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帰りたい  作者: 石河 翠@11/12「縁談広告。お飾りの妻を募集いたします」


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1/6

1.内見にて

 じっとりと汗ばむ中、私は目の前のくたびれたスーツの男の説明に耳を傾けていた。いくら時間がないとはいえ、会社帰りに部屋の内見に来たのは失敗だったかもしれない。陽はもう落ちてしまったというのに、部屋の中にはいまだ熱気がこもっていた。じいじいと鳴く蝉の声が耳につく。


「駅にほど近いワンルームでこの価格はお手頃ですよ! ちょうど退去が決まったばかりなので、来週には入居できます! なあに、ハウスクリーニングをすれば見違えるようになりますよ!」


 何を興奮しているのか、私に唾がかかるような近さで不動産屋の男は熱心に説明してくる。だらしない長髪と、手入れのされていない無精髭が妙に目についた。はっきり言って生理的に好きになれないタイプだ。これ以上パーソナルスペースに侵入するのは遠慮していただきたい。


 入った瞬間にタバコの臭いが鼻につくこの部屋に、入居する気持ちなんて起きない。試しに壁に手を触れてみれば、一体どれだけの期間喫煙してきたのか、指にベタつきが残って慌てて手をハンカチでぬぐった。この部屋だけでなく、その前の家もそうだったが、よくもまあこんな物件ばかりという代物を相次いで紹介されている。やはり八月も間近なこんな中途半端な時期に、なかなかいい物件は残っていないのだろう。


 私は片手を上げて、男の説明を遮った。ハンカチで鼻を押さえていても、部屋に染み付いたタバコの臭いでくらくらしてくる。それにこの男の独特の体臭もあいまって、部屋の中の臭いは混沌としていた。これ以上、ヤニだらけの喫煙所もどきの部屋にいたくない。目の前の男はあからさまにため息をつき、次の物件が最後ですよとつぶやいた。


 私はカバンに突っ込んでいた内見先の物件情報を取り出した。ぞんざいに扱われていたコピー用紙はぐちゃぐちゃになっていたが、それでも建物の名前と間取りは確認できる。次の物件は、裏野ハイツか……。申し訳ないが、名前からしてパッとしないように思えた。もちろん、自分にセンスある建物の名付けなどできそうにもないことは十分承知の上での批判である。


 そもそもこんな時期に引っ越す羽目になったのは、私のせいではない。新入社員研修がようやく終わり、会社の同期と一緒に住んでいるマンスリーマンションを引き払う時になって初めて、人事から部屋を決めるように指定された。しかも、勤める会社の近辺限定で。


 その時になって気がついたのだが、同期の女性陣は実家が東京のため、研修中のみマンスリーマンションを利用していたらしい。男性陣には最近立て直したばかりの小綺麗な社員寮がある。区内で、駅近で、お家賃お手頃価格の物件なんてそうそう見つからない。しかも会社近辺に居住しなければならない理由が、突然の残業や出社命令にでも対応できるようにということなのだから、恨めしい。これではとんだブラック企業ではないか。さらに人事お墨付きの不動産屋がこんな調子だから、もうどうしようもない。


 部屋の外へ出ると、風があるおかげか気分が少しだけ楽になった。深呼吸をすれば、身体中の細胞に空気のうまさが染み渡る。試しにスーツの匂いを嗅いでみれば、残り香とは思えないほどタバコの臭いが染み付いていた。少し長めの髪にも、はっきりとその臭いを感じ取って私は内心苛つく。臭いのせいだろう、軽い吐き気とともにこめかみがじんじんと痛い。男の目も気にせず、フローラルの香りのヘアコロンをこれでもかと振りかけた。


 ピンポーン

 緊張感のない音が路地に響いた。


--内見終わった?

--飲み会間に合う?


 同期からのLINEだ。

 先日ようやく配属部署が発表されて、来週からみな全国各地にバラバラに配属になる。その前にうんと楽しもうと、連日飲み会の最中なのだ。今日の開催場所は、駅近くのビアガーデン。どうやら同期数名は、会社から腹ごなしがてら歩いて向かっているらしく、ちょうどこの近くにいるらしい。


ーー変な部屋ばっかり、見せられるんだよ。

ーー最初は宇宙基地、次はヤニ汚部屋、次はお化け屋敷かも。


 とりあえず、相手が食いつきそうな文面を送る。うまくいけば、次の内見には同期も一緒に来てくれるかもしれない。せめて最初から男手があれば、ここまでひどい物件ばかり紹介されずに済んだのかもしれないと予想したのだ。私は、胡散臭い不動産屋の男を横目にメッセージを送った。


ーーマジで?!

