八句 ある夜のこと
キーワードの「残酷な描写あり」というのはここのことです。ここだけ時代小説になります。
これは遠い記憶。忘れていたあの日のこと。
私は浮かれていた。文を交わし続けていた凩の君から、彼女に会いに行ってもよいという返事が来たからだ。『鶴様がどのようにわたくしのところへいらっしゃるのか、楽しみに待っております』という彼女からの手紙を何度も懐から出しては、にやにやしていた。
私の名は宣忠だが、周りの人がそうであるように、身内以外に実の名で呼ばれることはほとんどなかった。私の場合、官職から頭弁、左大弁などと呼ばれることが多かった。また、愛称として凪鶴の君とも呼ばれていた。風を感じ情趣を味わう私と、凪いだ沢に佇む鶴の姿を掛けたものらしいが、誰が言い出したのかは分からない。が、語感がいいので好きだ。
凩は私を鶴様と呼んだ。凪がないことに最初は違和感を覚えたが、今となってはどうでもよかった。凩だけが呼ぶその呼び方が、私達の特別な関係を表しているようだったから。
手紙を受け取った時、私は『次の十五夜、亥の下刻に貴女を心身ともに奪いに参上致します』という返事を書いて、使用人に届けに行かせてから、文面の恥ずかしさに悶絶した。
そして、その日はやって来た。
八月十五日の夕刻、私の邸では歌合せの会が開かれていた。宴会好きの父の誘いに、二十数人の貴族が集まった。会は酉の下刻には終わる予定だったから、一休みしてから凩の邸へ行くつもりだった。
貴族達の優雅な時を破壊したのは、突然の叫び声だった。使用人のものだ。そして、あわただしい足音。
「みなさま、お逃げ下さい!」
「賊が、賊がぁっ!」
駈け込んで来た使用人達の叫び声に、皆がざわつく。
余興の寸劇か何かだと思ったのだろうか、一人の公卿が大声で笑い出した。それにつられて皆が笑い出す。
「宣忠、空気が張りつめているのが分かるか」
武士をも凌ぐと言われた武官の兄が、緊張した面持ちで太刀の柄に手を掛けながら言う。この笑い声の中、兄は何を感じているのだろう。皆と同じように平和ぼけした私には分からなかった。
一人の使用人が白目を剥いて倒れた。
笑い声が止まり、静かになる。使用人の背中には矢が刺さっていて、直垂に血が滲んでいた。隣にいたもう一人の使用人が、横で倒れている同僚を見て気絶する。
その後はもう大騒ぎだった。客人達は高坏を蹴飛ばし、料理をぶちまけ、食器を割り、円座で足を滑らせながら、我先にと広間を飛び出した。残されたのは、腰が抜けて動けない民部大輔、恐怖のあまり失神している左中弁、民部大輔に肩を貸そうとしている右兵衛督、何が起こったのか把握できていない父・大納言、太刀を抜き辺りを警戒する兄・右近衛大将、そしてこの状況下でなぜか落ち着いている私だった。
邸のどこからか悲鳴が聞こえた。
「誰かやられたようだな」
兄が静かに言った。邸中から聞こえて来る悲鳴や足音に、民部大輔が身を縮める。右兵衛督が促すが、立ち上がることができない。兄がそちらを振り向く。
「右兵衛督、逃げれば無事とは限らぬ、外の悲鳴が聞こえないか。大輔殿は置いて行くぞ」
「しかし、大将様……」
兄が太刀で空を切る。
「被害を最小限に抑えるため、私達は賊を倒しに向かう。いいな、右兵衛督」
「は、はいっ、分かりました。私も武官の端くれ、大将様には及びませんが、尽力いたします!」
「よし。行くぞ」
右兵衛督と兄が連れ立って簀子縁に出る。
「お待ち下さい兄上、私はどうすれば……」
「宣忠は父上をお守りしろ。……母上と妹達が留守でよかったな」
二人の姿が蔀の向こうに見えなくなる。
……守れと言われても……。
「ひっ、ひええええっ」
情けない民部大輔の声に振り向くと、襖が開け放たれ、賊が立っていた。刀を持つ者、弓を構える者、様々だった。差し込む月明かりに、刃がぎらぎら光っている。
「大輔殿、逃げて下され!」
しかし、私の声が混乱状態の彼に届くとは思えない。
くそっ、許されよ大輔殿。
私は親友であり優秀な部下である左中弁を抱き起し、背負う。
「父上、逃げましょう。早く!」
賊の振り下ろした刀が民部大輔の狩衣を引き裂いた。鮮血が飛び、襖を染め上げる。呻き声と共に風を切るような音を出して、民部大輔が倒れ伏した。狩衣が首や胸の辺りから赤黒く染まっていき、それが徐々に床に広がっていく。
悪寒がした。さっきまで落ち着いていたのが何かの間違いであったかのように、私は戦慄した。足が震える。
「あぎゃあ」
赤ん坊か、はたまた潰れた蛙か、世にも珍妙な声を上げて、父が四つん這いで逃げ出した。
「ちょっ、父上!? どちらへ行かれるおつもりですか!」
ああくそ、どいつもこいつも……。
「こんなところで死んでたまるか!」
動け、私の足。左中弁を背負い直し、簀子縁に走り出る。つんと鼻を刺す鉄錆びた臭いがした。どれくらい殺されたのだろう。
とりあえず今は邸を脱出することだけを考えろ。外に出ればどうにかなる。いいな、宣忠。
「よし」
遠くから金属同士が触れ合う音が聞こえた。兄だろうか、それとも右兵衛督だろうか。
遠くから悲鳴が聞こえた。客人は何人無事なのだろう。父上はどこに逃げるつもりなのだろう。
簀子縁を駆けていると、勾欄の近くに人影が見えた。鶯の直衣、右兵衛督だ。
「兵衛督殿、ご無事で……」
肩に触れる。
ずるりっ。と、右兵衛督の体が勾欄を越えて庭に落ちた。勾欄に血が擦れた痕が残る。
「ひっ……!」
そんな……右兵衛督がやられただと……? 兄は一緒じゃないのか……?
