5.廊下にて
性的にやや不快な表現があります。ご注意ください。
とろりとした沈んでしまいこみそうな、生温かいこの黒い影。
ぞわぞわと背筋を震わせたくなるのは、どうしてなのか。耳元を何かに触られるような、気色の悪さに襲われるのは何故なのだろうか。
ああ……。いけない。
廊下に倒れ伏したまま、見上げれば隣室の扉が見えた。ドアスコープに明かりはうつらない。けれど私にははっきりとわかった。あの部屋にいるものが。何があの扉の向こうに潜んでいるのかが。
隣の家のドアノブがゆっくりと回る。かちゃりという音が、やけに耳に響いた。
開けてはならない。その扉を開いてはならない。あの先には……があるというのに。
大嫌いなタバコの臭いがまとわりついてくる。暗闇が私の怯えを感じたように、喜びざわめいている。
わかっているというのに、私の体はどろどろとまとわりつく黒い影に抑え込まれて、まったく自由にならない。
ああ……。いけない。
溢れてくる。
出てはいけないものが、閉じ込めていたものが。
こちら側にやってくる。
封じ込めていたものが、見えないふりをしていたものが。
ああ……。どうして。
倒れこんだ私を、かすかに震えながらじっと見つめる老婆の顔。
私のカバンを握りしめたまま、こちらに手を伸ばしかけ玄関先で震える老婆の顔。彼女もまた知っているのだ。隣の部屋に何が潜んでいるのか。これから何が起こるのか。
あきらめにも似たその悲しい静かな顔を、私はどこかで見たことはなかったか。
来る。
それが、来る。
あの夏の日。それをきっかけに始まった長い長い日々が。
ギイイイイイイイイイイイ……
来る。
それが、追いかけて来る。忘れたくてずっと記憶の隅に追いやっていたのに、「それ」はやっぱりまだこんなにも力強い。「あの日」から、ずっとずっと逃げてきたというのに、とうとう追いつかれてしまった。もう私はこれ以上逃げられない。
扉が、開いてしまった。
記憶の扉が、開いてしまった。
覗いてはいけない、記憶の奥底から、あのおぞましい過去がこちら側へやってくる。「それ」が嬉しそうに体をくねらせながら、黒いドロドロとした液体のような影に形を変えて、扉の隙間から溢れてくる。
するすると私の近くまでくると、「それ」は見上げるように大きな男の姿になった。真っ黒な影のくせに、笑っているのがよくわかる。耳まで裂けそうな口を釣り上げ、ゆらゆらと揺れる。嬉しそうに、楽しそうに。
「大好きだよ。」
あの時の私を、何も知らない幼い私を押さえ込んだように、男はぞわぞわと私の肌をなぶる。服の下の素肌に、後から後から、くねくねと影がまとわりついてくる。影のくせに、くらくらとするほどのタバコの臭いを身にまとっている。こいつは、やはりそうなのだ。私を喰らい尽くした、あのおぞましい男なのだ。
「可愛いねえ。愛してあげるよ」
気持ち悪い! 気持ち悪い!
声を出したいのに、声が出せない。
まるであの時と同じように。
「特別なことを教えてあげる。気持ちいいことをしてあげよう」
特別だと言われて嬉しかった。それが何を意味をするのかなんで、ちっとも知らなかったのだから。
知らなかったのだ! それが恥ずかしいことだなんて、いけないことだなんて知らなかった! あの日も母に叱られて、そのまま夜遅くに外に出されていたのだ。寂しくて、人恋しくて、ついその手を取ってしまった。その先に何があるのか、ちらりとも想像できなかった。
「本当に可愛いね。ひとりで寂しいんでしょう?」
ああ……。
穴という穴に黒い影が流れ込んでくる。爪の先がうっすらと黒く染まるのが、見えた。また、汚されるのか。今までも十分すぎるほど苦しんできたというのに?
