6. 秒という物理単位
宿をとり忘れていたことに気がついたのは、テヘラン市から約五十キロメートルのところにあるエマーム・ホメイニー国際空港をでたときだった。観光や土産、旅の準備に気をとられ、予約はおろか見当すらついていないこの状況に愕然とする。ああ、わらってくれ。誰でもいい、こんなぼくを嗤ってくれ。愚かしいなんて言い方では、まったく形容が追いつかない。
振りかえると、寒空のした三色の横帯から成る国旗が夜風に吹かれ、まるでぼくを威嚇している風にも、またドブ川のように考えが浅い異邦人を見さげて馬鹿にしているかのようにもみえるのだった。ふと、腕時計に目をやると午前四時のあたりを示していたが、もはや時間の感覚なんてあるわけがなく、ただただ焦るばかりであった。
エアポートタクシーの運転手がちらちらと目で合図をしてきたが、そこはかとなく怪しい感じがして、とりあえず歩きながら別のタクシーを探すことにした。宿をさがすためガイドブックをめくってみたが、不安と恐怖のせいで文字がまったく頭に入らず、ぱらぱらと紙のこすれ合う音だけが虚しくイランの夜空に響くのだった。
テヘラン市内の写真がのっているページを中指ではさみ、手編み風のニット帽をかぶった運転手に声をかけてみた。ガイドブックを突きつけながら目的地を告げると、なにやら料金について説明している様子だったが、どうせぼくには理解できないだろうと悟り、いえすいえすと了解したことを手振りで男性につたえ車を出してもらった。
窓から見える景色は素朴としか言いようがなくて、埼玉の田舎道か、どこかの有料道路を運転しているような感覚に近かった。どこまでもどこまでも変化なく平凡に過ぎていく風景のさきには、テヘランの空が広がっているのだけれど、地下室のように薄暗い空は東京のそれとまったくおなじで、このまま永遠に陽が昇らないような気さえするのだった。
視線をそれとなく運転席へと滑らせ、黙々とハンドルを握っている男性を盗み見る。みたところ車内にメーターらしいものはなく、テヘランまでの料金は皆目見当がつかない状況である。黒いニット帽をかぶった運転手は、ぼくを約束通りテヘランまで運んでくれるのだろうか。考えてもみれば、わざと遠回りをして通常ではありえない料金を請求してくる可能性だってあるし、最悪の場合、仲間が大勢いる場所へ拉致されて殺されたあとに身ぐるみはがされるなんてことにもなりかねない。
四十分が経過したころ、運転手は巨大な逆Y字の塔を指でさし、テヘランに到着したことをぼくに告げた。運転手は疲れた様子で窓に頬杖をつきながら、料金は『190.000Rls』だと説明した。あわてて白い封筒から札束をごっそり取りだして見慣れない紙幣にひとり動転していると、ニット帽をかぶった運転手が薄い緑色の紙幣を指さして教えてくれた。なんまい、なんまいと日本語でたずねると、三本指を立てたのでそれに従い三枚わたすと、男性は深深と頭をさげ丁寧に荷物までおろしてくれた。
テヘラン。ぼくはいま、テヘランにいる。
一服しながら、去っていくチーズ色のタクシーを見つめた。
ひとまず、東の方へ歩いてみる。
心なしか、キャリーケースは岩みたいにずっしりと重く、もしかすると『何か』が入っているのかもしれない。まばたきする水銀灯の青白い光に照らされて、恐怖と不安に苛まれながら宿をさがす。黒い影のようなものが姿を変形させながら、地面を這うようにしてぼくを追ってくる。
アルファべット表記の看板や標識は見当たらず、数字もアラビア表記だったため、現在地をガイドブックで確認することもできない。目のまえにある建物、これは一体ホテルなのかそれともマンションなのか、暗さも手伝って外観を見ただけでは判断できなかった。
人のすがたはほとんどなく、ときおり路地の方から現れたかと思うと、なにかに吸い込まれるみたいに裏路地へと消えていくのだった。人影のない街。あまりにシュールな光景である。この街の様子はまるで、ジョルジョ・デ・キリコの脳内を思わせるほど粛々としている。
