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4. 透明な存在

 お湯の温度を四十四度に設定し、頭からいっきに熱いシャワーを浴びた。いつもより丁寧に顔を洗い、綿のタオルで体全体を洗いながら、頭のなかで今日一日の流れを簡単に整理してみた。

 アラームを五時に設定したのだが、それよりも十五分ほど早く目が覚めてしまった。おそらく脳の中枢で今朝五時に起きなければならない、ということが最優先事項として判断されたのだろう。

 夜明けまえの寒さと静寂が入り混じった廊下をしずしずと歩き、壁付きの照明スイッチにふれる。食パンを皿にのせ、ソーセージを二本分スライスして、とろけるチーズを用意して、普段どおりの分量と順番でこしらえたピザをオーブンにセットした。

 ジィィィィ。

 ニクロム線ヒーターがオレンジ色に発光し、チーズはパンに馴染むように溶けていく。ぼくは、その様子をかがみこむような格好でぼうっと見ていた。

「なんだか面倒になっちまったな!」

「いまさらなんだよ?」

「いやね、イランまでの道のりを改めて考えるとよ・・・」

家族が寝ているせいか、啓太はいくぶん静かな声だった。外の冷気が隙間から侵入するように、啓太はいつの間にかぼくのちかくに座っている。

「考えると?」

「憂鬱になっちまうのさ」

「嫌なら、ついてこなければいいじゃないか」

「別に、嫌とは言ってねえだろ?」

「いっそ、ここに残れば? ぼくはそれでも構わないよ」

「そんなの嫌だね」

「あのねえ・・・」

「なんだよ」

「いいや、やめとくよ」

「なんだよ!」

「後ではなそう。 今は時間がないんだ」

「まあ、それもそうだな」

 トーストを牛乳で流しこみ、ステンレスの流し台に皿を置いた。家のなかは、時間が止まったみたいに静かだったが、掛け時計は正常に時を刻み続けている。冷蔵庫に『旅行日程表』が貼られているのを確認したが、一応トイレのカレンダーにも帰国日を記入しておいた。

 キャリーケースを起こし、部屋のコンセントを全部引き抜いた。これで火事の心配は無用である。右手でドアノブを握ったまま、部屋のなかを見渡してみたが、枕がふたつ無造作に転がっているだけで、特に気にするようなことはなかった。

 さよなら。皆さん、いってきます。


 チェック柄のマフラーを首に巻き、最寄りの駅までゆっくりと歩いた。一週間分の荷物とあらゆる期待を食べて、ぶくぶくに太った鴨が息苦しそうにゴロゴロうなっている。目に映る街は厚い雲でおおわれ、太陽の姿はどこにもない。

 気がつくと、黒色のスーツを着た人たちのなかに、誰か知り合いがいないものかと懸命に探している自分がいた。駅の方角を目指して黙々と歩き続けている群衆のなかに、ひとりくらい知り合いがいるかもしれない、と意味も無く視線を泳がせながら鴨を引き連れて大股に歩いた。

 蒲田行きの電車に乗り込み、端っこの席に腰をおろす。車内はやけに静かである。まるでスーパー銭湯にそなえつけてある仮眠室みたいにしんとしていて、だれもが眠りの只中であった。なんとなく、ぼくはひとりひとりの寝顔をながめてみた。どれも、同じものに見える。

「ぼくだけは違う。 こいつらとは違う」

「っえ?」

「いま、そんな風に考えていませんでしたか?」

「べつに、思ってないよ」

「本当ですか?」

ぼくは、曖昧にうなずいた。  

「そうですか」

「・・・」

「透さん」

「なに?」

「自分が上だとする考え方は、すぐにでも変えるべきだと思います」

と、亜紀子は言った。

「べつに、見下しているわけじゃないさ」

「認めたくない気持ちはわかります」

「・・・」

「いつか、その肥大したプライドが身を滅ぼしますよ?」

「一体どこに、そんなプライドがあるって?」

「さあ、どこでしょう」

「まあいい、ぼくは寝る。 亜紀子、日暮里駅に着いたら起こしてくれないか?」

「わかりました・・・」


 日暮里から成田空港までの道のりは、一時間以上もかかった。食用豚のように太ったキャリーケースを引きずりながらの移動は、予想していたよりもはるかに体力を消耗し、認めたくはないが、啓太の言葉通り気がふさぎこんでしまった。

