(2)
白い男は少々面食らったようだが、小さく息をついた。
「それは……もちろん、すぐに了承していただけるとは思っていませんでした。ですが、……我らは貴方を必要としています。こちらに来ていただきたいのです」
私には、彼らの世界へ行くのがどういう感触なのか、簡単に想像できる。鏡は今、まるで垂直な水面のようになっているだろう。指で触れれば、ガラスの表面は波紋を起こし、吸い込むように指を、指につながる私を、その内部へと引っ張っていくだろう。水中……しかし厚さはせいぜい二センチだ……のようなガラスを抜ければ、新しい空気が広がっている。薄青い波紋が揺れる、とろりとしたあいまいな世界。おそらく重力はほとんどない。そして白い男は私の手をとり、彼の国に私をいざなう……
私はそれを知っている。
そのとき。
ふと左を見ると、ベランダに羽の生えた女が立っていた。
「…………え?」
「誰ですか?」
私は聞いた。白い男も聞いた。
羽の女は心配そうな顔つきで、ベランダへ通じるガラス窓を軽くノックした。白い羽は……あえて言うと蝶のそれに似ているが、もっとシンプルで、もっと光り輝いている。
「ああ、もう……ずっと探してたのよ。その顔じゃ、全部忘れてしまったのね?」
「全部、って?」
「貴方はほんの十七年前まで、穢れなき神聖なる一族にいたのよ。私は貴方のこと、とても大切にしてた……貴方はこの穢れた世界で迷子になったの。ずっと探したんだけど……こんなおぞましい生き物の体に取り込まれていたなんて。でも早く見つかってよかったわ。今すぐ戻っていらっしゃい」
羽の女は、しなやかに揺れる長い髪全体で不安を表した。羽衣、と呼ぶにふさわしい薄青色のひらひらした衣服は、非日常性という点では白い男といい勝負だ。
「……どうすればいいの?」
誰ともなしに聞いた。
「お好きなように」
白い男は平然と答えた。
「……来てほしい?」
「もちろんです」
「『来る』じゃないわ、一緒に帰るのよ」
羽の女に従ってベランダに出たらどうなるのかも、私には簡単に想像できる。彼女が一言二言、秘密の言葉を唱えた瞬間、私は光に包まれるだろう。光の繭の中にすっかり封じられて、私のおぞましい体は壊れてなくなってしまうだろう。そうすると私には元の姿が戻り、輝く羽が再び背中に生え揃う。羽衣を身につけて繭を出た私を、羽の女は優しく抱きしめ、そして至上の 神聖なる世界 に戻るべく、ベランダを飛び立っていく。
飛び立つ。遠くへ。遠くへ。遠くへ。
私はそれを知っている。