ぼくは、一時間ちかく夜のテヘランをさまよっていた。その行為は、たとえようもないほどに孤独であった。ここは本当にテヘランなのか。もはや、それすらも怪しい。ここは一体どこなんだ。当初抱いていた観光という崇高なる目的は、もはや片隅にもなかった。
空腹を紛らわすため、ポケットから煙草を取りだし巻紙に火をつけた。テヘランの空は異常なまでに暗く、キャリーケースを引きずるごごごごという音が、眠っている邪悪な『何か』を起こしてしまいそうな気さえするのだった。
なだらかな丘を登っていくと、比較的新しい駐車場のようなスペースに出くわした。地面は丁寧に舗装されており、辺りに人の気配は感じられない。キャリーケースを端に寄せ、リュックからタオルを取りだして顔を拭いた。もう、歩きたくない。疲れたからという理由もあるが、それよりも単純にあるいは純粋に怖いからもう歩きたくない、というのが本当の気持ちであった。
おいしい食事も、安心して眠れる宿も、温かいシャワーも、なにもかもいらない。いま一番必要なもの、それはこの悪魔じみたテヘランとよばれる街を隅々まで照らしてくれる光、これである。
「おいおい! まさかここで寝るんじゃねえよな?」
「わるいか?」
「悪いかって、おまえ気は確かか?」
「しかたないだろ? こんな時間なんだし・・・」
「荷物はどうする? こんなとこで寝てたら盗られるぞ!」
「大丈夫、ただ休むだけだって」
結局のところ、啓太はイランまでついてきたようだ。
きっと亜紀子も近くにいるのだろう。それくらいぼくにだってわかる。
「なぁ透! ここは日本じゃねんだぞ?」
「わかってるさ」
「今も誰かが、お前さんの荷物を狙ってるかもしれねえ」
「馬鹿いうなよ」
「物語なんか忘れて、早く帰ろうぜ!」
「いやだね」
「あと六日、こんな夜が六日も続くのかと思うとぞっとする!」
石段に腰をおろし、なにやら啓太は落ち着かない様子だった。
「野宿は今回きりだから。 陽が昇ったら、宿を探しに行くよ」
「本当か?」
「ああ、約束する」
「・・・」
キャリーケースからモッズコートを取りだして、からだ全体をおおった。日本よりもいくぶん寒く感じたが、鉄筋コンクリートで覆われているため、耐えられない寒さではなかった。
啓太が言うように、誰かがぼくを見ている気がする。それはたぶん、夜空に瞬く星ぼしのロマンチックなまなざしなんかではなく、もっと現実的で動物的な何かである。遠くからぼくを見ているのか、それともすぐ近くにいるのか、それは分からない。外開き窓の隙間から、ぼくが眠りにつくのを息を殺して待っているのかもしれない。そうした想像をはじめると、恐怖は亡霊のようにつきまとうのだった。
当然といえば当然なのだが、けっきょく一睡もできないまま朝を迎えた。つぎからつぎへと恐怖心が生みだす人影のようなものに囲まれて、目を閉じることもできない有り様だった。それはそのまま、イラン旅行最悪の初日を迎えたことをあらわしていた。
空腹と寒さをこらえながらキャリーケースを引きずり、黙々と来た道を戻るように歩いた。屋外で夜をあかすという愚行において唯一の救いは、1Rlsたりともお金を使っていないということだろう。そう便宜的に解釈しておかないと、昨晩の失敗は失敗のまま宙づりになってしまうような気がした。
やっとの思いで例の街に戻り、そこでぼくは高層建築物を目の当たりにする。茶色を基調とした共同住宅や反射ガラス仕様のオフィスビルなど、夜の街並みからは想像もできない光景であった。まるで新世界である。ジョルジョ・デ・キリコの脳内を具現化した夜の世界は、一体どこへ消えたのだろうか。正直、ぼくは驚いている。朝と夜とでこのちがい。いかにも、この異国情緒のあるさまはガイドブックで見たテヘランに相違ない。