ーーリアルお化け屋敷かよ!

ー一緒に行っていい???


 案の定食いついてきた同期に、次の物件の住所を送る。住所は東京都〇〇区〇〇町……裏野ハイツっと。スマホアプリの高性能な地図がついている。迷子になることはないだろう。

 

 最初に見せられた部屋は、アパート周辺が一面宇宙基地のようだった。住人の自作メカに覆われたあの空間は、なるほど力作かもしれないが、まともとは言いがたい空間だった。そもそも公共スペースにそういうものを置くのはどうかと思うが、話が通じないらしい。おとなしい人だし、中に入れば外の景色は気にならないと言われたが、わざわざそういう住人の隣人を選ぶほどチャレンジ精神には溢れていない。


 それを断って見せてもらったのが先ほどの家だ。築浅という文面がかすむほどの汚部屋跡。しかも蓄積したヤニ臭は、どれだけハウスクリーニングをしたところで挽回できないだろう。今時、喫煙者でも自室内禁煙をする人もいるというのに、どうしたらあんなことになってしまうのか。大学周辺の物件だったから、溜まり場にでもなっていたのかもしれない。


 最後の物件である裏野ハイツは、今見せられていた部屋から歩いて十分ほどのところにあった。駅近くの商店街を通っていけるため、なかなか人通りも多い。これなら夜が遅くなっても、安心して歩いて帰れそうだ。けれど、今までの部屋の酷さから考えても、この次の部屋がごく普通の物件とはとても思えない。


 目的の裏野ハイツはすぐに見つかった。ヘラヘラした若い男三人組が、アパートの前の駐車場でライダーごっこをしているのだ。目立たない方がどうかしている。みな、私に気がつくとすぐに笑いながら手を振ってくれた。気の良い奴らだ。全員彼女持ちなので、余計に気楽にしゃべれていい。彼女のいない独身男ほど、勘違いしやすく面倒なのはなぜだろう。


 不動産屋の男は、ぞろぞろと現れた若い男たちを見て気分を害していたようだ。あからさまに舌打ちをしていたのだから、隠す気もないのだろう。家の住人はまだ誰も帰宅していないのか、騒々しい若者たちを注意することはなかったらしい。


 肩をいからせ、あからさまに不機嫌さをあらわにした男は、はたから見ても滑稽だった。そのままぶっきらぼうに二階に上がっていく。無造作に取り付けられた外階段は、雨が降ればびしょ濡れになってしまいそうだ。階段に明かりがないのもマイナスポイントだった。階段にあった蝉の死骸を踏みそうになり、すんでのところで悲鳴を飲み込む。


 階段からは小さな公園が見える。すぐ近くに公園があるせいか、先ほどの部屋よりも蝉の声がうるさい。夏とはいえもう陽がすっかり落ちてしまったというのに、小さな人影がひとつ、ブランコのそばで揺れていた。近頃ネットでよく聞く放置子というものだろうか、気にしすぎかもしれないが少し嫌なものを見た気分になる。


 二階の角部屋のドアを開けると、男はどうぞという代わりにあごをしゃくった。隣室の前を通る時に気付いたが、反対の角部屋の玄関の覗き窓からは温かいオレンジ色の光が漏れていた。お騒がせな友人の声がしっかり聞こえていたに違いない。申し訳ないことをした。隣の部屋の覗き窓は暗いままだ。一瞬こちらも在宅中だと思ったのだが。人の気配があるように感じたのは私の気のせいだったのだろう。


 不動産屋が開けてくれた内見先の玄関だったが、なぜか私も同期も中に入る気がしなかった。理由などない。ただ階段を上り終え、廊下の先のこの部屋の玄関を見た瞬間に、天啓のように「入ってはいけない」とそう思ったのだ。同期の男性陣を見ると、みな一様に気まずそうな顔をしている。やはり、この妙な居心地の悪さは勘違いではないようだ。単に不動産屋の機嫌の悪さに萎縮するほど、新卒社員は社会人経験が豊富ではない。はっきりと言えば、いい加減でお調子者な彼らがここまで静かになるのを、私はこの研修期間を通して初めて見た。


