8 心を決めてみた
森に行った翌日は、摘みとった花を使って糸を染める作業に入った。花びらを煮立てて染料を抽出し、その湯の中に糸を沈めて色を染み込ませていく。
水は貴重なため、なるべく少量の湯で大量の糸を染める。この日ばかりは飲み水を削って糸染め用にあてるのだが、持っていた水筒に泉の水を詰めてきたため、いまは多少余裕がある。
そうして、単純で慣れた作業のはずだったが、進捗状況はいまいちだった。
新たな色に取り掛かろうと立ち上がったとき、扉を叩く音が聞こえる。またか、と思いつつまだひしゃげたままの扉を開けると、そこには野菜のおばちゃんがいた。相変わらず天然のくせ毛が、気持ちのいいくらいにくるくるしている。
「ほらツィータ、昨日の肉のお礼に野菜持ってきたよ!」
「ありがとう、おばちゃん」
両手でかごを受け取ると、おばちゃんは満足そうに笑って帰っていった。
もらった野菜かごを、そのまま床の上に置く。床に置くのはゆるしてほしい。もう机の上がいっぱいなのだ。こんな調子で昨日肉を分けた人たちから、さまざまな差し入れが届いている。
人伝いに肉がたくさんの人に渡ったのか、昨日あの場にいなかった人もやってきていた。
おかげでその都度手を止めることになり、全く作業が進まないのだ。
「きみは本当に人気ものだな」
椅子に座って見ていたイリューザが苦笑をもらす。一晩寝たからか顔色は元に戻っていて、体調は良さそうだ。
「イリューザだって似たようなものでしょ」
魔物を倒したのは彼なので、直接礼を伝えたいと言ってくる者も多かった。しかし彼が対応すると、特に女性陣がなかなか帰ってくれないので、途中からは全てわたしが出るようにしている。
頬を染めながらイリューザと楽しそうに話している同年代の女子を見ていると、なんだかものすごく胸の辺りが痛くなるのだ。それからもやもやした気分になって、結局作業が手につかない。
もしかして、これが嫉妬というやつなのだろうか。そうだとしたら、なんて厄介な感情なんだろう。
嫉妬をするということは、わたしはイリューザが好きなのか? いやでもほら、嫉妬って恋愛感情だけじゃないし……うん、これは言い訳じゃないぞ。
やっと人の波が途切れ、作業に集中できるというのに、わたしの思考はずっと彼のことで埋め尽くされていた。
期限まで、今日をいれてあと4日。
彼に付いていくのも悪くはないかな、と思い始めている。
イリューザはきっと、わたしを大切にしてくれるだろう。
だが、この村に未練があるのもたしかで。みんな気のいい人たちばかりなのだ。産まれた時からずっとここで育ってきたし、両親のお墓もある。
それに対して彼の住んでいる国は、全く知らない土地だ。もちろん行くのはわたしひとりだし、友達も知り合いも誰もいない。イリューザだって、まだ会って数日だ。彼のことは信用しているが、心をすべて許せるかと言われたら悩んでしまう。
しかしだからと言って、村に残るという選択も安易に選べない。わたしが付いていけば水不足は解決できるし、村にとってはそのほうがいいだろう。
それにもしわたしが残ると言ったら、彼とは……イリューザとは、もう二度と会えないのだろうか。それはちょっと……いやかなり、嫌かもしれない。
「ツィータ、吹きこぼれてる」
「あっ」
ついぼーっと考え込んでしまい、鍋から湯が吹き出していた。慌てて火を止めて、ほっと息を吐く。
貴重な水をこぼすなんて……今日はもうだめそうだ。作業どころではない。むしろこの調子では、明日以降もだめな気がする。
こぼれた湯を拭きとっていると、横からまた名前を呼ばれた。
何か用かと振り向くと、彼はわたしの眉間を指先でぐりぐりしだす。
「ちょっなに――」
「しわ、寄ってる」
考え込んでいたからか、眉間に寄せたしわが固定されてしまったらしい。今度は人差し指と親指でむにむにと揉み込まれ、くすぐったさに身をよじった。
「きみが考えていることは、分かりやすいな」
「え?」
「きみにとってこの村の住人は、家族のようなものなんだな」
「う、うん?」
どうしたんだろう、急に。よく分からないけれど、間違いではないから頷いておいた。