 三菱東京UFJ銀行で、三万円分をイランの通貨『リアルIRR』に両替してもらい、イランで著名な指導者らしき人物が印刷された紙幣を、数十枚もらった。紙幣には数字という数字がいっさい記入されておらず、金額が三万円分あるのか尋ねてみたかったのだけれど、後ろに並んでいる人たちのプレッシャーに負けてしまい諦めることにした。

 eチケットとパスポートを提示して、キャリーケースをゴム質のコンベアに乗せた。

 荷物はすぐに、ぼくの知らないどこかへと消えていった。

 キャンパスリュックを背負い、出国審査の列に並んだ。十一月の中旬に、海外へでかけるような人は僅かだろう。それにこの列のなかで、イランへ旅行する人は一体どれだけいるのだろうか。もしかすると、ぼくひとりだけなのかもしれない。

 チェックが終わりサテライトへでると、免税店で『マルボロ・メンソールBOX』を購入した。値段は通常の半額程度で、思わずツーカートン購入しようか迷ったのだが、荷物になってしまうことを考えてしぶしぶあきらめた。

 洋酒の試飲を勧める女性店員を微笑でかわし、お目当ての喫煙所に入る。買ったばかりのマルボロの外装フィルムをとり、一本取りだして巻紙に火をつけた。悪くない気分である。いや、上機嫌と表現を変えたほうが適切かもしれない。目的地がイランというだけで、隣で煙草を吸っているビジネスマン風の男性よりも、なにやら優れているような気がするのだった。

 束の間の禁煙にそなえ、ぼくは吸えるだけ煙草を吸った。


 パスポートと搭乗券を提示し、座席に案内してもらう。お姉さんはむんと胸をはり、ぐんぐん奥へと進んでいく。機内は快適な温度に保たれていて、二人用の席を一人で使っている人がほとんどであった。なかには、五人掛けのシート席を、一人で使っている幸運な乗客もいるようだ。

 座席に腰をおろし、おもむろに靴を脱いでガイドブックをひらいた。ついさきほど両替所で交換した、指導者らしき人物が印刷された紙幣をテーブルに並べてみる。ガイドブックによると、ぼくの持っている青色の紙幣は十万リアルで、黄色の紙幣は五万リアルになるみたいだ。硬貨は四種類しかなく、金額の低い紙幣には例の指導者らしき人物は印刷されていない。

 上棚が閉まっているか、幾何学模様のスカーフを巻いた客室乗務員が丁寧かつ素早く確認していく。彼女は器用に乗客をすり抜け、全ての上棚を確認するとカーテンの奥へと消えていった。ぼくは、その様子を見とどけてから再びガイドブックに視線をおとした。

 イランには、はっきりとした四季があるらしく現地の気温は、東京とほとんど差はないようだ。昨日まで着ていた冬物衣料を、入るだけキャリーケースに詰めこんだし、心配する必要はないだろう。最大の問題は飲酒が固く禁じられていることだが、しかし実際のところ、輸入酒の一本や二本くらい容易に入手できるかもしれない。

 そんな淡い期待をよそに、ゆっくりと窓の景色が動きはじめる。高校時代、卒業旅行に沖縄へ行って以来、飛行機に乗った記憶がなかった。エンジンの推力が上がるたびに、ぼくの心拍数もはげしく上昇していった。 

 仕事を辞めて、まさかイラン旅行へ行くことになるなんて夢にも思わなかった。就職活動がうまくいかなかったのか、それとも受験勉強も含めて大学選びに失敗したのか、あるいは根本的な選択をどこかで間違えたのかもしれない。

 滑走がはじまるとエンジン音はさらに重くなり、補助翼が振動で大きく揺れている。機首が上がると、地面から機体が離れたことがわかった。機内は異常にガタガタ揺れているが、動揺している人間はぼく以外にはいないようだった。成層圏を目指し、機体はさらに上昇していく。

 窓から見下ろす景色は、世界史の教科書に載っていた航空写真そのものだった。

 ふと、これまで覚えたことのない不思議な感覚でみたされた。気のせいだと思ったのだけれど、すぐに理由がわかった。平坦で無機質な舞台から、ぼくは降りたのだ。無理にダンスを踊ることもなければ、仮面をつけて演じる必要もない。今のぼくは『滝沢透』ではなく、あの小さな舞台に人知れず名前を置いてきた透明な存在である。

 シートベルト着用のサインが消えて、客室乗務員からサービスを開始する旨のアナウンスがはいった。顔をよせて窓から見おろすと、微かに東京の輪郭が確認できる。ああ、東京。なんて姿だい。これじゃまるでプリント基板じゃないか。くすくす笑いながらひとり呟いた。

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