7. 漆黒の宇宙
キャリーケースを引きずる音に気がついたらしく、受付の女性はテレビの音量をさげ軽く首をたれて一礼した。ぼくは不完全なたどたどしい英単語を出鱈目にならべ、宿泊したいことをひっしに伝えると、大判のスカーフを巻いた女性は理解してくれたらしく、同意書のような紙を机にのせてサインをするように促した。
べつにシングルでもよかったのだけれど、たいして値段も変わらないらしくそれならばと、ツインベッドの部屋に泊まることにした。光沢のあるパンフレットには『ホテル・フィールーゼ』と書かれ、質素な地図までついている。
部屋にはいるとフリルのついた橙色のカーテンを正面に、ベッドがふたつ背筋をしゃんと伸ばしてならんでいた。荷物を右側のベッドに寄せて、とりあえずシャワーを浴びることにする。二日ぶりのシャワーはなんとも心地よく、ぼくの体は乾燥した米粉パンのように水分を吸収した。
生乾きのまま両開きの窓を開けて、とりだした煙草に火をつけた。ふううっと、風が額をかすめる。建設中の建物がいくつも並んでいて、ビルの向こうにはアルボルズの乾いた山肌が見える。白い煙がテヘランの空へと昇っていく様子を、ぼくは時間をかけてのんびりながめた。宿がとれて安心したのだろうか、今までにないほど気持が高ぶっていた。まるで敵城を占領した軍人みたいに、ぼくの体からは全能感がとめどもなく溢れでてくるのだった。
かくして予定は大幅に狂い、ホテルを出ると陽は沈みかけていた。当初の予定では、テヘラン観光は今日一日で済ませるはずだったのだが、この調子では最低でもあと二日はかかりそうな雰囲気である。
舗装された道を西へ歩きながら、行き交う人々の様子を観察した。テヘランの人々は、楽しそうに友人や家族と会話している。残念ながら話の内容を理解することはできなかったが、それでも表情を見ればなんとなく伝わってくる。動きのある笑顔に真っ白な歯。日本という遠い世界からきたぼくよりも、ここにいる人たちは楽しそうにしている。
ふと、向かいの通りにライトアップされたショーウィンドウを見つけた。ショーウィンドウにはマネキンが六体、それぞれ個性的なポーズを披露している。色の違うスカーフを巻いたマネキンたちは、なぜだろう十五年前の女性誌を彷彿させる。しばらく歩いていると、道行く人たちが物珍しそうにぼくの方を見ていることに気がついた。地元の商店街にイラン人らしき風貌の男性がてくてく歩いていたら、ぼくだってじろじろ見てしまうだろう。たぶん、同じことだと思う。
裏道にはいると、にわかに肉類を焼いたような芳ばしい匂いが鼻をぬけた。迷わず扉をあけてみたのだが、なかには客の姿はもとよりぼくを出迎えてくれる人間すらいない。まさかの準備中か、と不快な感情をもてあそんでいると、奥のドアが開きVネックセーターを着た男性がテーブルの埃を素早く手で払い、どうぞとぼくに座るよう合図した。
注文してから、ものの五分で料理が運ばれてきた。今回は値段ではなくて、料理名がそれぞれ長い順番に注文してみた。主人はぼくに何かを説明し、円盤状のカッターで四等分に切り分けてくれた。不格好にならんだピザとハンバーガーから推測すると、この店は一般的にファストフードと呼ばれるそれであり、おせじにも地域固有の伝統料理とは言えないしろものであった。
べつの店にすればよかった。食事をすませた後になって悔いるその姿に同情の余地はなく、あのとき客がひとりもいなかった時点でどうして店を出なかったのか、という後悔の念をずるずると引きずりながら、明日は絶対にちゃんとした店を選ぼうと子どもじみた誓いをたてるのだった。
そんなことを考えていると無性にビールが飲みたくなったのだけれど、この街で酒類を目にしたことはなかったし、それに万一だれかに見つかりでもしたら、イスラムの教えに反するとかなんとか言って投獄されかねないし、とにかくこの国では我慢するしかないという結論にいたる。
小道から大通りにでると、急に交通量が増えてなにやら騒がしくなった。古い車や新しい車は途絶えることなく何処かへ向かっている。みなそれぞれに帰る場所があり、待っている人がいるのだろう。ぼくは、歩道を歩きながらたくさんのことを考えた。
