初句 朝ごはん
けたたましく鳴り響く目覚まし時計に、布団の中から手が伸ばされる。ピピピピという電子音の発生源を探り、叩いて止める。
「あと少し……」
もぞもぞ動く布団から、若い女の声が漏れた。寸の間静かになって、慌てて飛び起きる。
「えっ、ちょっ、何時?」
デジタル時計は液晶画面に午前八時五分という現在の時刻を無表情に表示している。
「……ああああああ!」
布団を払いのけて、パジャマのまま部屋を飛び出す。スヌーズ機能で何度も鳴っていたはずなのに、どうして声をかけないのだ。板張りの廊下を駆け抜け、縁側に出たところで足を止める。
「ちょっと! どうして起こしてくれな――」
「おはよう、煌羽。廊下は走っては駄目だ。驚いてスズメ達が逃げてしまうだろう?」
縁側に座る同居人に屈託のない笑顔を向けられ、雨夜煌羽は気勢を削がれてしまった。困ったように顔を歪めて、溜息をつく。
「ねえ凪、どうして起こしてくれなかったの?」
縁側で庭を見ているこの男を刺激するのはよくないということは、経験上分かっていた。しかしそれでも、言わずにはいられない。煌羽の頭の中で回るのは、「遅刻」の二文字だった。刺激しないように穏やかな口調を心掛けたが、不機嫌さが声から滲み出る。
凪は少しぽかんとしてから、ふふっと笑った。朝露に濡れる花や、ちょこまか動くスズメを見ていた時とは違う、冷たい笑みだった。切れ長の目が細められ、面白いものを見付けたように口が歪む。煌羽は、凪のこの表情が苦手だ。形容しがたい恐怖にも似た何かを感じて、一歩後退る。刺激してしまったのだろうか。
「煌羽」
「うあっ、はい」
「今日は土曜日だ」
「……え」
大学、今日はないんだろ。と、追い打ちをかけるように言われた。煌羽は縁側に崩れ落ちる。頭の中で回っていた「遅刻」の二文字が砕け散って、「土曜日!」の四文字が踊りだす。廊下を走った勢いのまま凪に詰め寄っていたらどうなっていたのだろう。絶対刺激していた。しかも勘違いで。惨事が起こらなかったことに安堵しつつも、勘違いをした自分のことを恥じた。
「でも、声くらいかけてよね。私慌てて、こんな格好で……」
「新しい寝間着だな。かわいいぞ」
さらりとそんなことを言ってのける凪を、煌羽は睨みつける。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、話そらさないで」
「あはは、すまない。けれど、俺には聞こえなかったぞ、目覚ましの音。この広い家の中で、どこの範囲までなら聞こえるのだろうな」
「うう、確かに……」
煌羽が暮らす雨夜家は、伝統的な日本家屋だった。日本史好きな父と、イケメン武将の出るゲームをやりこむ母の注文を受けた大工達が建てた、ガチな歴オタ仕様の日本家屋である。幼い娘を抱える若い夫婦が建てたマイホームとは思えない家で、当然近所からの注目を集めた。そしてそんな家に暮らす煌羽も注目を集める訳で、子供のころは「オマエの家お化け屋敷」だの「時代劇のセット」だのとからかわれた。
煌羽が高校二年生の時、両親がいなくなった。その日は学校でも色々あったのに、まさに追い打ちだった。一人になった煌羽を心配して、北海道に住む祖父が面倒を見てあげると声をかけてくれた。しかし、煌羽はその誘いを断った。祖父が嫌いなわけではない。正直、嬉しかった。けれど、スキップしながら祖父の元へ転がり込めるような気分ではなかったのだ。それに、祖父の家へ遊びに行くとだいたい庭の餌台に鳥がいるのだが、時々来ている異様に綺麗なカラスのことが煌羽は苦手だった。夜空のように煌めく漆黒の瞳に全てを見透かされているようで、気味が悪かった。
