その一、弓の名手、大宮大之丞
大宮大之丞は弓の名手であった。
彼の大力をもってして弓をひけば三里先に届くとも言われた。
また一度狙いをさだめたならば、必ずこれを射る。
並の者ならば、的となる敵を認めてから矢を放つまで時を要するだろう。しかし、大之丞は違う。瞬時に射る。素早くつがえたかと思うともう矢は放たれている。
それだけではない。矢が飛んでいく方向を自在に操ることができた。家中の誰にも真似できない技であった。
尋常ならざる大力にて遠くの的を、尋常ならざる技で近くの的を必中するのだ。
彼はそのたぐいまれなる技術で、戦場にて何度も功をたてた。父である大宮含忍斎も若いころは戦上手でならした男であった。主君、北畠具教のおぼえもめでたく、八十歳をすぎた父は北畠家の大老で阿坂城主をまかされていた。
北畠家臣であった大嶋内蔵頭が書きのこしたという『北畠家臣帳』には、大宮家の大之丞をいかように伝えているか
「大力無双大弓者上手阿坂合戦ニ秀吉左ノ股射抜ク」
かの織田信長は永禄十二年八月秋、七万の軍勢をひきつれて伊勢国に攻め込んだ。北部の城を次々とおさえ、南進。道中、ことごとく民家に火を放った。信長の戦法である。城を攻めるためには民百姓の家を焼いた方がよい。
兵糧の隠し場所を焼け!
百姓をおびえさせろ!
さあ!
逃げるのだ、城の中へ!
優しい城主様にかくまってもらえ!
こうして大勢の民をかかえた城は弱くなる。兵糧は底をつき城の中は阿鼻叫喚。さっさと降参するがいい。民百姓のために!
八月二十七日、とうとう阿坂に信長の軍勢が到着した。
阿坂城攻めの先陣は秀吉であった。
――実はこの前日。信長からの使者が阿坂に遣わされ、大宮含忍斎、大之丞父子に面会している。
「和睦せしめんと欲す」
信長は戦を望んでいないと。和睦を結んで、織田に服属を。それが大宮家のため、何より民百姓のために最善の道であると。
大宮父子の答えは決まっていた。
「否」
民百姓の家を焼いておいて、何が和睦か! 城中に逃げこんでいた民も気持ちは同じであった。
戦う覚悟はできている。そのために城の麓にある浄眼寺も自焼した。
籠城だ。いつでも迎え撃つ。
……まだ主人公出ていません。
明らかな間違いなどがありましたら、教えて頂けるとありがたいです。作者はハートがやわなので、優しい言葉でお願いします。
織田軍の実態は作者にはわかりません。勢州軍記の記述に妄想を混ぜ込んで創作しました。
※追記
『美杉秘帖』を見たら、旧美杉村に大宮谷という地名がありました。もしかしたら、大宮家はこの地名を名乗ったのかもしれません。