1. 透の決意
「それで、これからどうするつもりですか?」
ぼくは答えなかった。その質問の意図は理解していたし、配慮にも感謝している。
ただ自分という存在がなにをもとめ、いったいなにをどうすれば幸福というものに近づけるのか、ぼくにはそれがわからなかったのだ。
いくら考えてみても、ゆらゆらと同じ位置に戻ってきてしまう。
それはちょうど、霧が立ちこめた森のなかでいそいそと出口を探しまわる狩人のようなもの。
部屋のなかに日の光がはいらないよう、黒いカーテンを二重にしめる。
今はそんな気分ではないのだ。暗い部屋のほうが落ちつくときだってある。
暖房を三十度に設定するとすぐに暖かくなり、部屋のなかは冬の寒さを感じさせない空間に変わった。テレビの電源を切って仰向けになり、目を閉じて暖房の排気音に耳をすませる。
「まさか、なにも考えずに会社をやめたんですか?」
「三年。 大学を卒業してからまだ三年しか経っていない」
「・・・」
「それに、ご両親や友人にはどう説明するつもりなんですか?」
「いずれにせよ、透さんの行動はまったく理解できません」
亜紀子は抑揚のない声で、一方的に捲し立てる。
プログラムされた自動アナウンスのように機械的で、心に直接響く声だった。
「わかってるさ。 自分でもよくわかってるよ」
「仕事なら探せばいくらでもあるし、きっとすぐに見つかるよ」
「ただ・・・ そうじゃないんだ」
「ぼくは、自分のなかにあるズレのような感覚をどうにかしたいんだよ」
「わかるかい?」
「・・・」
「再就職は、その問題を片づけてからだ」
「そうですか・・・」
亜紀子は瞳を細めてぼくをにらんだ。その表情からは、なにも感じとることはできなかった。
生暖かいエアコンの風。うなるような排気音。薄暗い六畳半の部屋。
ぼくは、一昨年通販で購入したブルーのジャケットをきて、家を跳びだした。
びゅっと冷たい風が耳をなでる。昨日とおなじような寒さ。
灰色のマンションを左に曲がり、五分ほどで商店街が見えてくる。
コンビニ、ビデオショップ、駅前医療モール、スーパー、雑貨店、飲食店、ゲームセンターと、普通に生活していくうえで必要なモノはほとんど揃っている。
お金さえあれば、このままずっと川口市内で生活できる気さえする。わざわざ電車に乗ってトウキョウへ行く必要もないし、欲しいモノは楽天かアマゾンで買えばいい。
帰宅を急ぐ背広姿の集団をすり抜け、足早に韓国料理店『はんぐる』へ向かった。
寒さのせいで猫背になる。ビル風が体を伝い、ぼくの心を真っ白にしてゆく。
手動扉を開けると、店長が暇そうに夜七時のニュースを見ていた。客の入りが悪いせいか、五日も大雨が続いたような渋い顔をしている。
カウンター席に腰かけ、メニューを見ずにプルコギを注文する。この前きたときもプルコギだった気がする。たぶん、来週もプルコギを注文すると思う。メニューはたくさんあるのだけれど、プルコギ以外においしそうな名前がない。だからとりあえずプルコギになる。
店長が雪のように白い髭をもぐもぐしながら、熱そうなお茶をテーブルの隅におく。一応、常連客として認識されているみたいだが、一度も私的な会話をしたことがない。もっとも、ぼくの趣味や私生活の一部を語ったところで、利益になることなんて何ひとつないのかもしれないが。
両親は共働きで、妹は部活の練習で毎日帰宅が遅い。考えてみれば、一週間に二晩はこうして『はんぐる』の世話になっている。特別おいしいわけではない。ただ、家から近いだけ。
店をでると風はさらに冷たく鋭くなっていた。
まるで龍がびゅーびゅー鳴いているみたい。
ぼくは、冬の街路樹をみるともなしに眺めていた。
体を揺らし葉の散ってしまったブナの木は、生きているのかそれとも死んでいるのか、区別がつかなかった。死んでいるように見えるのは、ぼくの心境の投影なのだろうか。
「フランスか? エジプトか? それともミャンマーかぁ?」
「外国に興味があるんだろう? いい機会じゃねえか!」
しゃがれた声、啓太の声だ。気がつくと、いつも近くにいる。ぼくのすぐ近く。
「何を迷ってやがる? 俺は透のことなら何でも知ってるんだぜ!」
「啓太に言われなくても・・・ 外国には行くつもりだよ」
「ほんとかよ!」
「本当さ。 去年から考えていたことだし。 ただ・・・」
「ただ? なんだよ」
