3.コインランドリーにて
ゴウウウウン……ゴウウウウン……
目が痛いほどに真っ白な部屋の中で、私はじっとドラム式洗濯機が回るのを見ていた。
どうしてこうなってしまったんだろうか。コインランドリーの中は、蛍光灯とツルツルとした床、洗濯機に乾燥機、すべてが真っ白だ。疲れた頭には、この眩しすぎる白さは強すぎる。私は、そっと目を閉じた。生乾きの洗濯物の臭いがこもっていて、こめかみがズキズキする。洗濯機や乾燥機自体にカビの臭いがこもっているのかもしれない。
悪いことは重なるもので、私はとうとう社内の一般職の女性まで敵に回すことになった。実を言うと同期の女性の中で、総合職は私一人である。後の数名は一般職だったが、その違いについて私は特に考えたこともなかった。正直内勤か外勤かくらいとしか、思っていなかったと断言してもいい。
大学院に進んだものの、自分のあまりの才能のなさに研究に見切りをつけ就職を希望したクチだ。院卒女性の需要など、驚くほど少ない。一般職に応募しても、院卒はそれだけで給与が高くなってしまうこともあり、就職活動はいわゆるお祈りメールの嵐だ。ようやく引っかかったのがこの会社だったのだが、「どこでもいいから就職したかった」と内輪の飲み会で答えたことで、とある同期の女性の怒りは頂点に達したらしい。
会社というものにあまり興味のなかった私は知らなかったことだが、この会社の一般職はみな縁故採用なのだそうだ。彼女も長年のお取引先の一人娘らしい。ゆくゆくはお婿に来てくれる良い男性社員を探すためにと、親御さんの強い要望を受けて一般職で入社したのだが、本当は彼女自身は総合職で入社し最前線で活躍したかったのだとか。
その夢をこの会社の役員に説得されて諦め、内心悔しい思いをしていたときに、私が「どこでもいいから」と言ったことで心の中にとどめていたものが溢れ出てしまったのだろう。彼女は、「わたしの方がずっとこの会社で働きたかったのに!」とロッカールームで泣きくずれたそうだ。小柄で黒目がちな瞳をした芯の強い深窓のお嬢様と、すでに評判の悪いオカルト女。それはやはり、世論は彼女に傾くだろう。
すべてが伝聞口調なのは、私が直接聞いたわけではないからだ。ほとんどの内容は、突然私を無視するようになった彼女の代わりに、彼女のオトモダチとやらが語ってくれた。その中に、執行役員もいたのだから、本当にこの会社での私の立ち位置は絶望的に思える。「彼女の分まで、頑張ろうとなぜ思えないのか!」と叱責された私の気持ちをわかってくれる人は誰かいないのだろうか。
これ以上、私は何を頑張れば良いのだろう。コインランドリーに駆け込むほど汚された会社の作業着を抱えて、私はこんな夜更けにひとりぼっち。
ゴウウウウン……ゴウウウウン……
ぐるぐると汚れた衣類が回っているのが見える。薄汚れた水と灰色の泡。汚れは落ちないかもしれない。喫煙室のタバコの水がしっかり染み込んでいるから、臭いも染み付いてしまっただろうか。洗わずにいっそ捨てるべきだったかもしれない。ドラム型の洗濯機の蓋に、暗い自分の顔が映る。くしゃくしゃになった自分も、このまま洗濯機で洗って、しっかりとアイロンをかけてしまえばパリッと仕上がるだろうか。
「新卒の可愛い男の子のお世話ならしてあげるけど、なんであんたの世話なんかしなきゃいけないのよ。だいたい新卒のくせに、入社十年目のあたしよりも給料が高いっていうのがそもそもムカつくのよね」
「給料は高いくせに、気が利かない。顔もブスだし、採用して失敗だった。何でお前なんか採用したんだろう」
「本当に使えねえ奴だなあ」
「なんで会社にいるの? 契約取れないなら、脱げば?」
会社で言われた言葉が、また耳元で言われたかのようによみがえり、私は耳を塞いだ。ダメだ、ダメだ。何も考えるな。
ーー帰りたい
不意に脳裏に浮かんだ言葉に、なぜか私は飛びついた。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。暖かな家に。私を迎えてくれる家族の元に。優しい光が溢れるあの空間に。祈るように身体を丸め、座り込んだ私は、こんな気持ちになったことが初めてではないと気づいていた。
ーー帰りたい
誰かお願い、私を迎えに来て。もう大丈夫だよって、だれか私を抱きしめて。
洗濯機の前で膝を抱えて、私は目を閉じる。
ギィ……ギッ……ギッ……
建てつけが悪いのだろうか、苦しそうな音を立てながら扉が開いた。やはり住宅街のコインランドリーというのは、結構需要があるらしい。うす目を開けると、主婦なのだろうか、飾り気のない女が、パンパンに膨らんだゴミ袋を抱えて入ってくるのが見えた。
「困っちゃいますよね」
