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帰りたい  作者: 石河 翠


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4/6

4.アパートにて

 ぐるぐる……ぐるぐる……

 

 景色がまわる。二日酔いのままコーヒーカップに乗っているような、吐き気と頭痛で気持ちが悪い。


 モノトーンのような、色あせた記憶。風景よりも、人の声ばかりが妙にはっきりとした不愉快な記憶。ふわふわとおぼろげな色合いをしているから、それが現実ではないことはわかっている。けれど、忘れていた記憶を無理矢理見つめ直すのは、決して気持ちの良いものではなかった。


 ひゅんっ……ひゅんっ……


 良くしなる物差しで、おしりが腫れ上がるまで叩かれる幼稚園入学前の私。母が叩く横で、父はうるさそうにテレビの音量を上げている。


ーーごめんなさい、ごめんなさい。「あ」と「わ」がわからなくて。「め」と「ぬ」がわからなくてごめんなさい。なんかいもいわれてるのに、覚えられなくてごめんなさい。


 ビリッビリッビリッ……


 絵本をビリビリに破られて、ゴミ捨て場に持っていく母の足にすがる幼稚園児の私。うるさいと父が怒鳴り、テレビのリモコンを壁に投げつけた。イラついたのだろう、母が私の口を思いっきりつねりあげる。そのまま、ずるずると隣の部屋に放り投げ、バタンと音を立てて扉が閉まる。外に重しが置かれ、扉が開かなくなる。部屋の中は電気もついていない。真っ暗なところが好きなんでしょうと母が嗤う声が聞こえる。


ーーごめんなさい、ごめんなさい。めがわるくなってごめんなさい。くらいところでほんをよんでごめんなさい。だからごほん、すてないで! おねがいします、ごめんなさい!


 体育の時間に、うっかり骨折してしまった私。ありえない方向に曲がった腕を抱えたまま、静かにポロポロ泣きだした私。周りのみんなは痛くて泣いたんだと思っていたみたいだけれど、そういうわけではない。ただ母に連絡をされて、自宅で怒られるのが怖かったただけだ。母も父も、私が怪我をすることを迷惑だと断言していたから。


ーーおねがい、せんせい、おかあさんにはいわないで。だっておかあさん、きっとおこるから。ほんとうだよ、ごめんなさい。どうしよう、おこられる。どうしよう、どうしよう、どうしよう。


 ぐるぐる……ぐるぐる……

 景色がまわる。


 両親と一緒に過ごしたのは小学生まで。けれどこの悪夢は、定期的に私の元を訪れる。もう社会人になったのに、いつになれば私は解放されるのだろう。もしかしたら、その頃が人生の中で一番閉じられた世界に生きていたからこそ、余計に両親の愛情が欲しかったのかもしれない。


 まだ夢から出られない。目は覚めない。

 今のわたしは、高熱を出した幼い私。


 ゴホン……ゴホン……


 高熱でうなされる中、三畳一間の物置に押し込まれた幼い私。


「明日は社宅の皆さんと出かけるのよ。なんでこういう時に風邪なんかひいてるのかしら。本当にイライラする子ね」


「とりあえず、仕事に障るからこっちには迷惑をかけないでくれ」


 そうだ、安価なベビーシッターなんてなかった時代。お手伝いさんを雇うほどの余裕もなく、子どもが嫌いな母に世話をしてもらえなかった私は、病気になると、こうやって父の資料が大量に置かれた物置に寝かされていた。たったひとり、見上げるようなスチール製の本棚とカビくさい本に囲まれて、息が詰まりそうになったのを覚えている。高熱のせいだろうか、ぐにゃぐにゃと揺れる本棚に押しつぶされそうな圧迫感。


 どんなに心細くても、熱が出ても誰もそばにいてくれなかった。咳をすれば「感染うつる」、具合が悪くて吐けば「汚い」と叩かれた。こうやってひんやりと気持ちの良い手で撫でられたことなど、ないはずなのだ。それでは、今私のおでこを冷やすこの心地よい手の持ち主は一体誰なのだろう。


「大丈夫? 頭は痛くない?」


 ぼんやりと焦点の合わない私を安心させるかのように、老婆が微笑んだ。華美な服装ではないが、清潔で動きやすそうな服装をしている。どうやらここは、彼女の自宅らしい。リビングと思われる場所に、客用布団らしいふかふかの布団に寝かされていた。ゆっくりと私が布団から起きるのを見届けると、彼女はすぐそばの台所から温かい飲み物を私に差し出してくれた。


「こんな場所でごめんなさいね。狭い家だから……。よかったらいかがかしら? 体が温まるから飲んでごらんなさい」


 にっこりと笑ったその笑顔を見て、黙って湯気を立てるマグカップを受け取った。甘い香りがする。この香りはレモンだろうか……。けれど、知らない人からもらうおにぎりと同じくらい、見知らぬ人からいきなり振舞われる飲み物だって得体がしれない。躊躇ちゅうちょしていると、老婆はさらに私に飲み物をすすめた。


