8. 黒い魔物
目が覚めるとふたりの姿が見あたらなかったが、正直べつにどうでもよかった。ぼくはビニールクロスの天井を眺めながら、昨日見かけた赤い瞳の女性に想いを馳せていた。今なら何となく理解できるような気がする、ぼくたちは出会うべき存在なのかもしれない。時間が停止したあの瞬間から、彼女は少なくともぼくの人生に干渉している。一方的な考え方ではあるがそれは紛れもない事実であり、いまぼくがこうして彼女について考えているということがその証拠である。もしかすると、彼女がぼくの物語なのかもしれない。
シーツのしわを伸ばし、冷たい水で顔を洗う。鏡に付着した水垢を手のうらでこすり、なんとなく自分の顔を見つめてみた。さえない顔である。あなたみたいなタイプの人間って、何歳なのか分かりにくいのよね。ぜんぜん変わってないね、うけるんだけど。短髪とか、絶対似合わないっしょ。二枚目でもないし、ぶさいくでもないし、まあ普通なんじゃない。そうだろ、わかるよ、ぼくだってこの顔すきじゃないんだ。
木製のドアをあけて、朝食をとるため螺旋階段をおりた。足を動かすたびにぎしぎしとうなりを発し、とげが刺さりそうな古い階段である。たしか朝食は宿泊料金に含まれていたような気がしたのだが、もしぼくの勘違いならば追加料金を支払うまでのこと。真横に視線をやると、小花模様のスカーフを巻いた女性がなにやら嬉しそうな様子で誰かと電話しているのが見えた。フロントの女性は、彼女の他にも何人かいるみたいだった。
ガラスがはめこまれた扉を開けると、開襟シャツを着た男性が食器を丁寧に並べているところだった。おはようこんにちは、と男性の背中に挨拶すると、彼は両手を大きくひろげ自由席であることをぼくに伝えた。窓際の席に腰をおろすと、観光客と思しき老夫婦がすでに食事をおえて談笑していた。献立表というかメニューが見あたらないのだけれど、まあ、待っていればそのうちに男性が運んでくれるのだろう。
珈琲の香りとともに、ナーンとチーズらしき食べ物がテーブルにならんだ。ナーンはぼくが大学生の頃に愛用していた皮の手帳よりも大きかったため、時間をかけて少しずつちぎって食べることにした。老夫婦が席をたつと、シャツを着た男性は黙々と食器を片づけ、そのまま厨房の奥へと消えていった。両手を使ってナーンを食べていると、日本から遠く離れたことを実感するのだった。あのすみません、これっておかわり自由ですか、っていうか無料ですか。と、英語ではなせたらいいなあと思いながら食堂をあとにした。
部屋にもどり両開きの窓を開けて、昨日とおなじ風に煙草をくわえた。灰皿には二日分の吸いがらが散乱し、まるで使い捨てられたネジ山のような外観であった。ぼくはマルボロの煙をふかく吸いこみながら、テヘランという異国の景色をながめた。うっすらと雪化粧をしたアルボルズ山脈は素晴らしく幻想的なものであったが、しかし同時にぼくをこの世界に閉じ込めようとする門番のようにも見えるのだった。
そういえば。突然思いだしたように、机のうえにあるガイドブックを開いた。なるほど、どうやら遠くに見える例の巨大な逆Y字の白塔は、テヘランのランドマークであり観光名所のようだった。はからずも今日の予定が決まったぼくは、これまでの遅れを取りもどそうと早速チェックアウトの準備にとりかかった。
ホテルをでると、昨日ほど寒くは感じなかった。鼻で思いきり空気を吸っても全然ひりひりしないし、いやむしろテヘラン市内でマフラーを巻いているのは、ぼくだけのようだった。それにしても、三日目ともなると自分がこの街に慣れてきたことを強く実感する。なにより商品の値段がだいたい分かること、これである。あと一ヵ月も滞在すれば、地元の人間と世間話くらいはできそうな気さえしてきた。ぼくは上機嫌のままキャリーケースを引き、イラン人よろしく胸を張って歩き『アーザーディー・タワー』を目指した。
四十分くらい歩くと、どうやら道に迷ってしまったことに気がついた。今さらだけど、テヘランの街並みはあまり変化がなく、目印になるような建物が少ないことにも気がついた。大通りに目をやると白いタクシーが行き交っているのが見えたのだが、日本の交通ルールでは考えられないほど大勢の人が乗り合う奇妙な状況だったため、別の方法を考えることにした。
ガイドブックを持って白塔までの道を尋ねるという手段もあったのだが、英会話に自信がなかったため、しかたなく黄色のバスに乗車することにした。ガイドブックいわく運賃は均一『2.000Rls』らしく、三十分程度で目的地に到着するとのこと。ぼくはうしろから二番目の席に腰をおろし、キャリーケースのハンドルを握りながら目をつむり、このバスが目的地まで行くことをなんども祈った。
バスが出発して間もなく、にわかに前方から鉄槍のような視線がとんできた。完全にぼくの方を見ている。なに、なんで、どうして、とあれこれ考えていると突然ネルシャツを着た男性があらあらしく大声で叫び、手振りでこっちへくるように合図した。ぼくは理由も分からないまま、怖ず怖ずと前方のシートに移動した。そのとき誰かが鼻でわらった。もしかすると、後方の席は日本でいうところの女性専用席なのかもしれない。たとえそうだとしても、公共の場であそこまで怒鳴る必要があったのだろうか。この気まずい雰囲気、どうしろっていうんだ。
