お題『水』 500文字短編
◆ ◇ ◆
沈黙が続いていた。彼はパドルを漕ぐ手を止め、少し遠くを行くスワンボートに目を遣った。学生だろうか、初々しく微笑み合う若い男女が乗っているのが見える。釣られて微笑みそうになるが、再び彼に視線を戻すとそれは出来なくなった。彼は私を見ていない。
「そう言えば、昔、中学にさ」
ふと、彼が沈黙を破った。彼の目はあのスワンボートに向いたままだ。
「鴻巣って居たじゃん。女バスの」
「…うん」
「職場同じでさ。高校とか大学、何処行ってたか知らない?」
知ってるよ。私はそれを口には出さなかった。俯いて、首を振る。顔が引き攣っているのが自分でも分かる。
「…直接聞いてみたら?」
「そう、だな」
私達を乗せたボートは、ゆっくりと湖を漂っている。見た目は静かな湖でも、流れは想像以上にあるもので、漕ぐのを止めたボートは刻一刻と流されていく。気付いた頃には辺りが一変しているということも、だから不思議な話ではない。
――パドルを漕ぐのを止めたのは、私の方だったのかも知れない。頬を伝うものを手で覆い隠しながら、震える声で彼の名前を呟く。それでも彼は私を見遣ることはない。
岸に着くのと彼を失うのは、最早同義だった。