5. 期待めいたもの
うしろを振りかえると、客室乗務員が二人でワゴンを引きながら食事を提供しているところだった。夜会巻き。うしろ髪の束をねじり上げたヘアスタイルを、たしかそんな風に呼ぶのだったと思う。去年の十二月あたりに、そんな特集をテレビで観た記憶がある。
今朝食べたチーズトーストは、もうとっくに消化された頃だろう。そう考えていると、お姉さんが食事を運んできてくれた。料理の内容は、あんかけ鶏肉とパン、ムースデザートに温野菜という品ぞろえだ。まあ味はともかくとして、このブロック状のパンは何だか不気味な感じがする。マーガリンを塗って食べてみると、どこにでもある小麦粉風味なのだが、スペースシャトルに積んだ非常食を思い起こさせる舌触りだった。
景気付けに一杯やろうと思ったのだけれど、振動と緊張で一体どんな酔いかたをするのか想像できなかったため、しかたなくコーヒーを注文し、テーブルの上に散乱したトレーが回収されるのを大人しく待つことにした。
ふと顔をあげると、機内モニターに搭乗機の航路が映し出されていることに気がついた。日本近隣の地形図を青い海が囲み、赤いラインは日本を出発してからまだ間もないことを示している。
今にして思えば、衝動買いのごとくチケットを購入したはいいが、ドイツで乗り継ぎをするという経路は、金額と時間の面から考えてベストと言える選択だったのだろうか。アマゾンで三百円くらいの短編小説を一冊購入する時と同じような感覚で買ってしまうとは、われながら阿呆である。
後部座席に目をやり誰もいないことを確認すると、ボタンを押しながらシートを限界まで倒した。目が覚めた時には、きっとドイツに到着しているだろう。あと少し、もう手の届くところまで来ている。機内には物音ひとつなく、ときおり機体がわずかに揺れた。
ッコォォォォ。
巨人が池の水をひといきで飲み干すような轟音で目が覚めた。トイレの前には背の高い男性が二人、ストレッチをしながら順番をまっている。からだを起こし窓の外を見てみると、いつの間にか太陽の姿はなく、赤錆びた山岳地帯の上空を飛行しているようだった。
客室乗務員も仮眠をとっているのだろうか。ここからだと薄暗くてなにも見えない。なんとなくカーテンの向こう側が気になったのだが、それよりも体の節々に極度の圧迫感を感じた。日本をたってから約十時間、家畜小屋めいた空間で同じ姿勢を強いられているわけだが、なるほどこの痛みの原因は恐ろしく狭い座席の構造にあったのか。
ぼくは、靴ひもを丁寧に結びなおして立ちあがり、トイレまでゆっくりと歩いた。ふと機内モニターを見上げると、飛行機の形をしたカーソルは、フランクフルトの上空を示していた。いよいよもうすぐである。
トイレから戻ると、カーテンの向こう側から客室乗務員が出入国カードを配り始めていた。出入国カードの範例を、あらかじめ『るるぶ(ドイツ)』コピーしていたおかけで、英語力ゼロのぼくでも比較的スムーズに書くことができた。シートベルト着用のサインが点灯し、巡航高度から徐々に降下していく。
「ようやくドイツに到着かあ!」
「疲れたかい?」
「疲れたよ! もう飛行機はごめんだぜ」
「じゃあ、悪いけどイランには連れていけないな」
「なあ、思いきってドイツ旅行に変更したらどうだ?」
「なぜ、そうなる?」
「気が変わったんだよ! 悪いか?」
と、啓太は言い放つ。毒々しい乱暴な言い方である。肉体という器すらないこの男に、一体何の権限があるというのだろう。
「物語はどうなるんだよ」
「物語? そんなのねえよ」
「ない?」
「ない、絶対にない! きっと亜紀子も同じことを言うだろうなぁ」
「なんで今の話に亜紀子がでてくる?」
「さあ、なんでかな」
「っていうか啓太、イラン旅行には賛成だったはずだろう?」
「最初はな! けど、いまは違う」
「・・・」
「聞いてんのか? 気が変わったんだよ!」
ぼくは、高慢ちきな啓太を無視した。少なくとも今は、言い争っている時ではない。
窓から見下ろすと、フランクフルト国際空港らしき施設が見えてきた。機体は、滑走路と並行する経路に進入している様子で、車輪は一定の速度を保ちながら、着実にぼくを運んでいる。長身の男性が立ち上がりデニムのジャケットに袖を通すと、それを合図とばかりに機内はざわつき急に騒がしくなった。
雪こそ降ってはいなかったが、ドイツは日本以上に寒く感じた。新鮮な空気よりも、とにかくいまは煙草が吸いたい。搭乗橋をわたり、ぼくは乗客の流れに身を任せることにした。日本人はみたところ、二人しか確認できない。言うまでもなく、ぼくは右も左もわからない。ここから先は、ロールプレイングゲームで言うところの、新しいステージになるわけだ。