女は全く困っていないような笑顔で、うずくまる私に話をふってきた。旅先でも人懐こく他人に話しかけるタイプなのかもしれない。いや、自分のことしか気にならないタイプというべきか。端からみればおかしな人であろう私に、いきなり世間話を振ってくるのだから。
「こんな夜に、大物を汚しちゃって。家の洗濯機じゃあ洗えないから、わざわざ運んできたんです。ああ疲れたあ」
女は今までも何回か利用したことがあるのだろう、テキパキとした動作で洗濯機に汚れ物を入れている。どうやら洗い物の大物とやらは、子ども用の布団らしい。妙にすえた臭いが鼻につく。
ゆらりと、あの陰気な子どもの姿が見えたような気がした。慌てて目をこする。気のせいだったのか、店の中にいるのは私と女の二人だけだ。それはそうだろう、こんな夜遅くに出歩く子どもなどいない。まして幼児ならなおさらだ。
膝を抱えたまま何と返事をしてよいのか黙って聞いていると、ふと女は私の鞄に目を留めた。女はぽつりと何かつぶやいた。
ーー手紙
かすかな声だったが、そう、聞こえた。実は私の鞄にはぐちゃぐちゃに手紙が詰め込まれていた。会社に届いたであろう、誤配達された郵便。かなり昔の消印のものまであるから、誰かがこっそり隠し持っていたものも入れられたのだろう。
それがどうしたのだろう、そもそもカバンの中にしまいこまれた手紙は、外からは全く見えないはずなのだ。それなのに、なぜその女はそれを知っているのか。疑問を覚えのろのろと顔をあげた私は、横っ面をいきなり平手打ちされて盛大に倒れこんだ。頬がジンジンとして、痛みよりも熱を感じた。
「何なの、その目は?! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ! そんな恨めしそうな顔をして、叩かれるお前が悪いんでしょう! 一緒にいるだけでイライラするのよ、どこか遠くに行ってよ、お願いだから!」
足をだんだんと鳴らしながら、女は髪をかきむしる。人懐こそうな笑顔など消え去り、みるみるうちに目がつり上がっていく。どこかで見たことのある顔。馴染み深い、般若のような女の顔。
「臭いのよ、あんた臭いのよ! だから洗濯機で洗ってやろうとしただけなのに、大騒ぎなんかして。犬と一緒で、泣きわめいて。無駄吠えしない分、犬のほうがマシよ! 」
女は私の胸ぐらを掴み、汚れた子ども用の布団と一緒に私の頭を洗濯機に押し込もうとする。ドラム式洗濯機なので奥行きはないはずなのに、なぜか私は深い穴に落とされたような気持ちになった。脳裏にちらつくのは、見上げた先にある薄笑いを浮かべた女の顔。やめて、蓋を閉めるのはやめて! 冷たい水が穴の中に流し込まれてくる……。
「ねえ、臭い、臭いの。臭い! 臭い! 臭い!!! ねえ、ほら自分で気づかないの? ほら、ほら!」
なぜだろう、女の力に圧倒され、私は体が動かない。金切声がキンキンと響いて、頭が痛い。私の体は今どうなっているのだろう? いくら小柄とはいえ、洗濯機の中に押し込められるほど、成人女性である私の体は小さくなどないというのに。
何とか横目でチラリと女の姿を見れば、むくむくと女が大きくなり、まるで巨人のように見上げるほどの高さになる。いや、違う、私が縮んでいるのだ。手も足もどんどん小さくなる。なぜだろう、ひどく気分が悪い。吐き気もする。ダメだ、考えるな! 思い出すな!
醜悪に顔を歪め、口が裂けているかのように大声を出す女の顔には馴染み深いものだ。憎々しげに私を睨みつける。視線だけで人を殺せるなら、このまま私を睨み殺してやると言わんばかりに。
それは、見れば見るほど私の母に似ていた。
ーーおかあさん、ごめんなさい。わるいこでごめんなさい。いいこになります。ごめんなさい。だからおうちにいれて。
ーーおふとんをよごしてごめんなさい。きもちわるくて、おえっしちゃったの。ごめんなさい。たたかないで
ーーおかあさん、おうちにいれて。くらいよ、さむいよ、こわいよ。ごめんなさい。おうちにかえりたいよ。
冷たい手足で必死でドアを叩く子ども。吐瀉物で汚してしまった薄いパジャマ姿のまま、暗い夜道にひとりっきり。他の家から漏れるオレンジ色の明かりはあんなにも暖かだというのに、なぜ自分の家はこんなに冴え冴えと冷たい光しか見えないのだろう。寒い、寒い、寒い……。
どうして忘れていたのだろう。
だから中学校も高校も全寮制を選び、大学も奨学金をもらって行ったのに。電話だけの付き合いしかもう何年もしていなくて、会社に入る時に書類にサインをもらったのが何年ぶりかの再会だったのに、面倒そうにあしらわれ傷ついたばかりだったというのに。なぜ、自分は帰りたいなどと考えたのだろう。
そもそも私に帰る家などあったのだろうか。私を待っていてくれる人がどこかにいただろうか。薄れ行く意識の中で、黙ってこちらを見つめる逆さまの子どもを見た気がした。