第一章 お腹が空いたのです
ぐぅぅぅぅ……っ
澄み切った青空の下に、不釣り合いな腹の音が響き渡る。
くったりと地面にうつ伏せで倒れ込んだ少女は、なにか食わせろと催促する腹を押さえた。
「お腹、空いたぁぁぁぁ……」
弱々しい声が、虚しく消えていく。
生気のない双眸は、常なら紫水晶のように透明感のある美しい光りを宿しているというのに、今はぼんやりと地面に生える草を映すだけだ。
(あの青々とした草……煮込んだらおいしいかな……)
青草のだしがいっぱいでたスープを想像して、よだれがあふれてきそうになる。
この際、食べられるものなら木の根だろうと雑草だろうとなんでもいい、と手を伸ばしかける。
が。
途中で、はたりと力なく落ちる。
摘んだはいいが、火も熾せない自分に調理はできない。
(ぅぅ~、スノーランに見つかったら怒られる)
過保護な侍女のことだから、雑草を食べようとしたことがばれたら説教されるに違いない。
『よろしいですか、姫様。貴女はお忘れになりがちですが、一応、ええ、本当に一応ではありますが、紛れもなく王族の血を引く、尊い姫君なのです。だれもが地に伏し、または、かしずくべきやんごとないお方が、その辺に生えている草をむしって口になさるなど、言語道断! ええ、本当に、視覚の暴力です。空腹で耐えられないのだとしても、霞でも食べて生きてください。品位を貶めては、下々に示す威光もなにもありません』
そう説いたあとは、これも自分が満足に食料を調達できなかったからと嘆き、そしてまた身分の高い方は、と始まるのだ。
身じろぎすることも許されず、ただ黙って聞いているのは、辛い。
ちょっと意識が飛ぶと、脳裏に素敵な楽園が見えて、可愛い神の使いがこっちへおいで、と誘惑してくるのだ。
それを振り切って、現実に戻れば、切々とこの世のことわりを説く侍女がいる。
あれは、二度と体験したくないものである。
「くっ、雨が降っていたら……っ」
少女――アンレッティは、悔しげに下唇を噛みしめた。
二か月以上も続く晴天のせいで、あとは実をつけるばかりだった作物が見事に枯れてしまったのだ。
そのときの絶望といったら!
少量の水では、作物も渇きを癒すことはできなかったのだろう。萎れ、腐っていく命を再び芽吹かせる力などなかった。
(水路があれば……いや、井戸さえあれば)
水ひとつとっても、少し離れたヴェルセレク本宮殿までもらいにいかなければならないのだから大変だ。
改めて、この地で生活していく上の不便さを呪っていたそのとき、奥に見える茂みががさりと揺れた。
「! スノーラン!?」
救世主の登場にぱぁっと目を輝かせたアンレッティは、けれど現れた顔を見てがっくりと項垂れた。冷たい地面に顔を押しつけ、おいおいと嘆いた。
「ぁぅ…スノーラン、じゃ、ない……、うえぇぇん、お腹空いたよぉぉぉ」
「うわっ、君、だれ?」
まさか開けた視界に、倒れた人がいるとは思わなかったのだろう。
恐る恐る近づいてきた少年に、鼻をひくつかせたアンレッティは、それまでの脱力が嘘のように俊敏に立ち上がった。
「ふんふんっ、甘い、匂い!」
「ん? 甘い……? ああ、先ほど、フェンツェ様にいただいた焼き菓子のことかな」
「ちょ、ちょうだい!」
だらだらと涎を流し、腹の音を盛大に鳴かせるアンレッティに、少年が吹き出した。
「そんなにお腹が空いていたの? 焼き菓子でよかったら、あげるよ」
「やったぁぁぁぁ!」
紫水晶のように美しい双眸を煌めかせ、全身で喜びを表すアンレッティを面白げに見つめていた少年は、はてと小首を傾げた。
「君は、だれ? どうしてこんな離れに?」
少年の問いかけに、けれど目の前の獲物に夢中なアンレッティが聞いているはずもなかった。
差し出された甘い香りのする焼き菓子をひったくるようにして口に入れたアンレッティの目に涙が滲む。
宮廷の料理人が作ったであろう焼き菓子は、さすがにいい素材を使っているだけあって味も一流だ。
スノーランの作る料理ももちろん美味しいが、やはり腕が違う。
久方ぶりの甘味が、五感に染み渡るようだ。
「んぐ、んぐ」
五個の焼き菓子をあっという間に完食してしまったアンレッティは、物足りなげにお腹を押さえた。小腹を満たした分、余計にお腹が空いてくる。
「もっと、食べたい……。お腹いっぱいご飯が食べたい」
「食べればいいじゃない。ここで食べ物に不自由することはないと思うけど?」
