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9  おいていかれました



「……ィータ!」


 声が、聞こえる。

 誰かが呼んでいる気がする。


「ツィータ!」


 いやだ。起きたくない。まだ、寝ていたい。だってここはすごく心地がよくて……


「おい、ツィータ! いるんだろ!? 井戸が大変なんだ!」


 井戸? 井戸って、なんだっけ……井戸……


「――井戸!?」


 がばりと勢いよくベッドの上に身体を起こした。何事かとそのままの勢いで玄関扉を開ける。ひしゃげたままの扉が、ギシリと嫌な音を立てた。


「サハク!? 井戸がどうしたの!?」


 扉を叩きながらわたしの名前を呼んでいたのは幼馴染だった。彼は額に滲んだ汗を拭うこともせず、慌てた様子で言う。


「井戸が……すごいことになってるんだ。とにかく一緒に来てくれ!」

「わ、わかった」


 走り出したサハクのあとを追って家を出る。

 井戸がどうしたというのだろう。まさか……ついに水が枯れてしまった? サハクの様子からして十分に考えられる。

 不安に駆られる心を押し込めるように、必死に井戸へと続く道を走った。


「はぁっ……はぁ……」


 息を切らしながら目的の場所まで辿りつくと、そこにはすごい人だかりができていた。人が多すぎて井戸が見えないほどだ。


「村長、ツィータを連れてきたよ」


 サハクが人だかりに向かって声をかけると、つるつる頭の村長さんがふたりの前にやってきた。わたしを見て、神妙な面持ちで口を開く。


「ツィータ、井戸を見ておくれ」


 言われるがままに、井戸の方へと歩きだす。わたしを目に留めた人たちが、通り道をつくるように横に避けてくれた。

 どうしてか、嫌な予感がする。どくどくと、心臓の音がうるさい。


 恐る恐る井戸の中を覗き込んで、わたしは思わず声をもらした。


「え……水が、」


 井戸の中は、少し見ただけで分かるほど、たくさんの水で満たされていた。今までよりずっと透明できれいな水だ。どうして急にこんな……


「ツィータ、あれを見てみなさい」


 村長が指さしたのは、井戸に取り付けられている雨避けのための屋根。木材でできた屋根の内側に、見慣れないものがあった。


「……魔法陣?」


 そこにはぼんやりと淡い光を放つ、魔法陣のような紋様が描かれていた。


「わしは魔法には詳しくないが、あの魔法陣が水と関係しているんじゃないかの? おまえさんが竜族を助けたというのは聞いていたが、竜族は魔法に長けているんじゃろ? その御仁はどうした」

「りゅう、ぞく?」


 どくり、と心臓が唸る。


「竜族って……なに?」


 村長が言っている言葉の意味が分からない。わたしが竜族を助けた? 何かの間違いじゃないだろうか。そもそもこんな辺境の村に、竜なんていう高貴な存在が訪れるはず――


「ツィータ、何言ってんだ。ここ数日ずっと一緒にいただろ。ほら、名前はたしか……イリューザ、だったか?」

「っ……」


 サハクの言葉に、急に頭が割れるように痛みだす。


「イリュー……ザ……」


 頭が、いたい。思い出すなと、誰かの声が聞こえる。それは低くて、優しくて……いつもわたしの名前を愛おしそうに呼ぶ、大好きな人の――


 頭の中に、知らない誰かの姿が浮かぶ。きらきらと光る、白銀の長い髪。左右に一本ずつ生えた、真っ白な角。甘いはちみつのような、琥珀色の瞳。その人は――


「……イリューザ?」


 パチリッ、と頭の中で何かがはじけるような音がした。それと同時にたくさんの記憶が流れ込んでくる。それはここ数日一緒にすごした、彼との記憶。


 あれ……なんでわたし、イリューザのこと忘れてたの?


「急にぼーっとして大丈夫か? ほらあの魔法陣、あいつがやったんじゃないのか?」

「え……?」


 もう一度、屋根の内側を見上げる。確かおととい森から転移するときに、足元に浮かんだものと似ている。魔法陣については全く分からないが、それでもわたしには確信があった。


「イリューザのだ」


 あの魔法陣からは、なんて表現したらいいのか分からないけれど、彼の気配のようなものを感じるのだ。あれは間違いなく、イリューザのものだろう。そもそもこんな村で魔法が使える者など、彼しか考えられない。


 どうして? 期限まで、まだあと3日あったは、ず――


 そこまで考えて、やっと違和感に気づいた。


「……イリューザは?」

「ん?」

「ねえサハク、イリューザはどこ?」


 目を覚ましてから、ずっと彼の姿を見ていない。しかもなぜかここに来るまで、彼のことをきれいに忘れていた。いまやっと彼がいないことに気づいたのだ。


「どこって……俺が知るわけないだろ。おまえのとこに居ないなら、帰ったんじゃないのか?」

「帰った……?」


 そんなはず――


 否定しようとした思考を、大きな声が止めた。


「おいみんな大変だ! 村のっ入り口に……!」


 息を切らせたひげのおっちゃんが、人だかりに向かって叫んでいた。なんだなんだと、みんながそちらに視線を向ける。おっちゃんは大きく息を吸い込んで、息を整えてから言った。


