第7章「悪夢」
神国のある神州大陸を西に進んだ所にガザ大陸はあっ
た。
南北に弓なりに伸びたこの巨大な大陸は、この世界で
最大の大陸だった。
その大陸の北端――サモラ山脈もまた、神や人が滅多
に足を踏み入れない場所の一つだった。
◆
濃緑の針葉樹の生い茂った山肌の一点を裂く様に、一
軒の館があった。
薄暗くくすんだ様な周囲の山々の色彩にそぐわない、
赤や黄の極彩色で館の壁はでたらめに塗られていた。
窓も扉も無いその建物の中に、悪夢を司る幻神リウ・
ファイオが住んでいた。
派手な外観に反して、館の中は、黒ずんだ深みのある
光沢を帯びた木目の壁と床で構築されていた。
小さな箪笥や丸いテーブルといった、幾つかの古びた
家具が慎ましやかに部屋の片隅に置かれ――壁には絵の
無い額縁が掛けられていた。
館の中は薄明るい光で満たされ、全ては夢の様に茫洋
と霞むばかりだった。
ファイオは館の一番奥の小さな部屋で、独りソファに
身を沈めていた。
しばらくの間、彼は何を思うでもなく宙に視線をさま
よわせていた。
「――今日は何を作ろうかしらン。」
肩まで掛かる黒髪を指先で弄びながら彼は呟いた。
ほっそりとした白い顔立ちに、鮮やかな真紅のルージ
ュ――その唇から漏らされた声は、低く野太いものだっ
た。
精神の集中につれファイオの瞳に妖しい炎が揺れ、額
の第三の瞳にも力強い輝きが宿っていった。
両手が、胸元の空間を捏ね回す動作をした。
やがて、幾筋かの煙が昏い灯火を明滅させ、ファイオ
の掌中に一つの形ある物が生まれ出た。
体中に棘を持つ、流線形の物体。
それはファイオの手の中で小刻みに蠢き、繊指がなぞ
る度に細部の形を変えられていった。
棘の幾本かは、攻撃性の象徴そのままに長い刃へと変
化し――別の幾つかは、より細く鋭く伸びていった。
幻獣創造――これは、幻神の持つ能力の一つだった。
自らの思念を実体化させる能力により、幻神は幻獣と
呼ばれる擬似的な生命体を創造する事が出来た。
「アンタの名前は――。」
完成した幻獣は、創造主によって名前を与えられると
その手の中から空中へと滑り出た。
幻獣には知能や、まして、自分の意思などは存在しな
い。
創り出されたばかりの幻獣は、何処へ行くでもなく、
ただ、ファイオの周囲を気儘に浮遊するだけだった。
一つの創造を終えると、ファイオは満足気に息をつい
た。
だが――すぐに、その細く白い貌は不満や怨みを秘め
て強張っていった。
孤独な境遇への不満。孤独な生活を送らざるを得なか
った事への怨み――。
ファイオに限らず、幻神などの独り成りの神々は、孤
独な生活を送る者が多かった。
一部の高慢な神々から差別され、また人間達からも差
別される事のある独り成りの神々は、ファレス、ファリ
アの姉妹の様に有力な神の庇護を受けるか、ファイオの
様に人跡未踏の土地に引き籠もって隠遁生活を送る者が
多くを占めていた。
「――ちッ!」
自分の目の前を漂う幻獣の尾が頬を掠め、ファイオは
苛立たしげに幻獣を掴み取った。
ファイオの白い指先に力がこもり――幻獣は呆気無く
歪んで潰れてしまった。
生クリームを連想する幻獣の中身が飛び出し、古びた
木目の床の上に滴り落ちた。
「うっとおしいわネッ。」
ファイオは無慈悲に自らの創造物を床に叩き付け、再
びソファに身を沈め直した。
粘り気のある白いクリームを垂れ流し、幻獣は床の上
で惨めに痙攣を続けた。
さほど時間を置かず、幻獣の動きは止まり、一筋の白
煙を上げながら消滅していった。
煙に混じって、微かな呻き声や恨み言、叫び声が耳に
届いたが、ファイオは全く気にも留めなかった。
怨嗟の声は、幻獣の発したものではなく――その材料
となったものだった。
ファイオはラウ・ゼズと違い、神や人の負の心――憎
悪や怨念などといった精神エネルギーから幻獣を創り出
す技術に長けていた。
その為か、幻獣達の姿は剣や棘といった突起物を纏う
事が多かった。
幻獣――それは文字通り、幻神達の幻想から創造され
た仮そめの獣に過ぎない。
奇妙で奇怪な姿を持って現世に誕生したそれらは、限
り無く生物的ではあっても、生命体ではなかった。
いわば幻獣とは、幻神の作る実体化した幻覚の延長、
或いは変形したものでしかない。
一個の本能や、知能――また、自我を備えた命あるも
のを創造する事は、幻神の業ではなかった。
「――全く、イヤになっちゃうわネ……。」
野太い声が、薄い光に満たされた室内に響いた。
その声が紡ぐ言葉は全て、己の境遇を嘆く愚痴と、他
の者への恨み言だった。
神や人の負の心から幻獣を生み出す幻神は、自身もま
た負の心で満たされていたのだった。
独りの自由気儘な生活と気取ってはみても、神も人も
近寄り難い土地での生活は、耐え難いものだった。
誰かに強制されたものではなかった。
しかし、自ら望んだものでもなかった。
ただ、ここで暮らさざるを得なかった――それだけの
事だった。
ラウ・ゼズが妹達をサイト・ライトの下に預けなけれ
ばならなかった様に。
独り成りという己の生まれや境遇を嘆き、憤り――フ