 けれど、ここまできて中に入らないとはどうしても言えなかった。何より中を見なくては、この部屋を断る理由も浮かばない。先に入った不動産屋は部屋の電気をつけて回っているらしい。残念ながら、内見先だというのにスリッパの用意もない。そっと靴を脱いで上がると、掃除をしていないのだろう、床に足跡が点々とつくのがわかった。


 部屋は特にこれといって特筆すべきところのないものだ。ベランダの狭さや、おかしなところにある作り付けの棚、なんとも言えない使い心地の台所など微妙ではあったが、まあ我慢できない範囲ではなかった。何より駅近の立地でこの家賃は、いくら古いとはいえ魅力的である。


 しかし、浴室を見た瞬間にそんな気持ちは吹き飛んだ。一気に鳥肌が立ち、ガタガタと寒気がする。どうしてこんな浴室にしてしまったのだろう、窓のない浴室は濃い紺色のタイルで天井から床までぐるりと覆われていた。どんよりとした圧迫感に襲われる。頼りない蛍光灯の明かりが、ぼんやりと浴室の小さく異様に深い湯船を照らし出していた。さらに、普通のワンルームの浴室にある鏡三枚分はゆうにあろうかというほどの大きな鏡が、顔色の悪い私の顔を映し出している。


 無理だ、この浴室は普通じゃない。


 後ろを振り返れば、しぶしぶ部屋に入ってきた愉快な三人組がじわりと後ずさりするのがわかった。小さく、これマジヤバイってという情けない話し声が聞こえてくる。泣きそうなのは私も一緒だ。しかしそんな私の手を掴み、不動産屋の男は浴室の使い心地の良さを饒舌に語り始めた。あげく、私に浴室の湯船の中に入ってみるように言う。中に入れば、使い心地の良さに気がつくと言って。お湯のない湯船に入るときの足の重さは、私の気持ちの重さだったのか、それとも……。


 内見を早々に済ませ、私と同期たちは飲み会で散々騒いだ。急に鳥肌が立ったとか、身体が重くなったとか、まるで厄払いのように盛大に飲み会にいる他の同期たちに話して見せた。全員が何か、得体の知れない気持ち悪さに襲われたというのだから、やはり何かある部屋だったに違いない。


 それに不動産屋の男が、帰り際に内見先の部屋のポストから無造作にゴミ箱に入れた手紙。よく見えなかったが宛名は女性名だったと思う。あれは前住人宛の郵便だったと思うのだが、区役所からの住民税の滞納のお知らせだと赤い字ではっきりと書いてあった。一体前の住人はどうしてしまったのだろうか。住民票の移動もせずにどこへ行ってしまったのだろう。思い出してみても、引っかかる部分がありすぎる部屋だ。


 結局私は、あれらの部屋のどこにも引っ越さなかった。人事推薦の不動産屋を通さずに、勝手に飛び込みで別の不動産屋を当たり、無難なワンルームの部屋を契約した。事後報告となった人事からは、かなりネチネチと言われたけれども背に腹は変えられない。何より小心者な私の心を後押ししたのは、尊敬している叔父の言葉だった。


 両親には一笑にふされ、叱りとばされた私の泣き言を、叔父は迷惑がらずにじっくりと聞いてくれた。支離滅裂になりそうな私の話を、電話の向こうで1時間にも渡って聞いてくれた叔父は、本当に神様のように優しい人だと思う。きっと電話の向こうでも、いつものように穏やかな笑顔をしていたに違いない。


「本当はお化けなんていないかもしれない。単に日当たりや立て付けが悪いだけかもしれない。けれど、そこに住んで鬱になって死んでも、誰も責任は取ってくれないんだから、納得できないなら住むのはやめなさい。それに僕は、そういう勘は信じた方が良いと思ってるよ」


 そう私に話す叔父は仕事柄たびたび色々な経験をしていたらしい。その言葉もあって、私は人事が推薦してくれた部屋を蹴り、自分で引っ越し先を決定した。サラリーマンの父は、人事の推薦した不動産屋を通さないなんてと呆れていたけれど、あの中から引っ越し先を決めるなんて、正気ではないと思ったから。


 その時は、それでもう終わりだと思っていた。

 変な家に引っ越さずに済んだと、飲み会で披露する笑い話のネタが出来たくらいにしか思っていなかったのだ。まさかこんなことになるなんて、想像もしていなかった。

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