2 拾ってみた
自宅の床の上に座り込み、肩で息を繰り返す。額に滲んだ汗を拭いながら、今日は朝から最悪だと嘆いた。
時刻はあれから30分ほどが経っている。
結局どうやって家の中に入ったのかというと、わたしの断末魔のような叫び声を聞いた知り合いが駆けつけてくれた。
なんとかして扉を開け、本当に死なれても困るからと、仕方なく家の中に運びいれる。
竜族は普通の人間に比べて身長も体格も大きいため、ふたりでも抱えることはできず、結局引きずっていくことになったが。さらにベッドの上にも乗せられなかったので、仕方なく床に毛布を引いて寝かせることにした。
おかげでひと段落した頃にはもう汗だくである。本当に今日は、最悪の日だ。
喉の渇きを癒すために、コップに移した水をごくりと飲みほしたところで、玄関扉を叩く音が聞こえた。慌てて立ち上がり扉を開けると、人の良さそうな顔をした、煉瓦色の髪の青年が顔を見せる。
「もってきたぞ、ほれ」
「ありがとうサハク」
彼は近所に住む昔からお世話になっている青年で、一人で暮らしているわたしを何かと助けてくれる。三つ年上なこともあり、たびたび世話を焼いてくれるのだ。死体もどきを運ぶのを手伝ってくれたのも彼だった。
「俺のでも入るか分からんけど、まあないよりはましだろ」
そう言って渡されたのは男性物の服。
地面に倒れていたせいで、あの竜族はとにかく全身砂まみれだったのだ。あのまま家の中を歩き回られても困るので、とりあえず着替えを貸してもらうことにした。深刻な水不足のため、あの極上の絹をふんだんに使った服をすぐに洗うことはできない。
「あとは食事か。竜族が何を食うのか分からんな。うちの村じゃ大したものは用意できんし」
「そうだね、とりあえず目を覚ましたら聞いてみる」
……目を覚ましてくれるかは謎だが。いや、覚ましてもらわないと困るのだ。
サハクに様子を見てもらったところ、暑さにやられたのではないかと言っていた。
確かにこの村は一年中気温が高い。しかし竜族は人間より頑丈だと聞いたことがある。いくら暑いとはいえ、人間が平気な気温で倒れるものなのだろうか。
とりあえずは目を覚ましてから体調がよくなるまでは、うちで面倒をみなくちゃいけなさそうだと溜め息をこぼす。
正面で見ていたサハクが苦笑を浮かべて、わたしの頭に手を乗せた。そのままわしゃわしゃと撫でられる。
「俺も協力するから、なにかあったらすぐ言えよ」
「ありがとう。でも子ども扱いするのはやめて」
「へいへい、そりゃ悪かっ――」
途中で言葉を止めたサハクが気になり顔を見上げる。彼は茫然とした表情で、わたしの後ろへと視線を向けていた。
なんだろうと振り返ろうとしたところで、低い声が聞こえる。
「私のつがいよ、その男はなんだ?」
「……へ?」
間抜けな声を出しながら振り返ると、死体もどきがすぐ後ろに立っていた。真上から琥珀色の瞳がこちらを見下ろしている。人間離れした造形の美しさに、背筋が震えた。
「その男は何かと聞いている」
「えーと……サハクです」
「恋人か?」
「……いえ、ただの知り合いです」
わけも分からずなぜか素直に答えてしまった。
ふむ、と頷いて、わたしの頭に乗ったままのサハクの手を振り払う。
「この者は私のつがいだから、今後は触れないように」
「……へ?」
二度目の間抜けな声をもらしたわたしをよそに、死体もどきはサハクを家の外に押し出し扉を閉めた。
ふたりきりになった室内で、甘い声音が響く。
「つがいよ、名を教えてくれ」
「……ツィータです」
「ツィータ、やっと会えた――」
そのまま長い腕で抱きしめられる。
ちょっと待て、つがいって……なんだ?
言葉自体は聞いたことがある。意味もなんとなく分かる。だけど、わたしが、この死体もどきの、……つがい?