私を見て汚いと罵った母を見て、真っ白になったのに。
私をいないものとして無関心を決め込む父を見て、息がうまく吸えなくなったのに。
私のことを周りの人に広めた友達を見て、人の心がわからなくなったというのに。
タバコの臭いを嗅ぐと、今でも私は「あの日」に戻る。
ここはどこなんだろう。私は、一体いつの私なのだろう。
視界がゆらりとぼやける。いっそこのまま消えてしまえば、楽なのではないだろうか。
だって、やっぱり私は汚いままなのだから。
どんなに頑張っても空回り。誰にも愛されない。必要とされない。だったらここで影に染められて、同じものになったとしてもきっと何も変わらない。
だから、わたしはあんなことをされてしまったの?
だから、おかあさんは、わたしをきらいなの?
だから、おとうさんは、わたしがはずかしいの?
ああ……。
かえりたい。
だれか、わたしといっしょにいて。
ひとりはさびしいよ。
影は笑う。私を愛おしいと撫でながら。
ーー本当にいいの?
ーーこのままで、本当にいいの?
これは、誰の声?
ちらり、また陰気な顔をした子どもが私の視界の端に現れた。
どこかあきらめたような悲しい顔をした子どもは、やはり誰かに似てはいないか。
物言わぬ子どもと老婆は、本当に私を害そうとしていただろうか?
公園でブランコにのる子ども。
部屋で私を看病してくれた老婆。
短いけれど、同じ時間を過ごしてくれたその心に暗いところはあっただろうか。
不意に感情が弾けた。
嫌だ! 嫌だ!
私はこんな男の好きなようにはならない。
これ以上、喰われてたまるか!
これ以上、不幸になどなるものか!
あの陰気な子どもが私に手を伸ばしてきた。
必死に。これだけはやらねばならぬというように。
カサカサとした乾いた肌。子どもらしからぬガリガリにやせ細った棒切れのような腕が、大切そうに握りしめた何かをこちらに差し出そうとしている。
何を渡そうというのか。こんな時に? こんな時だから?
私も必死に手を伸ばす。もう身体はちっとも自由にならないけれど。影に体をまさぐられるその気持ちの悪さで、気が遠くなりそうだけれど、目を閉じてはいけないのだとわかっていた。
ガタガタと音がする。
カバンを握りしめた老婆もまた、私に手を伸ばそうとしている。何かを決意したのであろう、ためらっていた玄関を飛び出して。
玄関から出てきた老婆は、ずぶずぶと足先から黒い影に喰われている。それでも苦悶の顔も見せずに、やわらかい声で私に向かってつぶやいた。
ーー大丈夫
優しい声が響く。
男の黒い影が私の首筋を舐めあげた。ザラザラとした無精髭が首筋にこすれ、涙がこぼれる。
気持ち悪い。
怖い。
悲しい。
だれか、私を助けて。
お願い、誰か私と一緒にいてほしい。
大きな影の男の力が、急に弱まった。
老婆とともに、カバンが食い尽くされていく。燃え盛るように、カバンが黒い影に飲み込まれていく。
指先に子どもの手を感じた。
ひんやりとした冷たい子ども。その子どもがつないだ手をぎゅっと引き寄せ、抱きついてきた。
その子どもとは思えない力に、倒れ伏したままの私はなすがままにされる。冷たい手なのに、なぜかとても心が温かくなった。
ーーもう大丈夫
そう声を出したのは、子どもだったのだろうか。老婆だったのだろうか。
どこかほっとしたような顔で、子どもは私の口に、ぽとりと何かを入れた。
ほんのり甘いレモンキャンディー。 昔よく、祖母の家で飲んだ懐かしい蜂蜜レモン味。母が実母のことを猛烈に嫌っていたから、祖母に会ったのは数えるほどしかなかったのだけれど。お葬式で見た写真は、今目の前で喰われ続けている老婆のような優しい穏やかな顔をしてはいなかったか。
老婆が笑った。
子どもが笑った。
影は、あの男は、怒っているようだった。
コインランドリーで出会った女のように、男は怒っていた。びりびりと空気が震える。声にならない音を出して、アイツは怒っているのだ。ぐるぐると私の周りを回転しながら、むくむくと大きくなり……、そして不意に弾けた。
バラバラと黒い雨が降る。その雨から私を守るように、子どもと老婆はやわらかな白い光になった。
黒と白のぐちゃぐちゃな色の洪水が、私を飲み込んだ。