9. 火の海
煙草をふかしながらベンチにもたれていると、ひとりの男が公園にはいってきた。二輪式のリヤカーを引きながら時折止まり、なにかを探している様子だった。その男の姿にどことなく懐かしい暖かさを感じたぼくは、視線をそれに合わせたまま、キャリーケースを引きずって花壇の方へと向かった。日本人かもしれない。しかし、もし違っていたら。いや、そんな悠長なことは言ってられない。
「あの、すみません」
「・・・」
「日本人のかたですか?」
「・・・」
ちがったか。
体じゅうの穴から、冷たい空気が流れこんでくる。
日本人ではなく、アジア系の人なのだろうか。
「そうですけど・・・」
「あなたは?」
「っあ、ぼくは滝沢透といいます」
「三日ほど前に、この街に来ました」
よかった。同胞をみつけた。
ぼくの両肩から、不安という大きな岩がおりたような気がした。
「それで・・・ どんな用件ですか?」
「透くんだったね?」
「はい、実は・・・」
「つい先ほど、誰かに財布を盗まれたんです」
「それで、えっと・・・」
「警察と話がしたいのですが、英語で事情を説明する自信がなくて・・・」
「ペルシア語か英語、どちらか話せますか?」
イラン人みたいな顔立ちである。
歳は、父親と同じか少し上くらいだろうか。
「財布を盗まれたんですか、それはお気の毒に・・・」
「あいにくですが、私は日本語しか話せないのです」
「それに、見てのとおり・・・」
男性は額にしわを寄せて、リヤカーを指さした。
「私には、財産とよべるものはありません」
「そうですか・・・」
「・・・」
「財産はありませんが、寝るところならあります」
「え?」
「透くんさえよければ、どうぞ好きに使ってください」
「本当ですか?」
「はい」
「本当にいんですか?」
「ええ」
野宿だけはもう嫌だった。筆舌に尽くし難い恐怖と緊張。もう沢山だ。
ぼくは何度も頭をさげて、男性にお礼を言った。
「私のことは、陸と呼んでください」
「わかりました」
「お世話になります、陸さん」
「よろしくね、透くん」
そう言うと、陸さんは八重歯をみせるように笑い、リヤカーを引きはじめた。がしゃがしゃと鋭い音をたてるリヤカーには、銅線や鉄くず銅パイプなどが乱雑に重ねられている。見たところ陸さんは長い間テヘランに住んでいる様子なのだが、英語もろくに話せないという。ふと、冷静に考えてみると不自然な点が多すぎるのだが、自分の立場というやつを天秤にかけてみると、そんなことは些細な問題に思えてくるのだった。
「そういえば、透くんはなぜこの街に来たんですか?」
「それは・・・ 自分でもよくわからないんです」
「わからない?」
「はい・・・」
「すみません、答えになっていませんね」
外出禁止令が発令されたように、この街には人の気配がなく、ぼくたちのすぐうしろに黒い影がふたつあるだけだった。気がつくと、完全に知らない場所を歩いているようだったが、不思議と不安は感じなかった。
「それは、奇妙な話ですね」
「イランに来た理由がわからない・・・」
「理由がわからない以上、観光が目的っていう訳でもない・・・」
「・・・」
「もしかしたら、イランに何か期待していたのかもしれません」
さらに言葉を続ける。
「でも、それが一体なにを指しているのか自分でもよく分からないんです」
「なるほど・・・」
金属製のリヤカーを引きながら、陸さんはなにか考えているようだった。そのまるい背中には、何かしらぼくを安心させる不思議な雰囲気がやどっている。それは単純に日本人だからなのか、それとも陸さんだから安心するのか、今の時点ではわからない。
「透くんの話、おじさんには難しく聞こえます」
「・・・」
「今回の旅行は、自分探しみたいなものなんですか?」
「自分さがし・・・」
「というよりも、物語をさがしているんです」
「ものがたり?」
「はい、ぼくの物語です」
「んん・・・」
「すみません、ぼくって変ですよね? 自分でも思うんです」
手袋をはずし、ポケットから煙草をとりだす。
そっと肌寒い夜風が耳をなでる。
この寒さなら、雪が降っても納得がいくだろう。