「目的がないんだ。 観光っていう気分でもないし・・・」
「あのなあ」
「お前のことなら何でも知ってるって言ったよなぁ?」
「・・・」
「さがしてんだろ? も、の、が、た、り」
優越感を含んだ嫌な態度だ。思ったことはなんでも口にする、それが啓太だ。
「物語なんて口に出した覚えはない。 ただぼくは、自分自身がよくわからないんだよ」
「さっき亜紀子にも言ったけど、心の中にあるズレみたいな感覚の正体が知りたいんだ」
啓太はまだなにか言いたそうな様子だ。
ぼくは知っている。きっと同じことを言いたいのだろう。何度も、何度も、何度でも。
「こんな小さな町じゃ、百歳まで生きても変わりゃしねえよ」
「ただ無益に、終わりのない日常を繰り返すだけだぜ」
「そんなことは・・・」
「だから外国に行くんじゃねえか!」
「きっと何かあるだろうよ。 想像もつかないようなでっかい何かがな!」
家に着いたぼくは、真っ先に冷蔵庫から缶ビールを探しだし、部屋に入りパソコンの電源をいれた。起動するまでの間、冷えた缶ビールを一息に飲み干し、手早くグレーのスエットに着替えると、暖房を三十一度に設定して、砂時計がなくなるのを待った。
旅行については去年の暮頃から考えていた。いや、もっと前だったのかもしれない。
埼玉から滅多に出ない僕にとっては国内旅行でもよかったのだけれど、どこか遠い異国の方に思いを馳せている時間の方がはるかに多かったことを考えると、やはり外国にするべきだろう。
最後に英語を話したのは、大学2年生の必修科目『英語Ⅰ・Ⅱ』の授業だったが、語学に関しては不思議と不安はなかった。問題はどこの国に、どれだけ滞在するかだった。
グーグルの検索窓口に『海外旅行 ランキング』と入力してみる。
イタリア、韓国、フランス、台湾、サイパン、オーストラリア、アメリカ、など定番の旅行先ともいえる国名が表示された。ヨーロッパは日本と同じような先進国というイメージがぼくのなかで確立されているため、できればもっと異国を感じさせる国がよかった。
二本目の缶ビールを飲み始めたとき『イラン~ペルシアの旅~』と、茶色の太文字で書かれた広告をみつけた。イランか。
考えてみればどこでもよかった。
イランの歴史や文化、自然遺産などに興味はない。それに、大義名分なんてものも必要ない。
日本以外なら、どこだっていい。
茶色の広告をクリックすると、東京発テヘラン着の各航空会社の検索結果が表示された。
所要時間は、乗り継ぎを含め約二十三時間。ドイツで乗り換えるみたいだ。
往復航空券は、およそ二十五万円。問題ない。
社会人というカテゴリーから外れたぼくにとって、時間は無制限に用意できる。
加えていえば貯金も、二年間は普通に生活できるくらいには貯まっていた。
会社員時代、仕事に忙殺されてお金を使った記憶がほとんどない。
ぼくは、アマゾンで古本をカートに入れる要領で、オンライン予約を完了させた。
今日からちょうど十日後の、十一月二十日から約一週間滞在することにした。
ふと、煙草が吸いたくなる。
気がつくとスエットは汗で湿り、部屋の温度は二度上昇していた。
血中のアルコール濃度が高くなり、悪くない気分だった。
「自分さがしですか? それとも現実逃避?」
ぼくの耳もとで、亜紀子がぼそぼそとつぶやく。
「頼むから邪魔しないでくれ。 もう、決めたことなんだ」
パソコンの電源を切ると、照明を暗くして布団にもぐり海老のように体をまるめた。枕は寝返りしても頭が落ちないよう、同じ大きさのものをふたつ並べてある。
「いま、透さんがするべきことは、イランへ旅行することなんですか?」
「紛争もまだ続いていますし、生活様式も日本とは全く違うんですよ?」
「それこそ、死ぬために行くようなものです」
亜紀子の吐息がぼくの後ろ髪をゆらす。まるで学級委員長みたいな言い方だ。
「正しいか誤りかは、やってみなければわからないじゃないか」
「ぼくは、一度決めたことは絶対変更しない性格なんだよ」
「それは、亜紀子が誰よりも知っているだろう?」
「もちろん、知っています」
「ただ、私は透さんのことを思って・・・」
「透さんは、心に余裕がなくなると、視野が極端に狭くなる傾向があるので・・・」
「きいていますか?」
ぼくは、てきとうに頷いた。眠気が重力のようにかぶさり、脳は睡眠をもとめる。
今日という時間が、光の届かない、深い深い海の底へと沈んでゆく。