「魔物が……!」

「魔物だって!?」

「魔物!? なぜこんな村に!?」


 おっちゃんの言葉に、一斉にみんなが恐怖を口にする。だが、うるさくなった人だかりに向かって、おっちゃんは慌てて言葉を投げた。


「違うんだ! 魔物が……死んでるんだ!」

「……え?」

「とにかく来てくれ!」


 何が起きているのか状況を把握するために、みんなは村の入り口へと移動し始めた。

 わたしはもう一度井戸の魔法陣を見つめる。なにか……ひどく胸騒ぎがする。少しして、みんなの一番後ろに付いて、ゆっくりと歩き出した。




 村の入り口までやってくると、そこにもすでに数人の人だかりができていた。


「こっちだ!」


 おっちゃんの案内で入り口から少し歩いたところまで進む。そうして目にした光景に、おもわずその場にいた全員が息をのんだ。


「なんだ……このとびきりでかい魔物は」

「おとといツィータの家の前にいたやつと似てるな」

「そうだな。だが大きさは……何倍だ?」

「3倍以上はありそうだな」


 首周りにもじゃもじゃの毛が生えた、イノノシに似た魔物がそこに倒れていた。外傷は見受けられないが、間違いなく死んでいる。わたしはこの魔物に心当たりがあった。


「こいつ……たぶん、森の主だ」

「主?」

「うん……イリューザが、竜族の人が言ってたんだ。おととい倒したのは子供だって。あれの親が、きっと森を支配してる主だろうって」


 わたしの言葉にみんなはっとした顔をする。


「ってことは……こいつがここで死んでるってことは、もしかしてもう森に入れるのか?」

「どうだろう……森にいたのがこいつだけとは限らないし――」


 そう言ったわたしの言葉を別の声が遮る。


「おい、いったいなにが起きてるんだ!? 森が大変なことになってたぞ!?」


 今度はなんだと声のした方を向くと、月に一度この村にやってくる行商人がいた。いつもは大きな荷車を引いているのだが、いまは身一つだ。何故かものすごく慌てた様子で駆け寄ってくる。

 そうしてわたしたちの前に倒れていた魔物を見て、腰を抜かした。


「ひいぃぃ、なんだこいつは!? ……ん? あ、こいつと同じ奴だ!!」


 一人で叫びながら、行商人は何かに気づいた様子だ。村人のひとりが、落ち着くように言ってから問いかけた。


「森がどうしたって?」

「あ、ああ……ここに来る途中いつも森の横を通るんだが、このばかでかい魔物と似たやつらが、たくさん森の周辺に倒れてたんだ」

「…………」


 みんな顔を見合わせて、最後にわたしを見た。……いいたいことは、わかる。


「……全部、倒してくれたのかも」


 ぽそりと言うと、一斉に歓声があがった。


「これで森に入れるぞ!」

「井戸の水も復活したし、泉にもいける! なんて日だ……!」

「こいつらの肉も食い放題だぞ!?」

「おいおい、こんなに食いきれないだろ……」

「傷む前に加工しちまわないとな」


 口々に歓喜の声が上がる。全身で喜びを表している彼らを見つめながら、わたしの指先は小さく震えだした。


「あいつ、いい奴だったんだな。助けたお礼にこんなことまでしてくれるなんて。俺にはなんか冷たかったけど、これでチャラにしてやるか」


 隣でサハクが笑いながら言った。

 ……どうして? こんなこと、頼んでない。そもそも期限まであと3日あるのに、なんで井戸を戻してくれたの?

 疑問は次々と浮かんで、やがてひとつのことに集約する。


「イリューザ……わたしをおいて帰ったの?」

「ん?」


 全身が震えだす。立っていられなくて、その場に膝を突いた。


「おい、どうした」


 心配そうに、サハクが顔を覗き込んでくる。その言葉に答える余裕はなかった。


 なんで? どうして? わたしがぐずぐずしてたから? 早く答えを出さなかったから、勝手に決めたの? わたしを連れて行かないなら、井戸は直さないって言ったのに。


 なんでこんなに……井戸に水を満たして、森の魔物も倒して、全部この村にとって良いことをして、あなたはひとりで帰ったの? どうして……わたしをおいていったの?


「っ……」


 こらえきれなかった涙がこぼれる。わたしに泣く資格なんてないのに。

 もっと早く言えばよかった。あなたが好きだって。一緒に連れて行ってって。さよならすら、言ってないのに。


「イリューザっ……」


 名前を呼んでも、答えてくれる人はいない。

 歓喜に満ちあふれる村人たちのはしっこで、わたしはひとり泣き続けた。



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