケードを抜け、細い道を曲がり、学校の前に出る。
正門はもちろん閉まっているから、グラウンドを回って柵と土手の隙間から敷地に入り込んだ。
辺りはさすがに人影はなかったが、グラウンドの非常灯やすぐ近くの街灯の明かりもまだ煌々としていて、思ったほど怖い雰囲気ではなかったのは幸いだった。実際、街灯の明かりの下で見た腕時計はまだ宵の口を示していた。
グラウンドを抜けてからは朝と同じコースで、朝とはまるで違う雰囲気の中、飛ぶように校舎の中を駆けていく。
教務室と用務員室のある化学棟はまだ明かりがあり、そこと中庭を挟んで向かい合う、生徒棟の二階まで一気に駆け上がったらさすがに息が切れた。
…そ、そんなに急ぐことはないんだから───…
と我ながら言い聞かせて足を止め、ヒョイと階段から廊下に顔を出すと、一番奥が目当ての自分の教室、二ーEだ。
「あ……!」
ドキッ―――とした。
教室から鈍い微かな明かりが漏れていた。
誰かいる―――と咄嗟に思って、それからゆるゆると、ああ……誰かが教壇用のものだけを消すのを忘れたんだな、と合点した。
こんなに微かな明かりでは廊下を隔て、向かい合う化学棟からは気づかないだろう。だから今まで消されなかったんだな…、と思いながら礼亜は奥に進んでいった。
「―――いいよ、行方は分かったんだし。おまえまで来ることはない」
「!!」
明かりと共に漏れ聞こえてきた声の主は一発で分かった。
…上総先生!?───が喋ってる? 誰と?───…
ガタン!
ドアを開けた。
「先生っ!?」
はたして上総はいた。……彼しかいなかった。
そして、その格好は……。
「―――うそっ」
礼亜の口から、意図しない言葉が漏れた。
先生の理知的な額を覆う、不思議な色に光るヘッドバンド―――というよりサークレット。
光の反射のせいか、柔らかそうな髪の毛の色も今は微かに青みがかって見えた。
その身を包む、床に着きそうな重厚な外套―――クロークも独特の光沢を放っていて、カーテンが閉められていない窓から近くの町の光が入ってくるとはいえ───廊下から見えた明かりは―――もしかしなくてもこのクロークとサークレットからだった。
それでも今はずいぶんうすぼんやりとした光度に下がっていて、階段近くの廊下で感じたものよりはかなり暗くなっていた。
『学芸会の狩人役』―――先生の今の姿を、稚拙にも一言で形容するならば。
にしては衣装が何か独特な現実味───というか、非現実的な質感───とでもいうか、訳の分からないものをまとっていたけれど……。
それに元々が美形だから、何を着ても一応似合うは似合う。
だからこそ、余計何かの『役』を担っている俳優のように見えてしまうのだが……。
「な……にやってん……ですか……?」
驚きのあまり声は掠れた―――はずだった───のに、案外声はしっかり出て、礼亜はかえって戸惑った。
上総先生に不審な行動(この場合はその姿か!?)を問いただすなんて、非日常もいいところだった。
「レア……」
彼女を振り返った時の先生の声はさすがに驚いていたが、根本的には授業の時と同じく、穏やかで理性的なものだった。
黒々とした瞳は揺らぎもせず、思慮深そうに礼亜を見ている。
「きみこそどうしたんだ? こんな時間」
「えっ? あ……あ、その、宿題を、……じゃないっ。なんですか? その恰好。なにやってんですか? いったい!」
問い返されて困った礼亜は───夜の学校に忍び込むことは当然御法度だ───ごまかすよう声を上げた。
それに心のどこかがそれくらいの反応が正しいと言っている。
礼亜はいっそ憎らしいくらいに───こんな表現自体、新鮮だ───落ち着き払っている(ように見える)先生を睨みつけた。
「答えてください!」
「戻ってきたところをいきなり呼び出されたんだ」
落ち着いた、サラリとした返答。
「は? もっ、戻ってきたって……一体どこから……」
「宿題ってなに? 取ってきたら?」
真面目な口調でなかったら、まずごまかされたと思ったろう。先生は混乱する礼亜に道を空けるような仕草をしてみせた。
「!……」
言いたいことは山ほどある(ような気がする)のに、言葉にならない礼亜はギクシャクとした足取りで自分の席まで行った。それは先生の目を意識したからだが───机の中に教科書があって一安心―――するのも一瞬、そんな場合じゃなかったと慌てて背後の先生を振り返った。