相手は随分と手練れのようだった。確実に急所を一突き、喉を矢で射抜かれている。
「う、凪鶴……」
耳元で声がした。
「青鷺丸、気が付いたか」
「我々は……一体……。何が……」
「分からない。とにかく邸の外へ。立てるか?」
「ああ、なんとか」
簀子縁の至る所に客人が倒れていた。部屋の中にも倒れているのが何人か確認でき、中には兄と右兵衛督が反撃したのであろう賊も混じっているようだった。
「凪鶴、私達は助かるのだろうか……」
「さあな。でも、ここで死ぬわけにはいかない。私には行く場所がある」
「……愛しの凩の君との逢瀬か」
「なっ、なぜそれを」
「ここ数日、仕事中に手紙を見てはにやにやしていた。はっきり言って業務妨害です。気持ち悪いです頭弁様」
ばれていたのか。
「探せぇ! あと二人だ!」
賊の声だった。あと二人、ということは、他の人達はもう……。
「のんびり話している暇はなさそうだな、青鷺丸」
「そのようだな」
普通ならもっと緊張しているべきだ。しかし、残っているのが私達二人だけだと知った瞬間、初めと同じような不思議なくらいの落ち着きを取り戻していた。人間、本当に大変な時こそ変に落ち着き払うとはこのことを言うのだろうか。
透渡殿を飛び越えて遣水を渡り、私達は東中門に辿り着いた。あと少しだ。外に出てしまえば――。
「凪鶴、青鷺丸! これは何の騒ぎだ!」
東総門から駈け込んでくる人物がいた。
「鶲!」
思わず声が出た。私達二人と同じく太政官勤務の少納言が、騒ぎに気付いて様子を見に来てくれた。これで助かる可能性がぐんと上がる。
少納言は私と左中弁を交互に見て、微笑んだ。
「もう大丈夫だ、検非違使や武士に連絡してあるから」
さすが、仕事が早い。
「ありがとう鶲! 凪鶴も私も、もうだいぶ危なくて……ぅっ」
少納言に歩み寄った左中弁の言葉と動きが止まる。
「青鷺丸?」
どうしたんだろう。
「ひ、鶲……? な、なん……で……。御前が……」
左中弁が倒れる。縹の直衣に、点々と赤が跳ねている。
えっ、なんで?
呻き声を漏らす左中弁と、短刀を握りしめた少納言。目の前の状況が理解できない。
「おーい、野郎どもー、藤原宣忠はここにいるぞー」
なんで賊を呼び出してるの?
「鶲、何の真似だ。ふざけるな」
気が付くと、私はすっかり賊に囲まれてしまっていた。なぜだ。どうして鶲が。
「彼らは私が雇った犯罪者達だ」
少納言は左中弁を踏みにじる。
「凪鶴、御前はここで死ぬ。私達に殺される。これで高官の席が大量に空く。中下流貴族や官人達のいい出世の機会ができる」
「御前、何を言って……」
少納言の持つ短刀が月明かりを反射して光った。そういえば今日は中秋の名月じゃないか。月を愛でながらの歌合せで、その後は凩を愛でるはずだったのに、どうしてこんなことに。
「この計画は前々からあったんだ。上位には同じような奴らばかりがいるから、間引きしようって。みんなで協力してさ、御前を信用させて」
「は?」
少納言が下卑た笑いを浮かべる。
「萌黄も、松風も、雲雀も、みんな共犯者だ。御前の味方なんか、この青鷺丸だけだ。驚いたか」
どれも友人の名だった。よく六人でつるんでいた。
歌合せをすればいいと言ってきたのは萌黄。父は宴会好きだが、誰を呼ぼうか迷っているらしいと言った時に提案してきたのが松風。凩からの手紙ににやにやしていた私に、歌合せと逢瀬を同日にすれば詠んだばかりの素晴らしい歌を贈ることができると教えてくれたのが雲雀。そして、歌合せの会に賊を乱入させ、参加者を亡き者にしたのが鶲。私の味方は、作戦を知らなかった青鷺丸だけ。
私は、友人に利用され、裏切られたのか……? いや、嵌められたのか?
「あれ、青鷺丸が動かなくなったぞ」
凩との約束の日を作戦決行の日にさせたのは、私を絶望させるため……?
「ま、そういうわけだからさ、さようなら、凪鶴」
動けなかった。自分の直衣が破れるのが分かった。冷たい切っ先が腹に触れる。烏帽子が落ちて、頭に激痛が走る。
嫌だ。死にたくない。私には、行かなければならないところが……会いに行かなきゃいけない女がいるのに……。
鶲と賊が去って行き、私は放置された。そのままにしておけばいずれ死ぬだろうということか。
「……青鷺丸」
返事はない。私は仰向けになって、空を見上げる。曇っていて、月は見えなくなっている。ぼんやり見える光から位置を考えると、もう亥の刻に入る頃だろうか。あぁ、凩、一度でいいから貴女に触れてみたかった……。