幻肢痛
「ああ、いたい、いたいの……達也さん、いたいの……」
真っ暗な寝室に響く、微かなうめき声。苦痛に身をよじる衣擦れの音。
ああ、今夜もだ。
私は足音を殺して、妻の寝室に近づき、ドアノブをそっと握る。
廊下からドアを少しだけ開け、部屋の奥、ベッドの方へそっと声をかける。
「瑤子、大丈夫かい」
「達也さん、いたいの、腕がいたいのよ……」
私の開いたドアの隙間から、細い光条が寝室の中に差し込む。
横たわった瑤子が身じろぎする気配がする。ドアと正反対の位置にあるベッドは暗闇の中に沈み、彼女の表情はわからない。ぼんやりとしたシルエットだけが感じられる。
寝室から廊下へ流れ込む生温かい空気を震わせて、疼痛に苦しむ吐息が不規則に伝わってくる。
「瑤子、大丈夫。落ち着いて。……君の腕は」
「ああ、わかってる、わかっているのよ。私の腕はもう無いの。それでも痛いの。いたくていたくて、たまらないの……」
数か月前、妻の瑤子は突然の交通事故で右腕を失った。
すぐに病院に駆け付けたが、彼女の腕は肩の付け根から引きちぎられ、どうにもならない状態だった。出血で死ななかったのは幸運と言えるくらいだった。
休日の昼に彼女がひとりで買い出しに出かけたときのことで、私も一緒に行っていれば何か変わったのではないかと、今でも悔やむことがある。意味のないことだと知りながらも。
あれから毎晩のように見る夢がある。事故の日、五体無事なままの瑤子が笑顔で玄関を出ていくのを見て、私は行くのをやめろと叫び、彼女の手をつかんで止めようとするのだ。しかし、私の声は出ず、身体も動かない。外に出た妻の背中で玄関のドアがバタリと閉まり……そこで私の目は覚める。そういう夢だ。
とにかく、右腕と引き換えに命は助かった瑤子だったが、手術直後も、退院して帰宅した後も、存在しないはずの右腕の痛みを訴え続けていた。
医学的には、失われた身体の一部が存在するかのように脳が錯覚して起こる現象で、幻肢痛と呼ぶのだという。
存在しない腕が痛むのだから、治療することはできない。痛み止めの薬も効かない。ただ、ひとり苦しみ続けるほかない。
「ひっ、腕が……あぁ、引っ張られるみたいで痛いよ……うぅ……」
「瑤子」
「は、入ってこないで、達也さん。見られたくないの。私の顔を、見ないでほしいの」
「ああ、わかっているよ。入らない。ここにいるよ」
「見ないでね……見ないで……あなたに見られたくないの……」
震える声に拒絶され、私にはどうすることもできない。無力な夫は、ただ黙って寝室の入り口に立ちすくむ。
事故の時に瑤子は顔にも大怪我を負った。美しかった彼女の容貌はひどく醜くなり、それを苦にして誰にも会わなくなった。退院してからも、毎日カーテンを閉め切った自分の寝室に閉じこもり、夫である私にも滅多に顔を見せることはなくなった。
健康で美しく自信に満ち溢れていた瑤子は、一瞬にしてそれらすべてを失った。彼女は卑屈になり、自分自身と他者とを拒むようになった。
瑤子の姿がどうなろうと、私の彼女に対する愛情は変わらなかった。しかし、瑤子はそれを無垢に信じるには傷つきすぎていたのだと思う。
「ああ、いたい、いたいの……うっ……っ……っ……」
瑤子の嗚咽交じりの苦悶の声が、寝室の闇の中にゆっくりと溶けていく。
私は目を閉じ息を潜めながら部屋の外に立ち尽くし、それを聞き続けた。瑤子の声が何か私を責めているように感じる。それが苦しいと同時に快かった。私と瑤子の間には、もうこの形のつながりしかないのだ。
か細い声はだんだんと小さくなり、やがて途絶えた。
静寂が訪れてからしばらくして、私は闇へ向かって小声で妻の名を呼んだ。
「瑤子、もういいかい」
何も返事が返ってこないことを確認すると、私はため息をつく。
壁際にあったスイッチを手探りで押し、寝室の照明を点けた。
さっきまで瑤子が横たわっていたはずのベッドの上には、誰もいない。
丁寧に整えられた清潔なシーツには全く乱れがない。
体温を全く感じない無機質な空間を、蛍光灯の白い光が静かに照らしている。
そして、私ひとりがそれを廊下から見つめていた。
「まったく、どうかしてるよ……」
瑤子は数週間前に亡くなった。
退院の後しばらくして、不具になった身体と醜くなった容貌、そして止むことのない幻肢痛に絶望し、自ら命を絶ったのだ。
だが、私は今でも彼女の姿を見る。その声を聴く。
私の脳が見せている幻影だと自分でわかっている。それでも毎夜瑤子は現れる。
事故の前の華やかな笑顔や明るい声ではなく、傷ついた身体で幻の痛みに苦しむ姿で現れるのは、私が自分に与えている罰なのだろうか。私の無意識が選んだ自罰の手段として、幻の妻が苦しみを受けているということに自己嫌悪を感じる。
孤独、後悔、愛惜、消えることのない感情が私の中を循環しつづける。それがたゆたう間、この幻影も現れつづけるのだろう。
失われた半身の痛みを感じ続ける現象、幻肢痛。
今、それに苛まれているのは私の方だった。