2. 新しい世界
会社を辞めてから、二度目の朝をむかえた。
今までの習慣で、六時十分ごろには目がさめてしまう。滝沢家で、もっとも時間を持て余しているはずのぼくが一番さきに起きてしまうのは、無職という後ろめたい気持ちが心のどこかにあるからなのだろうか。
それとも、昨晩の決断に少しばかり興奮していたのかもしれない。自分で言うのもおかしい話だが、ぼくはこんなにあっさりと物事を決断できる人間ではない。いつもだったら、いつものぼくだったら、考えて想像して結局なかったことにしてしまうのに。
それにしても、往復航空券が二十五万円というのはさすがに高いような気もしてくる。海外旅行というものは、こんなにするものなのか。二十五万円。いつかの初任給と同じ金額であることに、いささか苦い思いがするのだった。
部屋を出て台所にいくためには、父の部屋と妹の部屋のまえを通る必要がある。そろそろ妹が起きてくるころか。素足で歩くたびにきゅうきゅう廊下がきしむ。起き抜けに聞きたい音ではないなと、ふと思う。
食パンを皿にのせ、ソーセージをニ本薄くスライスする。その上にとろけるチーズをのせて、オーブンにセットした。冷蔵庫からバナナと納豆をとりだし、パンの焼き加減に集中する。
この朝食メニューは、大学二年生の頃から今日に至る五年間、変わらずに愛用してきたメニューである。美味しいという理由もあるが、全体的に栄養バランスが良いと思えたからだ。
部屋にもどり、テレビをつけるとテンポのいいメロディが流れだし、十二星座占いが映しだされた。
『射手座・・・金銭運=大人買いをして金欠状態になりそう。計画的に使うように考えて♪』
なるほど、占いも捨てたもんじゃないな。今日は、旅行に必要なモノを買いに行く予定である。この星座占いのメッセージは、きっとぼくだけに送られたものなのだ。楽観的な想像力をもてあそびながら、青いバナナにかじりついた。
昨日とまったく同じ朝食を食べ終え、食器をお湯で洗い、部屋にもどってパソコンの電源をいれた。両親は、ぼくが仕事を辞めたことについて、特に口をだすことはなかった。そうなの、ふうん、とかるく頷きながら答えただけで、退職の理由や今後の就職活動については特にふれず、好きにしなさいよと言わんばかりの反応だった。
グーグルの検索窓口に『海外旅行 持ち物』と素早く入力する。ぼくは、検索エンジンはヤフーではなくて、グーグルと決めている。グーグル主義という明確なひとつの立場を貫いている理由はいくつもあったのだけれど、いまとなっては何ひとつ思いだせない。
貴重品、各種証明書、バッグ類、衣類、日用品、医薬品、その他便利グッズなど、持ち合わせのないモノばかりだった。検索結果のなかには、釣り糸とアーミーナイフも含まれていたが、あきらかに今回の旅先には必要のないものだと感じたため、買い物リストからは除外しておいた。
パソコンをつけてから、およそ一時間が経過した。荷物のリストを作るだけなのに、なんだかとても疲れてきた。この先に待ち受けているであろう困難と手間を想像すると、両肩の力が抜けて意欲が失われていく。それでも、時間だけは近所のひとたちに配るほどあるのだった。
今日の天気が気になり、ベランダに出て煙草を吸った。滝沢家で煙草を吸うのは、ぼくだけだった。ベランダに置かれた分厚いガラスの灰皿は、ぼく以外にとっては邪魔な置物なのだろう。
ぼくは、なにも考えずに煙草を吸った。
十一月のベランダは、さすがに寒かった。
部屋にもどり、久しぶりにミニコンポを再生してみた。ぼくが最後に音楽とよべるものを買ったのは、高校三年生の頃だったと思う。考えてもみれば、歌番組はもとより、音楽に関する情報収集などにも関心がなくなっていた。
再生された曲だって、何十年も埃をかぶっていた懐かしい曲ばかり。最近のヒットソングが肌に合わないわけではなかったが、なるほど、やっぱりこの曲がしっくりくる。
モッズコートをはおって外へでると、いつも以上に人通りが少なかった。平日の十時すぎに買い物にでかけられる人は、かなり限られているからだろう。専業主婦か学生、夜勤の人か高齢者、そしてぼくのように無職な人間か。
とりとめもなく考えていると、自分が根なし草のように思えてくるのだった。
以前は学生という役をこなし、卒業後は社会人という役を演じ、今のぼくは舞台から降りた道化役者のようだ。白粉や紅を塗り、だぶだぶの衣服を着て、まるい帽子をかぶった悲しきピエロ。
社会的にどこのカテゴリーにも所属していないということが、こんなにも不安な気持ちになるなんて思ってもみなかった。多くの人々に共有されている模範的な成人男性像からはみだしてしまったぼくには、道化という役がふさわしいのかもしれない。
「なに弱音を吐いてやがる!」
「・・・」
「社会とつながるのが煩わしかったんだろう?」
「だれも、そんなことは言っていない」
「嘘つくなよ!」
「嘘じゃないさ」
「会社員時代の透は幸せそうには見えなかったぜぇ」
「・・・」
「透の居場所は、ここじゃねえんだよ」
啓太とは、もうながいこと付き合っている。
友達でもない、家族でもない。
切りたくても、切れない関係。
「会社員時代も含めて、ぼくは、不幸と感じたことはないよ」
「本当かよ!」
「ああ、本当だ。 幸福ってわけではなかったけどね」
