第1章 目覚め
高月 礼亜 (こうづき れあ)
上総 脩一 (かずさ しゅういち)
「れっ……あ―――ッ!」
病院の一室。
ベッドの上で眠る少女に、母親と覚しき女性が涙で顔を濡らしながらとりすがっている。
血の気の引いた白いおもて、瞼は青白く閉ざされたまま―――たった今、少女は医者から植物状態と宣告されたのだ。
「礼亜……ッ!」
絞り出すような、悲痛な叫びが母親の口から漏れた。
その時、
「……っ……」
少女の瞼が───唇が、微かに動いた。
「礼亜っ―――!!」
母親は絶叫した。
二カ月前に交通事故に遭って入院した、十七歳の高月礼亜が学校に戻ったのは九月の半ばだった。
地方都市にある女子校、聖セシリア高等学院に入って一年と少し、生まれて初めての長期欠席は───幸い夏休みも含まれたが───授業の進み具合から席順、学校行事まで、多くのものが変わって(終わって)しまっていたという結果を伴った。
ただ礼亜にとって、それらを深刻に捉える以前に、『こーゆーのがブランクってゆーの!?』という率直な驚きの方が先にきて、ショックの中であたふたしているうちに、学校生活は自然と元に戻っていった。
クラスメイトも先生も、周囲はもっと早く、教室の空席が埋まったことに馴染んでいる。
そんなある朝。
退院後、初めて日直が回ってきた礼亜はいつもより少しだけ早目に登校した。
たった十五分―――では、ここのところ急に冷たくなった風は大して変わらなかったが───校門から生徒玄関に到る百メートルほどのルートは、いつもの時間よりずっと人が少なかった。
目の前のコンクリートのスロープを登り切ると、生徒玄関―――生徒校舎と化学棟をつなぐ二階の渡り廊下───に到着する。
勢いをつけて、足早にスロープを駆け上がろうとした―――その時だった。
「きみ!」
不意に声をかけられて、自分に向けられたものだと感じた礼亜はスロープの途中で振り返った。
化学棟の向こうにあるグラウンドの方角から若い男の人が歩いてきた。
…デュア───…
「ここの生徒?」
スロープの近くまで来て、礼亜を見上げての問いかけは、第一声と同じ、若々しいものだった。
「は……」
「教務室へはどう行けばいいのかな?」
ゆるくウェーブのかかった、男性らしい短めの髪。
少し長めの前髪は額のところで無造作に分けていて、視界の邪魔にはなってない。
シルバーフレームのメガネはクールで印象的だが、優しげな顔立ちにぴったり似合っているとは言い難かった。
ハンサムな───というよりは、聡明そうな、二十を幾つか過ぎていそうな男性。
グレイのスーツは色的に少し寒そうだった。
「えっと……分かんない?」
わずかに混ざった困惑に礼亜はハッと我に返った。
「あっと、えっと、そのぅ……。───教務室はそこの化学棟の二階です。―――えっとぉ……」
「そう。ありがとう」
その人はあっさり頷いて、元来た方向へと踵を返しかけた。
「あ! あのぅ……」
「なに?」
若すぎる───といって決して高校生には見えない―――つまり学校にはとても場違いな青年───は気軽い仕草で礼亜を振り返った。
「!」
途端、礼亜はカーッと全身が熱くなるのを感じた。
…なっ、なに!?───…
内心困惑―――いや、驚愕した。
「あっ、あの……っ」
もう少し年がいってれば先生だ。
さらにもっと上なら……。
「ふ、父兄の方……ですか?」
違うと分かっていて聞いた。
この人が誰だか知りたくて……。───いや、違う。―――そう、この場であっさり別れてしまうのはもったいなくて……。
我ながらよく分からなかった。一言で言えば混乱していた。
「あ……ごめん」
青年は素直に言った。
「僕は今日からこの学校の先生。英語担当の上総脩一。よろしくね」
理知的なイメージの割にはくだけた話し方で、どこか───なにかアンバランスな印象だった。
「かっ、かずさ……」
強い……なんだろう? 印象? 違和感?
…分からない───…
「なに?」
気づけば上総が穏やかに、わずかに不審そうに、礼亜を見つめていて、
「いいえっ! そ……ですか。こ……ちらこそ、あのっ……」
混乱した頭のまま、口の中で言葉をグチャグチャにすると、彼女は勢いよく頭を下げて残りのスロープを駆け上がった。
まるですごい急斜面を駆け上がった時のように心臓がバクバクしている。足が今にももつれそうで……。
「―――」
そんな状態の彼女はもちろん、青年が一瞬、自分の後ろ姿に強い視線を送ったことには気づかなかった。
産休に入った英話のミズ有川の代わりに来た新任教師・上総脩一は、聖セシリア高等学院校の女子生徒たちに大きなショックを与えた。
それは単純に、上総が清潔感にあふれた、整った顔立ちをした若い男性だったからだ。
きょうび生徒たち―――女の子たち―――は、まず教師に若さもルックスも期待していない。
それなのに上総はそういった固定観念やきめつけを根底から覆した上に───性格もよかった。
生来の美貌に恵まれた者の中にはびっくりするくらい性格がねじ曲がった者もいる。あるいはナルシシスティックな傾向を持ち他人を気遣えなくなるか。
上総にはそんな気配は全くない上に、若くて、なおかつ半年という臨時講師という立場のせいか、教師にありがちな横柄な態度も見せなかった。
あまりの完璧ぶりに生徒たちは逆に「裏があるのでは?」と疑ったくらいだ。
だが、日が経つにつれ、彼のルックスと性格の良さが張りぼてでないことが分かると、熱狂は一気に学校中を駆け巡った。
礼亜ももちろんその影響を受けた一人だ。
さすがに一部の女子のように休み時間ごとに上総先生につきまとったり、手紙やプレゼント攻勢なんてことは───この辺は噂だが───しなかったが、毎日のように友だちと先生の話に花を咲かせていたのは他のクラスの、あるいは学校中の女の子たちと一緒だった。
ラッキーなことに礼亜たちのクラスも先生に受け持たれていた。
ここが学校で、相手が教師である以上、そうであるかないかは天と地ほども違う。受け持ちでない教師との接点はまずなくて、あとは部活くらいだが、臨時講師の先生が部活の顧問になることはなかった。
礼亜はあの朝、きっと誰よりも早く先生に会ったことは───なぜだか誰にも内緒にしていた。
仲間内の特ダネになるだろう、とは分かっていたけれど。
貴重な、大切な出来事だったからそっと胸にしまっておきたい。
───という気持ちももちろんあったけれど、礼亜は、あのとき感じた不思議な胸騒ぎのようなもの……言葉にはできない心境を、友だちに打ち明け、適切に説明する自信がなかった。
そして、あの体の芯からカーッと熱くなった感覚───は、恥ずかしくて、とても口に出せそうにない。
あの時の強烈で不可解な感覚は、決して後付けの妄想などではなく……。
では、一体何だったのか。あの瞬間を思い出し、見極めようとすればするほど、記憶はぼやけていく。そしてそれをいつまでも追求しようとするほど、礼亜は根気強くはなく……。
日々はそれなりに慌ただしく流れていった。