一話 望外の二度目、或いは決意
パニックに陥るのは、初めての経験だった。
何も見えず、聞こえない。
何かに触れているのか触れていないのかすら分からない。
落ち着こうと深呼吸をしようとすれば息が吸えない。
暗闇しかないこの空間に、突然自分というものを自覚したのだ。
パニックに陥るのも当然と思いたい。
何かをしようにも何も出来ず。
埒があかないので、冷静になろうとする。
…
……少し落ち着いてきた。
冷静さを取り戻した頭が回りだすと、嫌でもこの状況の異常さというものが見えてくる。
そう、自分は消えた筈なのだ。
消えた筈の自分がなぜ、存在しているんだ
自問自答を繰り返し、答えが出ない恐怖に呑まれそうになった時、《音》が聞こえた。
…これは、軍馬の足音だ。
聞いたことがあるからこそ、いや、毎日飽きるほど聞いていたからこそ分かった。
ここでまた疑問が出てくる。
何故軍馬の足音がするんだ
その疑問に答えを出そうと思考を始めようとした時、今度は《声》が聞こえた。
その瞬間、心が止まった。
一番聞きたかった声。
自分が消えるその瞬間まで、心に抱いて離さなかった。
何よりも、愛する人の声…
叫んだ。
何故彼女の声が聞こえるのか、そういった様々な疑問を全て放り出しただ叫んだ。
叫ぼうとした。
声が、出なかった。
それでも叫ぼうとした。
彼女の名を呼んだ、自分はここにいると叫んだ。
だけど、自分の声は届かずにまた《声》が聞こえた。
…いや、これは会話だ。
片方は彼女の声、だがもう一方は…
俺…
俺だ、確かに俺だ。
だけど違う。俺がずっと叫んでいた声はそもそも出ていない。それに内容が違う。
その会話を理解した瞬間、思考に閃光が走る。
この会話を俺は覚えている。忘れる訳がない。これは、彼女と初めて会った時の会話だ。
思い出した瞬間、今度は視界が戻った。
そして見つけた。
最愛の彼女を。
心が軋みをあげるほど愛が溢れてくるが、頭は冷静に思考を回す。
そして気付く。自身の異常なまでの視点の低さに。
また恐怖に呑まれそうになる自分を置いて、視界の先では状況が進行して行く。
俺の記憶とこの後の流れが一緒ならば。この後《俺》は彼女に連行される筈…
そしてその通りに状況は動いて行く。
俺を置いて。
未だ声は出ず、体も動かせない。
そこまできて、俺はようやく、この状況で何かをしようとする事を諦めた。
行き先は分かっているのだから、急ぐ必要はない。
遠ざかって行く砂煙を見つつ、かならず会いに行くと誓いを立てて、改めて思考を回す。
考えることは尽きず、そのまま数時間経っただろうか。
砂塵はとうに消え、軍馬の足音も聞こえない。
だがようやく自分という存在がはっきりしてきた事を感じる。
体を起こす、こんな簡単な事なのに、何故か胸が熱くなる。二本の足で地面を踏みしめるというのはこんなにも尊いものだったのか。
そんな感傷に浸っていると、トスン、というものが落ちる様な音が聞こえた。反射的に振り向けばそこには黒塗りの鞘、そして、鞘に包まれた日本刀の様なものが有った。
まさか、これか?
もし今度が有るのなら、涙を流させないと誓った結果がこの刀なのか?
馬鹿馬鹿しい。
心底馬鹿馬鹿しい。そんなもので笑顔を守れる程、この世界が甘くない事は俺が一番知っている筈なのに。
まあ、丸腰よりはマシだ。そんな考えでとりあえず刀を拾い上げたその瞬間、声が聞こえた。いや、これは話しかけられたのか。
「おいそこの妙な恰好をした兄ちゃん。怪我したくなかったらその服と有り金、後そうだな…、その武器っぽいヤツも置いて行きな」
瞬間思考に閃光が走る。
こんな状況、俺は知らない。ああ、そうだろうな、何故なら《俺》はさっき彼女に連れてかれたからな。
ズレタ………
俺というイレギュラーが発生した事により、この世界は俺の知っている《世界》からずれたのだろう。
情報が足りない。この世界が俺の知っている《世界》とどこまで同じで何が違うのか、正確な情報が必要だ。
「おい、兄ちゃん。黙ってねぇで言う通りにしな。まさかぶるって声も出ねぇか?」
俺が思考を回し沈黙していたのを、恐怖に震えていると勘違いした様だ。さて、どうするか…。
「兄貴、もう面倒臭いんで殺しちまいやしょうよ」
「おう、そうだな。わざわざ待つ必要なんて無いんだしな」
声の数は二つ。振り向いてみればそこには二人の男が立っていた。
気を、抜きすぎているな。ここはそんな甘い場所じゃないだろうに。そんな自己分析をしつつ思考を回す。
もし仮に、この世界が俺の知る道を辿るなら
ナカセテシマウ
させるものか。
なら、どうすればいい。前回俺が消えたのは世界が本来辿るべき道を潰してしまったから。歴史の修正力とでも言おうか。なら、歴史を変えなければいいのか。若しくは
変えるのが《俺》でなければいいのか
決断は一瞬だった。俺が幸せにしてみせる、なぜ《俺》に譲らなければならない、そんな女々しい気持ちなど捨ててしまえ。彼女の笑顔を守るためならば
例え俺自身を捨て石にしても構わない
まず俺がすべき事は簡単だ。俺が《俺》でなくなること。方法もまた簡単だ。なぜなら目の前に答えがあるからだ。
《俺》なら、例え殺されかけても相手を殺すことはしないだろう。
「まあ、とっとと死んでくれや」
そう言い切り掛かって来た相手を俺は…
なんの躊躇いもなく斬り捨てた
彼女の笑顔を守るためならばこの程度何するものぞ。
経験を持ち越せていることが幸いした。全てがリセットされた状態ならこのまま斬り殺されていただろうことは想像に難くない。鞘から刀を抜くという単純な作業も慣れていなければスムーズにはいかないものだ。
「な、あ、兄貴…テメェよくも…」
返す刃でもう一人も斬り捨てる。
人を斬った、予想外な事に心は悲鳴をあげなかった。最初の殺人は心にクルものだと思っていたのだが…いい誤算だ。
内心、満足しつつ斬り捨てた二人の懐から僅かばかりの路銀を確保する。さて、取り敢えずは町を目指すか。
そう決め、歩き出そうとした矢先、またしても声を掛けられた。