ぼくは、続けた。
「それに、人と関わることに抵抗はないし、大切なことだと思っている」
「友達だっているじゃないか」
「何人だよ?」
「何人って・・・ そりゃ、人並みにさ」
ぼくは脳の引きだしをひっくり返し、友達と親友の数をかぞえていた。
「とにかくよお」
「なんだよ」
「細かいことは気にしないで、イランに行けばいんだよ!」
「・・・」
「おい、きいてんのかよ」
聞こえないふりをして、近所のイオンモールへはいった。寒さのせいで足先の感覚が鈍くなり、鼻水が文字通り水のようにすうっと唇にたれてくるのが鬱陶しかった。
大型の商業施設は、あまりぼくの感覚にはなじまない。
理由は、人や情報量が膨大すぎて、記号の羅列を連想するからである。従業員の動作や表情はロボットみたいに正確で味気なく、溢れんばかりの笑顔たちも、消費という渦のなかへと落ちて消えていく。
まあ、そんな皮肉をつらつらと並べてみても、結局のところ利便性には敵わないのだが。
目的の旅具は一、三階のフロアでほとんどそろえることができた。残りの小物類は、家の近くの百円均一でそろえることにする。ゆっくり歩いて十分。一階がスーパーになっていて、二階が百円ショップになっている。
百円ショップというところは、何回きても商品の位置が把握できない。もしかすると、日ごとに商品の陳列を変えているのかもしれない。それに、均一と声高に宣言しておきながら、気持ちよく三百十五円の商品がそこかしこに紛れているから要注意である。
ウェットティッシュと南京錠、パスポートカバーに小物入れをカゴに放りこみ、三番のレジにならんだ。百円ショップは、くるたびに商品が増えているような気がする。なかには本当に百円で採算がとれるのか、いささか心配になる商品も目についた。
ぼくは、ふと児童労働という言葉を思いだした。もしも、この安さの代償として途上国の見知らぬ少年、少女たちの未来が不当に奪われているのだとしたら。ぼくも、加害者のひとりになるのだろうか。突然、フェアトレードという言葉を思いだしたのは、家のそばにある理髪店のまえを通ったときだった。
ドアをあけて、靴を脱ごうとしたのだけれど、両手にさげた買い物袋に邪魔をされてよろけてしまった。思わず舌打ちをする。
家のなかは、時間がとまったかのように静かだった。
生産ラインの止まった、お昼時の工場の静けさに似ている。
買い物袋を部屋におき、冷蔵庫を開けてみたが、特に気になる食材は入っていない。ご飯は炊いてあるようなので、昼食はレトルトカレーですませることにした。ボンカレーゴールド。真夏の太陽みたいなパッケージを見た瞬間、またこれかという思いが込みあげてきた。
食事がすむと、いつも通りベランダに出て煙草に火をつけた。
下の公園に目を落とすと、緑色のベンチで警備員らしき人がぽつねんと食事をとっているのが見えた。コンビニ袋には、パンらしき包みとパックのジュースが入っているようだった。
もしも仕事を続けていたら、ぼくは、今頃どこでなにをしているのだろうか。この時間帯だと、池袋周辺のお客さんをまわって、それから目白駅のそばにある居酒屋に納品して、早稲田通りに面した精肉店で日替わり弁当を買って、遅めの昼食を車内で食べながら午前中の伝票を整理しているはずだ。
と、いまさらそんなことを思い返してみても、どうなるわけでもなかった。
ぼくは、二本目の煙草に火をつけた。
警備員らしきおじさんも、ちょうど煙草に火をつけているところだった。
部屋にもどり買い物袋をひっくり返すと、六畳半の部屋は、まるでラーメン屋の厨房のように窮屈に感じられた。ぼくは、値札を片っ端からはずし、手際よく旅具リストに加えていった。
川口駅のそばにある図書館で借りた『地球の歩き方~イラン~』をとなりに並べてみると、気分が少しだけ高揚していることに気がついた。
「透さん、なんだかとても嬉しそうですね」
「そうかい? そりゃどうも」
「ひとつ、きいてもいいですか?」
「いいよ。 なんだい?」
「どうしてイランなんですか?」
「どうしてって言われても・・・」
「他にも素敵な国や地域は、たくさんあると思うのですが・・・」
亜紀子とは、物心ついた時からの仲である。
たぶん、ぼくのことをぼく以上に知っている。
「たしかにね。 亜紀子のいう通りだと思うよ」
「けどね、ぼくは、今まで安全な道ばかり選んできたんだよ」
「言いたいことがわかるかい?」
「ええ、ある程度は」
「つまり、予測可能な世界じゃないと不安だったんだ」
「だからだよ。 今回の旅先にぼくがイランを選んだのは」
図書館で借りたガイドブックを眺めながら、ぼくは、はっきりと答えた。
「新しい世界に興味があるんですか?」
「まあ、そういうことだね」
「透さんらしい考えかたですね」
「そう?」
「そうです」
「話は終わりかい?」
「ええ、もう済みました」
「だったら邪魔しないでくれ。 やることが沢山あるんだ」
「透さん」
「なんだい?」
「こんなお節介な私ですが・・・」
「これからも、透さんのそばにいてもいいですか?」
「もちろんだよ」
「そうしてくれると助かるよ」
その言葉をきいて安心したのか、もう亜紀子の姿はない。
どんな手段を使っても、亜紀子はぼくから離れないだろう。
ぼくが、この世界に存在するかぎり。