「今日は少し早めに夕食にしないか?」
「いいけど、お腹空いたの?」
「……そうだな、もうぺこぺこだ。だから、今日はたくさん作ってほしい」
「わかった」
彼からの要望は珍しい。せっかくだからもらった野菜と昨日のお肉を使って、いつもよりすこし豪華な夕食にしよう。糸染めを途中で切り上げたから飲み水にも多少余裕があるし、久しぶりに珈琲でもいれてみようかな。
そんなふうに少しわくわくした気分で、夕食の準備にとりかかった。
◆◇◆
「おいしかったぁ」
いつもより少しだけ豪華な夕食を楽しみ、椅子の背もたれに体重を預ける。
数か月ぶりに口にした珈琲は、ちょっとだけ苦くて大人の味がした。カップを机に置きながら、イリューザは優しげにわたしを見る。
「きみの料理は本当においしいな」
「そんなこと言って、普段もっといいもの食べてるでしょ」
「きみが作るから意味があるんだ」
わたしが作ったものなら、砂糖と塩を間違えてもおいしいっていいそうだな、なんて思った。あながち間違ってはいないだろう。
温かい視線を感じながら、照れ隠しをするように食器を台所に持っていく。一通り片づけを終えると、彼はすでにベッドの上に座っていた。横にある窓を半分ほど開け、外を見ているようだ。
「なに見てるの?」
「今日は満月だな」
「うん?」
確かに窓の外に浮かぶ月は、きれいなまん丸だ。それがどうかしたのかと首を傾げる。彼はお月さまに似た琥珀色の瞳をわたしに向けて、真剣な表情で言った。
「ツィータ、ひとつ頼みがある」
「頼み?」
「ああ……その、きみの髪を少し分けてもらえないか?」
いきなり何を言い出すのかと思えば、髪が欲しい? なんでだ? よく分からないけれど、イリューザにはたくさんお世話になったし、それくらいならいいだろう。
「いいよ。どれくらい?」
「ひと房で構わない」
裁縫箱からハサミを取り出し、ベッドの前までやってくる。適当に薬指一本分ほどの髪を切り取り、手渡した。彼は懐から布を取り出し、丁寧にわたしの髪を包み込む。それから大切そうに握り、また胸の内側にしまった。
「ありがとう、大切にする」
髪なんて、何に使うんだろ。まさかあやしい儀式に使うんじゃ……そんな考えが頭をよぎるが、彼が悪用するとは思えないし深くは追求しなかった。
「さあ、魔法の時間だ」
イリューザが両手を広げたので、それを合図に、彼と向き合うようにベッドの上にちょこんと座った。浄化魔法をかけてもらう代わりに、夜は彼の隣で眠る。初めて会った日から続いていることだ。
「今日はなんの香り?」
「ぐっすり眠れるやつだ」
ジャスミンとかかな? 気を利かせて毎日違う香りにしてくれるので、なにげに一日の楽しみになっている。
しかし、いつもならこのまますぐに魔法をかけてくれるのだが、今日は違った。彼はおもむろにわたしを抱き寄せ、腕の中に閉じ込めたのだ。いったいどうしたんだろう。今日はなんだか様子がおかしい。
「イリューザ?」
「ツィータ、好きだ」
わたしも、って思わず言ってしまいそうになった。
いつの間にか、この腕の中を心地よいと感じるようになっている。ここは……この腕の中は、わたしだけの場所。それが当たり前のように思えるのだ。
「本当に……大好きだ」
形の整った鼻先をわたしの首筋に近づけて言うものだから、吐息がかかってくすぐったい。甘い匂いが濃くなって、頭がくらくらしてきた。
彼は唇で首筋にそっと触れて、離れていった。なぜかとても名残惜しく感じる。手を伸ばしそうになった衝動を、すんでのところで止めた。
「好きだ……」
何度も同じ言葉を呟いて、彼は儚げに笑う。その顔が今にも泣き出しそうに見えて……こんな顔、させたくないと思った。
もし明日になってもこの気持ちが変わっていなかったら、彼に付いていくと伝えよう。きっとこの胸の中にある感情は、彼が何度も繰り返している言葉と同じものだ。
「だから……」
イリューザは小さい声で呟き、いつものようにパチンッと指を鳴らす。
その音と同時にわたしの意識は、夢も見ないほどの深い闇の中へと落ちていった。
「お別れだ」