天井に吊るされている案内標識は、目的地ごとによって矢印で区分けされているのだが、残念ながらぼくにはほとんど読むことができなかった。前を歩く白人の夫婦がそろって足を止めると、なにかの列に並び始めた。ぼくも足を止めて、なにも理解しないままその列に加わる。不安と緊張が心の底から雑草のように伸びてくるのがわかった。
先頭のアメリカ人らしき男性は、一言かるく挨拶を交わし、パスポートと搭乗券を差し出している様子である。ぼくは、その一連の動作を瞬きせずにじっと見つめた。その次の女性の時も、その次も、その次の次も目を皿のように大きくして見た。まるで少年が特撮ヒーローの決め技を完璧に覚えるように、ぼくは一連の流れを正確に把握した。
黄土色の制服を着たトム・ハンクス似の審査官が、目でこちらに来るように合図した。心の動揺を隠しながら、はろうという調子で微笑を浮かべ、カウンターに搭乗券を挟んだパスポートを置いた。
誰だって、自分の家に害虫が入ってこないように工夫するだろう。もちろん、ぼくだって網戸を閉めて、害虫の侵入を防いでいる。トム・ハンクスさん、どうか安心してくれないか?ぼくは、あなたの祖国に不利益や損害を与えたりするような野蛮な人間ではありません。なぜならば、ぼくの目的地はここではなく、イランなのだから。
念仏みたいな心の声が彼に届いたのかは分からないが、審査官はぼくに一瞥を投げかけ、旧式のセルフインカーで押印してくれた。やれやれ、トム・ハンクスさん、すごい威圧感ですね。あの様子からすると、自宅の引きだしに大切な感情を忘れてきたに相違ない。
パスポートをキャンパスリュックに丁寧にしまい、手荷物検査を受けるために直進する。ふと壁掛けのアンティーク時計に目を向けると、出発までは一時間を切っていた。なにか食べる物が欲しかったのだが、驚くほど人が並んでいたため、あきらめて喫煙所に入ることにした。
ポケットから煙草を取りだし、フィルターを咥え巻紙に火をつける。外の景色は綺麗な紺色に染められて、鶴のようなロゴマークが描かれた飛行機が待機していた。喫煙所はほとんど満席に近く、見た目では誰がどこの国の人なのかはわからない。ただ、ひとつだけ言えるとすれば、それはここにいる全員がぼくよりも流暢に英語を話すという事実だろう。
二本目の煙草を吸いはじめると、搭乗時間までは残り十五分程度だった。溜息まじりの白い煙を吐きだしながら、ひとりひとりを観察してみた。青いシングルカフスを付けた向かいの白人男性は、家族に会いに行くのだろうか。バックパックを背負った長髪の女性は、ひとりで旅行にきたのだろうか。みなそれぞれに、形の異なる物語をもっているのだろう。
搭乗口の前までくると、受付の女性を除いて誰もいなかった。ぼくは、電光掲示板を見上げ、『Tehran』の単語をなんども確認してから、受付の女性に搭乗券を挟んだパスポートを提示した。桜色の口紅を塗った女性は、なにやらぼくに軽い挨拶をした様子だったのだが、優しそうな人ということ以外、少しも理解することはできなかった。
機内に入ると空席が目立ち、ほとんどの乗客が眠っているようだった。自分の席に腰を下ろすと、靴を脱ぎその上にリュックを置いた。目線を前方にやると、白いストールを巻いた客室乗務員が救命胴衣について詳しく説明しているところだった。
さすがに疲れたな。シートを倒そうとしたのだけれど、まるで自分の体じゃないみたいに重く、加えて脳はフリーズした使えないパソコンのように止まってしまっていて、動く気力すらなくなっていた。
「透さん、起きていますか?」
「ああ、起きているよ」
「あまり、顔色がすぐれないようですが・・・」
「そんな風にみえるかい?」
ぼくは、ゆっくりと目をつむりながら小さな虫のように答える。
消え入りそうなぼくの声は、ちゃんと亜紀子に届いたのだろうか。
「ええ、そのようにみえます」
「そうかい・・・」
「テヘランに着くのを恐れているような、そんな表情にもみえます」
「・・・」
「まぁいいわ」
「私はどこへもいきませんから、ゆっくりお休みになってくださいね」
「ああ、悪いけどそうさせてもらうよ・・・」
気がつくと、機体は地面をはなれイランへ向かって順調に上昇していた。ぼくはなぜ、イランという国に惹かれたのだろうか。ふと、そんなことを真剣に考えてしまうのだった。イランのなにが、ぼくをここまでさせたのだろう。あそこに一体なにがある。得体の知れない何かに引っぱられながらも、心の奥底では期待めいたものが芽生えはじめているのだった。