「あの、つがいって……どういう意味ですか」
「つがいはつがいだ。竜族には魂同士で結ばれた相手が存在する。それがきみだ。ずっと会いたかった……今度は人間の女でよかった……」
よく分からないが、相当嬉しかったのか抱きしめる腕に力がこもり、広い胸に顔を埋めることになった。
何故か嫌な気はせずしばらくされるがままになっていると、ふいに腕の力が緩む。顔を上げると、白銀の睫毛の隙間から覗く、ふたつの琥珀と目が合った。目尻を下げて、微笑を浮かべたきれいな顔が近くにある。
「私はイリューザ。お願いだ、私の名を呼んでくれ。ツィータ」
「……イリューザ」
「ああ、つがいが名を呼んでくれるなんて……嬉しすぎて死にそうだ」
さっき死にかけてましたよね?
いきなりつがいとか言い出すし、ほんとなんなんだこの人。いや、人じゃなくて……竜か。
竜のつがい? なんでわたしが? 竜のつがいは竜じゃないの? 人間の女でよかったとか言ってたけど、そこは普通嘆くところじゃ。だってほら、寿命とか価値観とか、生活の仕方も全然違うでしょ?
「あの、わたしがつがいっていうのは何かの間違いじゃ」
「間違いではない。きみは人間だから分からないかもしれないが、私はきみと魂の結びつきを感じている。この鼻孔をくすぐる甘い匂い、脳髄に響く蠱惑的な声、間違いなくきみは私のつがいだ」
わたしを諭すように熱く語りだす。
そのまま顔に頬を摺り寄せられると、ざらりという感触がした。そういえば……忘れかけていたがこの竜、砂まみれだった。
気持ち悪さに顔をしかめながら、両手をつっぱって引き剥がす。
イリューザの服に付いていた砂がこちらに移ったのか、気づけばわたしまで全身砂まみれだった。
「……最悪」
本当に最悪な日だ。今日一日で、もう何度そう思ったことか。
「どうした?」
「あなたのせいでこっちまで砂まみれなの! この村じゃお風呂はめったに入れないし、洗濯だってなかなかできないんだから! ああもう、この服もおととい洗ったばかりなのに……」
胸の辺りまで伸びた自分の黒髪をひと房掴む。頭をかかえ込むようにして抱きしめられたからか、髪まで砂まみれだ。払い落とせば多少きれいになるが、それでも気持ち悪さは残るだろう。
「風呂に入れない? なぜ?」
「水不足なの。飲み水を確保するだけで精いっぱいだから、お風呂なんてめったに入れない」
「水場は?」
「井戸はあるけど、枯れかけているから飲み水専用なの。川はほとんど干上がってるし」
なるほど、と小さく呟いて、イリューザは右手を掲げる。
何をするのかと追った視線の先で、パチンッと指を鳴らした。すると一瞬風のようなものを感じ、衣服が舞い上がる。彼の腰まで伸びた長い白銀の髪が、ふわりと揺れた。
もう一度指を鳴らす音が聞こえたと思ったら、風はきれいに止んでいた。窓は少しだけ開けていたが、そこから入ってきたにしては、今の風はあまりにも不自然すぎる。
「終わり。どうだ?」
「な、なにが」
よくわからず首を傾げると、イリューザは己の衣服をパンッと叩く。
「きれいになっただろう?」
よく見ると砂まみれだった彼の服は、洗濯した直後のようにきれいになっている。服どころか髪や頬に付いていた砂もすっかり消えていた。
そして恐る恐る自分の身体を見てみると、こちらも同じようにきれいになっているのだ。おまけになんだか柑橘系のいい匂いまでする。まるでお風呂上りのような気分だ。
「なんで」
「簡単な魔法だ。さっぱりしただろう?」
こくこくと頷くと、彼は嬉しそうにほほ笑んだ。
こんな魔法があるのか。そもそも魔法なんて初めて見た。この辺境の村では、魔法でさえも珍しい。
「ありがとう、ございます。今さらだけど……体調は大丈夫?」
「私のことを心配してくれるのか?」
「……ええ、まあ」
浮かべた笑みを濃くして、イリューザは答えた。
「万全ではないな。貴重だと聞いておいてすまないが、水を一杯もらえると助かる」
「お水?」
「ああ、喉がカラカラなんだ」
申し訳なさそうに彼が言うので、仕方がないなと水を用意しに行く。
そのあいだ椅子に座って待つように言ったのだが、イリューザはずっと目尻を下げてわたしのことを見ていた。