「大丈夫よ。単なる蜂蜜レモンだから。ほうら、わたしも飲んでいるでしょう?」


 にこにこと同じようなマグカップで飲み物を飲みながら、こちらにもすすめてくれる彼女に悪気はないのだろう。綺麗な目で私を見つめる老婆を前にすると、疑い深い自分が急に恥ずかしくなった。おずおずとマグカップを受け取り、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてみる。猫舌の私には、どうも熱そうに思えたから。


「この近くのコインランドリーで倒れているのを見つけたの。救急車を呼ぼうか悩んだんだけど、貧血を起こしただけのように思えて、ちょうど近くを通りかかった下の階の方と一緒にうちに連れてきたのよ」


 これでも昔医療関係者だったのよと胸を張る老婆は、世話好きな女性なのであろう。ひとり倒れこんだ女性を見つけて、世話をしてくれるとは。救急車を呼ぶのでさえ敷居が高いというのに。実を言うと、私も一度通行人の方が倒れたので通報したことがあるが、救急車が到着した後も色々と事情を聞かれて少し迷惑だったのだ。だから見て見ぬ振りをされても仕方がない状況だった私を拾ってくれるなんて、感謝するしかないだろう。


 それにしても……と私は思う。老婆いわく、私はひとりでコインランドリーに倒れていたのだという。見ず知らずの女に平手打ちされ、因縁をつけられたのは気のせいだったのだろうか。いや、あれほどはっきりとした記憶が夢や幻覚だとは思いがたい。鏡を見れば頬に赤みや傷が付いているかもしれない。私は口をつける前のマグカップを置くと不意に立ち上がり、ふらつく足取りのまま、洗面所を探した。鏡が無性に見たかった。


「ダメよ、寝てなきゃ!」


 後ろの方で、老婆の騒ぐ声が聞こえる。


 なぜ、他人の家の中を勝手に歩き回ろうと思ったのだろう。

 なぜ、他人の家の間取りが手に取るようにわかったのだろう。


 私は、迷いなく洗面所へ続く扉を見つけた。

 引き戸を横に滑らせれば、やはり予想通り洗面所があった。覗き込んだ私の顔は、赤みも傷もない。むしろ、最近の疲れや顔色の悪さも消えて、穏やかそうな顔を映していた。


 本当に?

 予感めいたものを感じて、私は浴室の扉を押し開ける。


 青青青青青青青青青

 扉を開けると目の前いっぱいに、陰鬱な青い壁が広がっていた。


 硬質な紺色のタイル。窓のない暗い浴室。チラチラと揺らめく蛍光灯の明かりが、不気味さを増長させている。そんな馬鹿な。そして目の前には、ありえないほど大きな鏡。そこには疲れ果て、ボサボサの長い黒髪をたらした、白い顔の女の顔……。


 そんな。

 まさか、ここは裏野ハイツ?!


 私は浴室の扉を慌てて、閉める。きびすを返すと洗面所の鏡には、私ではない、顔色の悪い子どもがこちらをじっと見つめていた。今度こそ私はたまらずに悲鳴をあげた。


 とっさに玄関に向かって走り出した。

 布団を蹴飛ばそうとして、ふかふかの布団に足を取られて盛大に転ぶ。そのはずみで、布団のそばに置かれていたカバンの中身が盛大に散らばった。靴を履くのも忘れて、震える手でチェーンを外す。手がうまく動かないせいで、なかなかチェーンが外れないのがもどかしい。


「開けてはいけません! 大丈夫よ、ここは安全なの。私を信じて。大丈夫、大丈夫だから!」


 老婆が、手紙をかき集めかばんに詰め込むのが見えた。そのまま思いもよらぬ力で私の手を掴む。みっしりと私の腕に食い込むその力が恐ろしい。離せ! 離せ! 離せ!


「大丈夫よ、落ち着きなさい。ほら、お鍋で温かい蜂蜜レモンを作ったの。まだ飲んでいないんでしょう? 疲れている時には甘いものとクエン酸の組み合わせが効くのよ。あなたも知っているでしょう」


 嫌だ! 嫌だ! こんな恐ろしい場所にこれ以上いられるか!

 今老婆が持っているマグカップの中身も、きっと蜂蜜レモンなどではないのだ。一体私は何を飲まされてしまうのだろう。胸がドキドキする。異常なほど、心拍数が上がっているのだ。老女が私にマグカップの中身を飲ませようとするが、私はそれを突き飛ばした。スローモーションのように、宙を舞うマグカップが見える。甘い砂糖がたっぷり入った蜂蜜レモンが、降り注ぐ中を私は駆け抜ける。そのまま、玄関の扉を押し開けた。


 薄暗い小さな公園が見えるはずの廊下は、とっぷりと墨を流したような暗闇だけが漂っている。なぜだ、いくら夜遅くとはいえ、街灯がある街中でこんな闇夜になるはずがない。足元まで何も見えない真っ暗闇だなんて、あるはずがないのだ。廊下を走り出そうとした私は、その異常さに気づき思わず足を止めた。


 その時だった。

 

 とろりとした闇が、私の足首をつかみ、廊下へ引きずり込んだ。


「ああああああああああああああ」


 老婆のか細い悲鳴が、何も見えない暗闇の中をこだました。

 それは絶望の声だと、なぜか私にははっきりとわかった。

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