彼はいつの間にか足音も立てずに───とはいえ、混乱の最中にいた礼亜に聞き取れたかどうかは疑問だが───戸口近くに移動していた。
案の定、というか、想像通り、というかこちらを見ていた先生の視線とまともに合って、
「―――!」
思わず絶句した。
言葉、にならない。
だって先生は……。
学校中の憧れの先生と二人っきり、というこのシチュエーションは、本当はものすごい興奮状態に陥ってもいいくらいの異常事態なのに、現実はさらにその上をいっていて、先生の、その格好を言葉にして笑っていいのか悪いのか、それとも何か礼亜が考えつかないような理由でもあるのか―――この場合、どんな反応を示すのが正解なのか───礼亜は思考のスイッチをいったん切った。
―――そんな彼女の状態などお構いなしに、
「家まで送ろうか?」
と告げた先生の声音は全く平静で───。
…こっ、この人って一体───…
「いっ……え、そんな―――」
礼亜はますます混乱した。
「もう遅いだろ? 暗いし」
何気ない動作でこちらに歩いてくる先生に彼女は思わず後ずさった。
踝までの外套が重そうに揺れ、自分よりずっと長身───を意識させる。
まるで中世ヨーロッパが舞台の映画の中にトリップしてしまったような気分だが、ここは現代日本の教室で、いくらカッコよくても異常だし、異常と感じる自分はおかしくないはず……───だった。
「なんで逃げるの……」
不意に先生が眉をひそめた。
「えっ……」
「―――あ、そうか。一応マズイか。教師と生徒だし」
…いえその前に、今の先生の格好で、どうして外を歩けるのか───…
「え?っと、その……。あの、ホント家近いし、道も明るいから……。オヤも許してくれたくらいだから……」
礼亜は自分が何を言っているのか分からなくなった。
「……そう」
先生はシドロモドロの彼女をじっと見た。
ドキン!と礼亜の胸が、今までとは違った音色で跳ねた。
瞳の奥まで覗き込まれているような感覚───。
恥ずかしくて、彼女は慌てて視線をあさっての方向へと飛ばした。でもそうと気づかれるのは嫌で、
「一人で、大丈夫ですから……」
何とか言葉をつなぎ、ぎこちなく手足を動かした。口の中が乾いているのが分かる。
「そう……。じゃあ気をつけて」
あっさり言われてしまえば、
「………」
あとはもう、戸口に向かうしかない。
思わず拍子抜けしたように見返してしまった礼亜に合わせるように、先生は自分が立つ場所をずらした。それに促されるよう礼亜も戸口へと歩き出す。
「―――」
扉の前、かなり近い距離で彼女は先生を見上げた。
「………」
何を言おうと言葉にならない、考えがまとまらない。
なぜそんな格好をしているのか、どうしてここにいるのか、その不思議に光る額のサークレット、重そうなクロークの手触りは……。
―――やっぱりまだ思考は滅茶苦茶だった。
半開きのままだった扉をさらに押して教室を出かける。
「………」
でも…、と振り返りかけると、
「!」
目にした光景は、今夜一番の『アンビリーバボー!』だった。
長いコートだけでなく、先生の全身までが不思議な色合いを帯びて、どんどん透明になっていく―――。
咄嗟に頭に浮かんだのは『影が薄くなる』……。
不吉な連想に礼亜は、
「待って―――!」
咄嗟に扉から手を離して、先生の方へと手を伸ばそうとした―――なくなっていく実体を押し止めたい、とでもいうように。
だがもうこの瞬間、はっきりとした手応えはなくて、
「!」
恐怖とも絶望ともつかぬ感情が礼亜の全身を凍らせた。
それをはねのけて、彼女は思いきり消えかかるその姿に抱きついた。
…行かないで―――っ!!…
強烈な目眩と共に周囲の背景───現実が消え、自分まで実体がなくなってしまったような頼りない感覚に恐怖を覚えた刹那、何かしっかりと抱き返されたような気もしたが……───怖くて目を開けられなかった。
パニック、空白、静寂。頬を撫でる冷気と覚えのある……。
「───」
……ゆっくりと、目を開ける。
「!?」
静かな夜の住宅街。
舗装された細い道の上。
目の前は家。
道を挟んで小さな公園。
どれも見覚えのある……。
「!!」
何が起きたのか、分からない。
―――自分の家の、前にいた。
『―――よかった。きみのリレンティは健全だな』
不意に響く声―――いや、意思。
それが先生のもので、頭の中だけで聞こえていたことに……礼亜はぼんやり気づいていた。