2.公園にて
キイ……キイ……キイ……
錆びついたブランコが、耳障りな音を立てて揺れていた。会社からほど近い、住宅街の中にポツンとある公園。ここが私のお昼ご飯の定位置である。猫の額ほどの小さな土地の中に、申し訳程度に置かれた小さな滑り台とブランコ。そのどちらもすっかり錆びてしまい、もとの色がわからないほどに赤茶けていた。私はそれを見ながら、これまたいつ壊れてもおかしくないような古びたベンチに座り、今日もコンビニ弁当を食べている。
部署に配属されてから一か月、会社の居心地は最悪の一言だった。
私が配属されたのは、営業一課。ただでさえ女性総合職が少ないこの会社の中で、今までここに配属された女性総合職はゼロ人という部署だ。歓迎会の初日、部長はタバコの煙をわざとのように吹きかけながら、全員の前でこう私に告げた。
「君がここに来た理由はね、他に引き取り手のある部署がなかったからだよ。鼻っ柱の強い有名大学出の、しかも院卒の女性なんて扱いにくくてしょうがないからね」
ふわり……ふわり……
目の前をちらつく紫煙が鬱陶しい。不動産屋の前でならともかく、直属の上司の前でハンカチで顔を覆うわけにもいかない。咳き込みそうになるのをぐっとこらえるが、気分の悪さでほんのりと目尻に涙が溜まった。それを見て勘違いしたのか、上司は満足そうに話を続けた。
別に有名大学と言っても、推薦で入ったものだから実力など伴っていない。大学で同じ授業をとった友人たちはそろいもそろって帰国子女ばかりで、私は必死になって勉強したにもかかわらずその授業の単位を落としてしまったくらいだ。院に進んだのも、もともとのきっかけは「なんとなくこの研究が面白い」といった程度のものなのだから。
「しかも、人事が決めた部屋を、お化けが出るからなんて訳のわからない理由で断ったりしたら、そりゃあ人事部の課長だって怒るさ。それに用もないのに男を三人も侍らせて、内見先に現れたそうじゃないか。これはしつけがいがある女がいるなと思ってね、ここの部署で引き取ったのだよ」
なんと、さらに部長の話を聞いてみれば、人事お墨付きの不動産屋というのは、この会社の役員と繋がりがある不動産屋だったらしい。そこで契約をすれば、役員の懐が潤うとか不動産屋に顔が立つとかあったのだろう。しかし私が勝手に違う不動産屋を通して、物件を契約してしまったがために人事部のメンツが丸つぶれになったらしい。担当者はさぞお怒りだったようだ。
そのため、人事は新入社員の所属部署を決める際に私の売り込みは一切せずに、「お化けが怖いと泣くメンヘラ女」「内見先に男を三人も連れ込むアバズレ女」という話をしていたそうだ。なんともみみっちい話だが、役員にゴマをするのも会社員の務めというのであれば、私が行ったことは言語道断というべきものだったのだろう。人事部の報復が妥当なものかは判断できないが。
ふわり……ふわり……
ああ、それにしてもタバコの煙が鬱陶しい。それに真横の部長の吐く息が気になって仕方ない。ヘビースモーカーなのだろう、独特のあの強い臭気。ああ、首筋に無精髭をこすりつけられるような気がして、背中がぞわりとする。気持ち悪い! 気持ち悪い! 今すぐこの場から逃げ出したいのをこらえて、私は唇を噛んで下を向いた。乾杯の音頭が聞こえたが、私は一体どんな顔をしていたのだろう。
飲み会でのハッタリかとも思った部長の言葉は、なるほど確かに他部署へも浸透していたようだった。社員食堂ですら利用できないのだから、これでも大手上場企業かと恐れ入ってしまう。ちなみに社員食堂を利用した時は、あの席は総務のだれそれさんが座る場所、この席は庶務のだれそれさんが座る場所と逐一断られ、最終的に食堂のメニューが売り切れるという有様だった。
私は強い日差しを遮る場所もないまま、ただ黙々と食事をする。むっとした草いきれの中で食べる食事にもだいぶ慣れた。ひそひそ言われることもないし、日焼け止めと虫除けさえ持っていればこの空間も気にならない。以前は食事中に同期のSNSを見ていたが、それももうやめてしまった。皆配属部署の先輩たちと一緒に食事に行っているようで、今日はどこどこの名物を食べたなどという写真付きの日記が妙に癇に障ったのだ。それに誰も知らないだろうが、ここには私のお仲間がいる。
キイ……キイ……キイ……
ブランコの音が不意に止んだ。カサカサカサとブランコの周りの芝生が揺れる。いつものように、痩せた顔色の悪い子どもが私を見つめていた。溌剌さのかけらもない陰気な子ども。私がこの公園に来ると、この子どもはいつもブランコに乗っていた。死んだ魚のような濁った目をした子どもに、なぜだか私は親しみを感じた。子どもがいない私にはわからないが、一人で出歩くような年齢には見えない。声をかけても何も答えない。ただいつも、子どもが私の弁当をじっと見るのが気になっていて、ある時からコンビニでその子の分のおにぎりを買っていくようになった。
子どもは決して私の前ではおにぎりに口をつけない。だから私も無理に話しかけることはしない。ただ、帰り際に子どもに向かって手を振るだけだ。けれど翌日までおにぎりが残っていることはないし、ゴミ箱のない公園内に打ち捨てられているわけでもないので持って帰って食べているのだろう。
本当は児童相談所に通報すべき案件なのかもしれない。事実、ネットで相談した時にはそれを勧められたし、何もせずに気まぐれに昼食を与えていることを偽善だと叩かれた。けれど頑なに口を閉ざす子どものことをいきなり通報して、良い方向に進むとは思えなかった。だから今日も、居場所のない女と居場所のない子どもは、炎天下の中、二人で公園にいる。
てがみ……
いつも無表情の子どもが、微かに声を上げた。私はその言葉に反応して、バッグの中を漁る。そこには、朱書きの注意書きが書かれた郵便物があった。
私が勤める会社は、もとは新橋に本社ビルがあった会社だ。けれど、今はなぜか住宅街に本社を移転してしまっている。そのせいか、付近住民の郵便物が、会社に紛れ込むことがあるのだ。郵便局の方ももう少ししっかりお仕事をしていただきたいと、苦情を言いたくなるほどに。まあその間違い郵便物のすべてが、私の席に届いているのはおそらく社内の女性陣の一貫した嫌がらせなのだろう。
いっそ捨ててしまいたいほどの頻度で届くのだが、間違って届いた郵便物を勝手に捨てたり開封したりすると罪に問われることもあるのだそうだ。最悪、それによって生じた損害を賠償する羽目になることもあるらしい。
ちょうど食事も一区切りついたことだし、いつものように散歩がてらこの手紙はお届けすることにしよう。住所をアプリに入力してみて私は、しばし固まった。建物名が書かれていなかったので、気がつかなかったのだ。朱書きで大きく目立つ注意書きがなされたこの郵便物は、例の裏野ハイツ宛の手紙だった……。
一瞬固まった私の手からそっと手紙を取ると、子どもは手紙を公園の側溝に捨ててしまった。私は何も言えないまま、ただそれをじっと見ていた。