十句 貴女のことは
煌羽の出て行った裏木戸をしばらく見ていた凪は凩に向き直る。
「よし、じゃあ俺……私は、貴女と一緒に参りましょう。凩の君」
「そんな御顔でおっしゃられても……」
凩が苦笑する。
「そんな顔?」
「折角の美しい御顔が台無しですわ。もう、ぐじゃぐじゃ。まるで道に迷った童のよう」
凩が着物の袖で凪の顔を拭う。
「笑って見送ってくださいませ、宣忠様」
「……希子」
凩から発せられる光が強くなる。
走り去ったように見せかけて裏木戸の陰にいた煌羽は、そっと裏庭を見遣る。凩と目が合った。
「煌羽さん、でしたか?」
呼ばれてしまった。無視するわけにもいかず、煌羽は裏庭に戻る。
「鶴様の御傍には貴女が必要。貴女のそばにも、鶴様が必要。そうでしょう? 見れば分かります。わたくしは、鶴様に会う為だけにここに留まり続けました。会えたから、触れることができたから、言葉を交わすことができたから、満足です。貴方に逢えた、それだけで、わたくしとっても嬉しいの」
まばゆい光が凩を包み込んだ。
「煌羽さん、鶴様をよろしくお願いします」
凩の体が透け始める。
「凪鶴様、大好き――」
消えていく足で一歩踏み出し、凩は凪の頬に唇を付けた。それを抱きしめようとする凪の腕の中で、凩の姿は光となって消えていった。
虚空を掴んで、凪は自分の体を抱く。涙が止まらなかった、けれど……。
「煌羽……俺……笑顔だったか? ちゃんと、凩のこと笑って見送れたかな……?」
「うん」
平安時代の人にしてはやや長身の凪の顔に、煌羽は手を伸ばす。凪が少し屈んだタイミングで、頭を撫でてやる。
「笑えてたよ、ちゃんと。えらいえらい。でも、お店の人が起きる前に脱出しようね」
冠があって少し撫でにくいなと思っていた煌羽に、凪が飛びついた。笑顔が崩れる。
「う……うぁ、あ……」
声を上げて凪が泣き出した。自分より背の高い男の体重プラス重量級着物に押され、煌羽は尻餅をつく。それからしばらくの間、凪は煌羽に抱き付いたまま泣き続けた。
♪
これは遠い記憶。出会った日のこと。
何度季節を数えただろう。途中から数えるのはやめた。
あの日、私は全てを失った。ほんの一瞬のうちに、何もかも失った。愛する人も、家族も、友人も、全て。いや、私も失われた者の一人か。
手元に残ったのは内容の分からない紙切れ。持っているのだから自分のものなのだろうが、全く覚えがない。
自分が幽霊という不可思議な存在になっていると知った時、正直戸惑った。そしてすぐに、京を離れた。死んだ場所に長居なんてしたくない。
孤独な日々を過ごし続けて千年近く経った頃、偶然立ち寄った公園で少女を見付けた。酷く落ち込んでいる風だったから、たとえ見えない霊であっても、ちょっとの間そばにいてあげようと思った。隣のブランコに腰かけた私を、少女はガン見した。あれ、見えてる?
「……貴族の浮遊霊」
あ、見えてる。
「私に何か用? 変なことしようとしたら祓うよ。私霊媒師だから」
「ものすごく落ち込んでいるようだった。気になってな」
「うわー、私、霊に心配されちゃってる。ま、いろいろあってね。こういう力を持ってるとさ、隠してなきゃいけないでしょ。でも、やらかしちゃったんだよね。何もない所見て話してるの友達に見られちゃって、鞄に入れてた護符とかもばれちゃうし、変な奴のレッテル貼られて、友達いなくなって、やっとできた彼氏にも振られて。もう散々。なんか、裏切られた感じ。きっとほんとの友達じゃなかったんだよね」
少し自分に似ている気がした。少女の目から涙がこぼれた。
「友達なんて、いらない……。裏切られるのは、避けられるのは、嫌。それなら、最初から仲良くしなきゃいい。学校で散々な目に遭って、親に相談しようとしたら、置手紙を残していなくなってて。急な海外赴任とか、嘘ではないんだろうけど、タイミング悪すぎだよね。お母さんまで一緒に行かなくてもいいのに。……一人になっちゃったんだ、私。貴方と一緒」
少女は笑う。不恰好に歪められた口元は震え、目からは止めどなく涙が流れた。
「わた……俺は凪鶴。俺も友人に裏切られて、それが原因で死んだ。なんか似てるな、俺達」
「凪鶴……。私、雨夜煌羽。……こんな愚痴聞いてくれてありがとう。人と話すのは久し振り」
「俺もだ」
煌羽は涙を拭って、ブランコから勢いよく立ち上がる。私に手を伸ばして、
「貴方のこと気に入った。貴方が良ければ、私の式にならない? 一人ぼっち同士、仲良くしよっ?」
差し伸べられた彼女の手は、細くて頼りなかった。けれど、とても温かかった。
この人と歩むことで、私の新たな日々が、きらきら煌めきますように。