バスは事務的に乗客たちを運んでいく。運転手は黙々とハンドルをきり、決められたルートを普段どおりに走行する。見たところ車内に路線図らしきものは見あたらず、このバスが一体どこへ向かっているのか皆目見当がつかない。もしかすると、例の白塔とはまったく逆の方向を進んでいるのかもしれないし、それどころか空港に向かっている可能性すら考えられた。バスに乗っている時間が長ければ長いほど目的地から遠ざかり、それだけ傷口がひろがっていく。そんな想像を一度はじめると、恐怖という情念はウイルスのように増殖していくのだった。
鉄槍のような冷たい視線と、知らない場所へ運ばれるかもしれない恐怖に耐えられず、ぼくはバスを降りることにした。そばにあった石段に腰をおろし、とりあえず煙草に火をつける。まったく、なんでこんなことに。どこですか、一体ここはどこなんですか。朝食のナーンは消化されたらしく、無性にお腹が空いてきた。
十分くらい歩道をとぼとぼ歩いていると、運よくレストランのような店を見つけた。看板には前にもどこかで見たような、指導者らしき人物が描かれている。ケースを両手で持ちながら店内へ入ると、この店はレストランではなく紅茶屋だということが分かった。旅行初日からあわただしく日本のことなどすっかり忘れていたが、ぼくは家族に土産を買って帰らなくてはいけなかったのだ。
壁には色どりが良い紅茶の箱が敷き詰められていて、それらはグラム単位から買えるようだった。カストロ大統領のようなラウンド髭を生やした男性は、これがいいよ絶対これだよ、という具合にエヴァーグリーンの箱を勧めてくれた。これ以上時間を無駄に使いたくなかったぼくは、彼の親切を受けいれ、グリーンの箱を手にとってレジへと向かった。
財布を取りだそうとリュックを手で抱えファスナーを開けようとしたのだが、ファスナーはすでに開いていた。開いていた。開いてるし。開いてるよ。っえ。っえ。っえ。凍えた手で心臓を握られたみたいに、ぼくの血液はあっと驚く間に冷水へと変わっていく。目の前に立っている男性の姿がぐんにゃりと歪んで見え、地面に立っている感覚がなかった。手が震えている。震えている。ぼくはよろめきながら出口に向かい外にでた。
まずい。これはまずい。非常にまずい。公園のベンチにすわり、原因について考えてみる。バスに乗っていた男性か、それとも女性か、最後に財布を出したのは運賃を支払ったときだった。ふと思いだしたようにリュックを開け、財布以外は無事なことを確認する。震えはとまらない。これは、非常に最悪の事態である。
すべてのカード類を早急にとめる必要があったのだが、ぼくの脳は完全に思考停止していた。膨大な情報と湧きあがってくる負の感情を処理しきれず、前頭葉が今にも溶けだしてしまいそうだった。だれが、一体だれがこんなひどい仕打ちを。公園にいる人びとの視線が、無垢な子どもを狙う不審者のように見えてきた。被害妄想じみた想像をはじめると、この公園にいる全員が共犯者に思えてくるのだった。
日はじりじりと沈み、あたりは少しずつ暗くなっていく。まるで黒い魔物がその両腕をのばし、太陽を地下の世界へと引きずっているみたいだった。焦る気持をまぎらわそうと煙草をふかしたその瞬間、何者かがこちらへと近づいてくるのがわかった。そいつは、鉄の足錠をかけられた奴隷のように、ゆっくりと時間をかけてぼくのベンチへと近づいてくるのだった。
「よお、透」
「・・・」
「俺だよ! 啓太だよ」
「なんだ、啓太か。 脅かさないでくれよ」
「そっちが勝手に驚いたんだろ! ったくよお」
啓太は疲れた表情をにじませて、どすんとぼくの隣に腰をおろした。
「なあ啓太、まずいんだよ。 さっきバスに乗ってたら・・・」
「盗まれたんだろ?」
「っえ?」
「財布だよ、財布!」
「どうして・・・」
「あのなあ、何度も何度も言わせるなよ!」
「・・・」
「それより、これからどおすんだよ!」
「わからない。 いま、考えてる」
「今夜の宿は?」
「・・・」
「また野宿かよ」
「・・・」
「食事は?」
「だからさあ、いま考えてるとこなんだよ」
「あっそう」
煙草に火をつける。
ベンチに座ってから、ぼくは何本吸ったのだろうか。
「俺にいい考えがあるぜ!」
「なんだ? 教えてくれ」
「日本のことなんか忘れて、イランに住めばいんじゃねえか?」
「っは?」
「だから、すべてをやり直すんだよ」
「・・・」
「お前が探してる物語だって、きっとこの国のどこかに・・・」
「やめてくれ。 頼むよ、もっと現実的に考えてくれないか」
「なんだよ! 真剣に考えてんだろ」
「どこが? もういいから、どっかいけよ」
「へいへい。 あとで後悔すんなよ!」
「いいから早くいけよ」
「・・・」
ああ、畜生。畜生。畜生。
ぼくの神は一体どこでなにをしている。
まだ名前がないのなら、悪魔と呼んでやるぞ。
すでに太陽は地下に閉じこめられ、暗闇という魔物があたりを包みこんでいた。