一人になって数日経ったある日、なんとなくまっすぐ帰る気になれなくて、近所の公園で時間を潰した。子供達が夕焼けと一緒に家に帰ってからも、ただただぼんやりブランコを揺らしていた。街灯に群がる蛾を見ていた時、無言で隣のブランコに座ったのが凪だった。驚いて、その姿を見つめた。
「煌羽、朝食にしよう」
縁側にうずくまる煌羽に、凪が手を差し伸べる。あの時と同じ、女性のようなしなやかで綺麗な手。その手を取って立ち上がり、煌羽は呆れたように苦笑する。
「しようって、作るの私なんだけど」
ベーコンエッグにサラダ、トースト。グラスの中で揺れる牛乳の影がテーブルクロスに落ちる。
マーガリンで黄色く塗られたトーストを頬張りながら、煌羽はテレビを点けた。いつもの情報番組。人気アイドルグループが先日の解散報道から一転、存続が決定したということで、歓喜乱舞するファンの姿が映っている。
「ふうん、存続するんだ」
エンタのコーナーが終わり、特集のコーナーが始まる。ぎりぎりでミニではないスカートを穿いた女子アナが、モニターの前でスタートコールをした。効果音が鳴り、モニターに今日の特集が表示される。
「ぅえ」
煌羽の口からだらしない謎の音が漏れた。
モニターに映し出されているのは、『大流行!! 心霊女子とは!?』という言葉と、お化けのイラストだった。曰く、イケメンに化けた妖怪やイケメン幽霊が登場するゲームが若い女性の間で流行っていて、ゲームからの流れで心霊スポットやお化け屋敷などに繰り出すファンのことを心霊女子と呼ぶらしい。
『ここのトンネルってぇ、事故死した明治の若手俳優が化けて出るらしいんですよぉ』
『ゲームに牛鬼が出るんですけど、ここの神社、牛鬼と関係があるらしくて』
『お化け屋敷マジたのしー! 超ウケるー!』
心霊女子効果で、民俗学や妖怪、幽霊の本なども売れているとアナウンサーが言う。
トーストを持ったまま、煌羽は硬直していた。心霊女子なんてものが流行っていたなんて、知らなかった。手に力が入り、トーストが屑をこぼす。
『このお化け屋敷、本物が出るって――』
ぶつん。テレビが消える。
「煌羽、パン、崩れる」
リモコンを持った凪に言われ、煌羽は我に返る。
「あまりよくないよな、こういうの。ゲームを楽しむのは個人の自由だし、神社とかお化け屋敷くらいならいいけど、心霊スポットに面白半分で行くなんて」
凪の声が微かに震えていた。怒っているのだろうか、それとも悲しんでいるのだろうか。煌羽には分からない。けれど、意見としては同じだった。
「そうだね」
冷え切った目で、言う。
「相手の気持ちを考えない人、私嫌い」
♪
その日の午後、私達は集会所へ向かった。定例会のことをすっかり忘れていて、遅刻しかけた。
「ああ、雨夜さん、ぎりぎりですね」
初老の男に笑いながら言われた。私達は「すみません」と頭を下げる。
室内には煙草の煙が充満していた。見える範囲だけでも、紫煙を漂わせている奴は四、五人いる。私は煙草が嫌いだ。どうしてこうも、こういう類の親父どもはぷかぷかと煙管をくゆらせたがるのだろう。
「雨夜さん、大丈夫かい」
「あ……あぁ、はい、たぶん」
「僕も煙草はあまり好みませんな。まあ、ここは禁煙ってわけじゃないから仕方ないね」
「えぇ、そうですね」
襖が大きく開かれた。広い和室に集められた面々が、そちらを見る。恰幅のいい和服の老人が、ふくよかな腹を撫でながら現れた。私達のことを見回して、にかりと笑う。ぼさぼさの髭の間から黄ばんだ歯が覗いた。
「やあやあみなさん、こんにちは」
こういう人間も嫌い。けれど、このじじいが代表なのだから私にはどうすることもできない。
「凪、席に着こう」
「あぁ」
座布団に座る。皆が座ったのを確認し、老人も座る。
「えー、みなさん、今回はですねえ、今話題の心霊女子の問題についてですねぇ」
部屋がざわつく。ああ、今朝の情報番組で取り上げていたあれのことか。