アンレッティは、なにも知らない様子の少年を見上げた。
女性にしては背の高い侍女のスノーランよりも、頭一つ分高いだろうか。
十四を迎えたばかりのアンレッティより、三歳上に見える。
仕立てのよい服に、洗練された雰囲気は育ちの良さを感じさせる。
優雅に弧を描く眉に、翡翠をはめ込んだような双眸は、隠しきれない知性のきらめきがある。男にしては繊細な顔立ちを彩る、銀の長い髪は、胸元でゆるく縛られていた。
(ふぁ~、物語に出てくる吟遊詩人みたい)
それとも、神に仕える穢れなき神官だろうか。
物腰が柔らかで、清廉な雰囲気を持っていたが、凛とした立居振る舞いのせいか軟弱に見えない。
「ふふっ、口の周りについているよ。……ああ、頬にも土がついてるね」
おかしそうに笑った少年は、絹の手巾を取り出すと、アンレッティの顔についていた汚れを丁寧に拭った。
まるで小さな子供を世話しているようだった。
ぱちくりと瞬いたアンレッティは、少年を不思議そうに見つめた。
スノーランをはじめ、こんなに親しく接してくれる者はごくわずかだ。なにも知らないから、こんなに気軽に触れてくるのだろうか。
「わたしね、アンレッティというの。いろいろとありがとう。親切なあなたのお名前は?」
あえて王家の姫であるとは名乗らなかった。
姉のお下がりのドレスは色あせ、丈もあっていない。
いつもは髪の手入れをしてくれるスノーランがいなかったせいで、いつも彼女が褒めてくれた白金の髪の毛もぼさぼさである。
これを見て、わかれというほうが無理である。
「アンレッティ……?」
「そう、わたしの名前」
大きな目が嬉しそうに煌めく。
名前を口にするときはいつも、なんともいえない気持ちになる。
ほんの少しの寂しさと、喜びと、気恥ずかしさ。
「天秤の女神にして、平和を司る守護神……」
「! そうなの! 一緒なの」
「名前が、あったんですね……」
ふへへ、と頬を緩ませていたアンレッティは、突然、言葉遣いを変えた彼に、目を見開いた。
そんなアンレッティを困ったように見つめた少年は、片膝をつき、すっと頭を下げた。
「申し遅れました。俺の名は、レイティス・ホーヴァン・ディラ・カンフィート。忘れられた地で、小さな姫君にお会いできて、光栄の至りです」
「わたしことなんて、だれも知らないと思った」
つんっと鼻の奥が少しだけ痛んだ。
アンレッティが暮らすここは、花の離宮と呼ばれて、その名のごとく花が咲き乱れた美しい庭園が広がっている。
住まう者の目を楽しませる庭園は、けれど今は荒れ果てて見る影もない。
ヴェルセレク本宮殿への道を隔てるように天高く伸びた垣根が、離宮の周囲をぐるりと囲み、まるで人里離れた森林のようだ。松明もたかれないため、夜になるとよりいっそう不気味になる。
そのため、心ない者たちからは『死の宮』と囁かれていることもちゃんと知っていた。
それは、外観のせいだけではない。
花の離宮から一生出ることを許されず、死が訪れるそのときまで過ごさなければいけないのだ。だから人々は皮肉を込めて、『死の宮』と呼ぶのだ。
それが、王家の姫君に生まれたアンレッティの運命だった。
「一瞬、あなたの目の中に、太陽の模様が浮かびました。太陽を宿す者は、王家に連なる方だけです。まさか、迷い込んだところでお会いできるとは思いませんでしたが」
「ふぅん。王女は全員死んだと思っていた?」
「……どう答えて欲しいのです?」
いくら王家から見放されたとはいえ、アンレッティには高貴な血が流れている。
けれど王女としての価値すらないアンレッティに対し、先ほどまでの気安さを消し去り、慇懃に話しかけてくれる彼に好感を持った。
それに、カンフィート家といえば、王家に仕える属家の中でも有能な者が多い。
(欲しいな)
甲斐甲斐しく世話してくれたところも、お菓子をくれたところも、全部が気に入った。
きっと頭も切れるのだろう。
あふれ出る知性は、隠そうとしても隠しきれるものではない。先ほどの問いかけに明確に答えることなく、問い返してくる度胸もいい。
たぶん、どう答えてもアンレッティが快く思わなかったことを察したのだろう。
「あなた、とっても良いわ」
アンレッティは、にっこりと笑った。
「まだあなたの右耳に契約の証はないから、主人はいないってことでしょ。なら、わたしがなってあげる。これって、とっても光栄なことでしょ?」