知っている場所についたことで多少気分がよくなったのだが、それもつかの間、氷のように冷たいテヘランの風にさらわれて、あとに残ったのは寝不足の眼がふたつだけだった。まあ無理もない、一晩中寝ないで貴重品の番をしていたのだから。
にぎやかな広場をぬけて北へ歩いてみたが、飲食店らしき建物は見当たらない。看板にはアラビア文字のような表記で書かれているため、それが一体なにを表しているのかまったく分からなかった。数分後、それらしき店のまえで立ち止まり、窓ごしに眺めて飲食できることを何度も確認してから店のなかへ入った。緑、白、赤の三色の横帯から成るオーニングが印象的である。
ドレスシャツを着た主人は、入り口から近い席へぼくを案内する。チャイハーネ風の装飾が施され、絨毯が敷いてある床のうえで食べることもできるようだった。二枚綴りのメニューを手にとり、迷わず一番高額な料理を注文した。英語も読めないぼくにとって、唯一の物差しは値段だけであり、それは、高いものはそれ相応によいものである、という社会の一部で受け入れられている常識をそのまま採用した安易な考えであることは言うまでもない。
さきほどから、黒いスカーフを着用した女性がしきりにぼくを見ている、ないし見ている気がする。白い髭を散らした男性も、ぼくの方を見てはなにか言いたそうな表情を浮かべるのだった。水をひと息に飲み干すと、顔を隠すようにメニューをひらいた。明らかに、ぼくに視線が集まっている。それらの眼差しを感じているぼくが言うのだから、それは気のせいでも考えすぎでもなく単純に見られているということなのだ。
シャツを着た主人は、二回にわけて料理を運んできた。ふんふんと鼻をひくつかせながら目の前にならんだ料理を観察し、それとなく写真をとってみた。メインディッシュの焼いた肉とトマト、バターライスにナーン、それらは絵に描いたようなイラン料理であった。食事の途中、スパイス風味の肉にライムを搾る食べ方を、主人は身振りを交えながら礼儀ただしく説明してくれた。
ナプキンで口を拭き、テーブルに伏せて置かれた紙を手にとり見た瞬間、思わず目がくらんだ『275.000Rls』。法外な請求かと思ったが、落ち着いてよくよく計算してみると、日本円にして二千円程度にすぎないという事実が判明する。うろたえるぼくの方を見て、主人は怪訝な表情を浮かべたが、照れ隠しに笑いながら礼を言い、逃げるように出口へとむかった。店内の視線たちはぼくという対象を失い、空中でちりぢりになって蒸発してゆくのだった。
店をでると、それなりに悪くない気分だった。頭上には、午前の陽ざしがぬくぬくと降りそそぎ、いくぶん寒さが緩んでいるようにも感じられた。朝食を地元のマクドナルドですませ、都内に住む友人とこれから遊びにいくような、そんな心もちになるのだった。啓太や亜紀子も、こんなときにはきっと現れないだろう。
論ずるまでもなく、まずは宿である。目指すは宿。巻紙に火をつけて、西へ行こうかそれとも東へ向かおうか考える。まえの通りには開店前の店が建ちならび、四人の男性が地面にひろげた新聞を囲むようにして読んでいる。
大通りを左へ曲がり向かいのホテルへ行こうとしたのだけれど、横断歩道には信号らしきものはなく、あきらめて通りすぎる車を眺めて待つことにした。自動車が交差する隙間から、ひとりの女性の視線を感じた。それは、甘いカクテルのような視線であった。その女性は全身を黒いチャドルで包み、首元を両手でおさえている。アーモンドの形をした彼女の瞳は、日差しの角度によっては、紅色に輝いて見えるのだった。ぼくの脳は外界を遮断し、彼女の瞳だけに焦点が絞られてゆく。
彼女が歩きだすと、それに呼応するようにぼくも歩きだす。すれ違う瞬間、秒という物理単位は圧縮され時間が止まったように感じた。条件反射のように振りかえると、彼女は何かを語るように優しく微笑んでいるのだった。ぼくは道路の真ん中で立ちすくんだまま、彼女の黒影みたいな後ろすがたを見続けていた。