「物語ですか、また難しい言葉を使いましたね」
「えっと、なんていうか・・・」
「何となくですが」
「透くんの言いたいこと、わかる気がします」
「ほんとですか?」
「ええ、言葉では表現できませんが、気持は伝わってきます」
「・・・」
「・・・」
「なんだか気持が楽になりました」
「そうですか」
「陸さんに話を聞いてもらったおかげです」
ぼくがこの話をするのは、陸さんで三人目だ。
ひとりは高校時代の親友。
そして、もうひとりは昔付き合っていた女性にしたことを覚えている。
「実は・・・」
「はい」
「もう長いこと、人と話をすることがありませんでした」
「・・・」
「もちろん、生活していくうえで必要最低限の会話はします」
「けれど、こうして真剣に話をする機会には恵まれませんでした」
「ぼくの話、退屈じゃないですか?」
「いいえ、とても暖かい気持になります」
「・・・」
なんとなく照れくさくなってしまい、視線を前方にむけた。
見わたせる範囲に人工の光はほとんどなく、町はずれといった感じである。
陰陰たるこの道も、陸さんにとっては普段どおりの帰り道なのだろう。
「陸さん、ひとつきいてもいいですか?」
「どうぞ、何でもきいてください」
「なぜ、イランで暮らしているんですか?」
「・・・」
「透くん」
「はい」
「家に着きました」
「っあ、こちらですか」
陸さんはブロック塀の前にリヤカーをおろし、ふうと溜息をついた。
「話の続きは、あたたかい部屋の中でしましょうか」
「そうですね」
建物にはいり、陸さんの背中を追うように折れ階段をあがった。薄暗く視界は悪かったのだが、貧困層が暮らしているようなアパートであることはわかった。
陸さんは三階の奥にある一室の前でとまり、そっと薄いアルミ扉をあける。
どうやら、鍵はついていないようだ。
「すまないね、透くん」
「え、なにがですか?」
「今の私にはこの暮らしが限界なんです」
「いえ、そんな・・・」
「陸さんと公園で出会わなければ、今頃どうなっていたか・・・」
「本当に、陸さんには感謝しています」
「そうですか」
「っさ、どうぞあがってください」
「失礼します」
瓶が散乱したコルクの床に荷物をおろし、コートを膝にかけた。
部屋に窓はなく、天井には白熱電球が裸のままぶらさがっている。
家電類も見あたらない。
ここはまるで、退院したあとの病室みたいな空間である。
「すぐに暖かくなりますから、煙草でも吸っていてください」
そう言うと、陸さんは石油ストーブに灯油を流しこんで点火した。
ごおごお、ごおごお、燃焼室に空気が送られる音が部屋にこもる。
「ありがとうございます」
「なにからなにまで、親切にしていただいて」
「どうか、気にしないでください」
「私が好きでやっていることですから」
「・・・はい」
ぼくは煙草に火をつけて、大きく深呼吸した。
吐きだした煙を扇風機のようなファンに吸わせる。
耐熱ガラスの覗き窓からは、赤く波のようにうねる炎がみえるのだった。
それは本当に赤い海のようで、やけに不気味に感じられた。
「透くんを見ていると・・・」
「なんだか、遠い昔の自分をそのまま見ている気がするんです」
「昔の自分ですか?」
「・・・」
「陸さん」
「さっきも質問しましたが、どうしてイランで暮らしているんですか?」
「そうですねえ・・・」
「私は、四十歳の時に妻と離婚しているんです」
「イランには、観光目的で来ました」
「たぶん、気分転換のつもりだったのでしょう」
何も言わずに、ぼくはあいづちをうった。
「けれども、透くんの話を聞いて改めて思いました」
「私も透くんのいう、物語を探していたのかもしれません・・・」
「・・・」
「・・・」
ふと、陸さんは立ちあがり、夕食の支度をはじめた。
がさがさと、ビニール袋の擦れる音がきこえる。
ぼくは、覗き窓からみえる赤い炎に見とれていた。
ここにいるぼくという人間は、もしかすると本当の自分ではないのかもしれない。小さな歪みは日ごとに肥大化し、確実にぼくをこの世界から遠ざけようとしている。透明な耐熱ガラスをあけて、氷結した不安を火の海にくべてしまえれば、どんなに幸せなことだろうか。