ヴァナク広場までくると、ホテルまではちょうど五分といったところだ。広場には大小さまざまな屋台がならび、地元の人々で賑わっている。見たところ、観光客はぼくだけのようだった。黄色いアルミチェアが二列にならび、屋台のまえに人が群がるように集まっているのが見える。天井にはバナナやオレンジ、それに見たことのない果実が吊され、いくつものガラス製ミキサーが置かれていた。どうやらイランの人たちには、フルーツジュースが人気のようだった。
ぼくはブラックベリーを注文し、くず箱から近いひとり用の席に腰をおろした。値段は『2.000Rls』硬貨一枚で、日本円にすると十五円くらいだろうか。この国へきてまだ二日目だったが、イランの値段表記にもだいぶ慣れてきた感じである。いつの日にか全財産をもってイランにくれば、若い家政婦を三人くらい抱えて優雅な生活をおくれるかもしれない。
みるともなく辺りを見まわし、ぼくはひとりひとりの表情に視線を移していった。真剣な面持ちで話をしている夫婦や立ち話をする老人、みなそれぞれにテヘランの夜をすごしている。
突如として、自分の体内から液体のような『何か』が地面に流れ落ちるのを感じた。この広場のなかで、まるでぼくだけが別の時間軸のうえにぽつんと座っているような気がする。それは無人島にひとりでいる孤独とは種類がことなり、言ってみれば人が大勢いるのに孤独を感じてしまうという矛盾をはらんだ孤独であった。ここにいる人たちはみな他人であり、人がいるからこそぼくは孤独なのかもしれない。
ガッチャ。ルームプレートを確認し、木製のドアを開ける。手さぐりで照明のスイッチにふれると、そこにはうつ伏せで休んでいる亜紀子の姿があった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「いつからここにいたんだい?」
「十五分くらい前です」
「そう・・・」
「本音を言えば、来るつもりはありませんでした」
お釈迦様の寝姿のように肘を立て、横になりながらぼくをみている。
「じゃあ、なぜこの部屋にきたんだい?」
「なぜですって?」
「・・・」
「私がここへ来た理由は、透さんが誰よりも知っているはずです」
「違いますか?」
首をかしげ、亜紀子はぼくをにらんだ。
「さあね、知らないよ」
「それより、啓太は一緒じゃないのかい?」
「啓太さんなら、あとから来ると思います」
「やっぱりくるのか・・・」
ぼくはコートを脱ぎ捨て、両開きの窓を開けて巻紙に火をつけた。
ホテルは、まるで洞窟のように静かだった。
市街地から少し離れたところにあるせいだろうか。
「ところで透さん」
「ん?」
「明日の予定は立てましたか?」
「南方にあるシーラーズへ行く予定だったんだけど・・・」
「けど?」
「ここが気にいってね、もう少し滞在しようと思うんだ」
いっそのこと、テヘランに一週間滞在するというのも悪くない。
「そうですか・・・ 確かにテヘランは素敵な街ですね」
「でしょ?」
「けれども、素敵な街は他にもたくさんあると思います」
「・・・」
「ここだけに拘泥しなくてもよいのではないですか?」
「ああ、わかっているよ」
だんだん亜紀子の口調が尋問じみてきた。
まるで口うるさい秘書のようだ。
「もう少し観光したら、他の街も見に行こう」
「それでいいか?」
「ええ、それなら結構です」
「よかった」
「私は透さんが寝るまでここにおりますが、お気になさらずに」
「亜紀子の好きにすればいい」
「ぼくはもう寝るよ。 明日も早いからね」
すぐうしろの方で啓太の気配がする。
今日はぼくではなく、亜紀子に用があるのだろう。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
漆黒の宇宙を振りかえると、海王星は丸い青雲のように浮かんでいた。やや紫みを帯びた深い青色である。よくみるとそれはまるで、陸地を失った群青色の地球のようにも見える。太陽から遠く離れているせいか、何人たりとも寄せ付けない冷たい空気が伝わってくる。ここは暗い。黒色と言えるのだろうか、いや多分ぼくはこの黒を知らない。おそらく、色じゃない。底なしの闇。果てしなくひろがる悠久の宇宙に、ひとり立ちすくむようにぼくは浮かんでいた。