ァイオの中でそれらは既に、他者への怨念や憎悪に変貌
していた。
――いつか、自分の創った幻獣を従えて、世界を滅茶
苦茶にしてやる。
そのいつか、を夢想しながら、ファイオはきつい紅色
に彩られた唇を歪め、残酷な笑みを浮かべた。
「――そのいつかを、今……与えようではないか。」
何処とも知れない場所から響いてくる声に、ファイオ
は驚愕の余り立ち上がった。
主の警戒心に反応した幻獣達が、何処からやって来た
ものか、ファイオの周囲に壁の様に群れを成した。
神や人の暗い悪夢で満たされた館の中を、更に黒く暗
く染め変えていく気配がファイオの目前に形を結んだ。
床も家具も、茫洋と霞む薄明かりの中にあって、無表
情の白磁の仮面だけが、闇を纏って佇んでいた。
毒々しい邪気を垂れ流し、黒いマントを翻して傲然と
歩み来る機械神の分身。
それは、ファイオよりも、悪夢から生み出された幻獣
達の主に相応しいと言えた。
「あぁら!――神国のお偉い機械神サマが、こんな所に
何の用かしらン?」
レウ・ファーの分身、レウ・デア――名前と簡単な素
性くらいはファイオも知っていた。
さほど危険そうではないと感じ、ソファに再び身を沈
めると、嫌悪の表情を露にファイオは毒づいた。
神々と人間の寛容に基づく共存を旨としながらも、神
国はファイオのこの境遇をどうする事も出来なかった。
そんな神国など、ファイオにとっては偽善と無能の象
徴でしかなかった。
「リウ・ファイオよ……。私は神国に、独り成りの者達
の国を作る。お前も来るがいい。」
レウ・デアの話に、ファイオは嘲る様に吹き出した。
「あらあらン。ステキなお考えですコト!」
だが、レウ・デアはファイオの反応に何の感情も示さ
ず話を続けた。
「今ある神国の神々による秩序を全て踏みにじり――我
々の為の国を建てるのだ……。」
神々を――踏みにじり。
その言葉はファイオの興味を惹いた。それは、ファイ
オがいつも夢想していた事に他ならなかった。
互いの名前を知っているに過ぎない間柄で、今、館を
訪れたばかりのレウ・デアは、一体いつファイオの心を
くすぐる言葉を計算したのだろうか。
「へぇええ?仲々オモシロイ事を考えるのねエ。」
初めてレウ・デアの話に興味を持った様子で、ファイ
オはソファから身を起こし、レウ・デアを見た。
「とんだ神が、神国の中枢に巣食ってたもんだワ。」
ファイオはレウ・デアの実力を伺うかの様に、鋭い眼
光を湛えて目を細めた。
「これは、挨拶代わりだ。」
レウ・デアのマントの裾から数本の触手が伸び、獲物
を狙う蛇の様に幻獣達に躍りかかった。
「何ヨッ!?」
主を守るべく群れを成していた幻獣達は、次々と、レ
ウ・デアの触手に捕えられていった。
瘤の様な器官や肉のパイプ。電子回路の様な模様の細
かい筋を表面に纏い、レウ・デアの触手によってファイ
オの作品は、より凶悪で怖ましいものへと変化させられ
ていった。
「私には力も、技術も知識も――無限に備わっている。
お前の望みを叶えるくらい、造作も無い事。」
絡まり合った触手が腕の様な形を成し、ファイオへと
差し出された。
そのぬるぬるとした質感にファイオは一瞬眉をひそめ
たが、
「随分とオモシロイ事するじゃないの――気に入ったワ
ヨ。」
既に自分の作品とは言い難い異形の怪物達を、ファイ
オは満足そうに見下ろした。
「では、行こう。」
マントが翻り、濡れた光沢を放つ幾本かの触手が揺れ
た。
神や人を踏みにじり、彼らの悪夢から創造する幻獣の
群れを思い描きながら、ファイオはレウ・デアの後を歩
き出した。
◆
神国――神州大陸の南に広がるヒルデン海。
船乗りや、或いは大陸南岸やハルバルン島の住人達の
間に、一つの話が伝わっていた。
雲一つ無い晴れた日には、青空の彼方を渡る城が見え
る――。
実際に見上げてみると、それは薄灰色にくすんだ小さ
な円盤としか見えないものだった。
勿論、それは空を巡る三つの月のどれでもない。
神国の老神達は、ありふれた社会科の知識としてその
正体を知っていた。
――空中城塞都市ラデュレー。
天空の高みを悠然と飛翔する円盤は、古い時代に捨て
られた神々の都市だった。
全長数十キロに及ぶ巨大な空中都市は、かつては太陽
や月、星などを初めとする天体に関係する神々の住居と
して使われていた。
七千年程前に放棄され、住民も全て下界の神国神殿へ
と下りて行き、今では住む者もいない。
都市に使われている建築材料自体が半永久的な浮力を
持っている為に、住民のいない今も、空中都市の名に相
応しい天界の漂泊を宿命付けられていたのだった。
七千年の天の放浪の末、神々の住んでいた街並みは崩
れ去り、都市の中央に座す神殿だけがかつての名残を辛
うじて留めていた。
その神殿の展望台の上に、物憂げな様子で佇む少女の
姿があった。
肩で切り揃えられた赤毛はきつく波打ち、黒瞳は果て
し無く広がる天の平原を眺め続けていた。
「昨日も独り、今日も独り――――。」
つまらなさそうに呟く少女の顔が、長衣の両肩に縫い
付けられた大きな水晶玉に映じた。
「明日も独り――か。」
愁いを帯びた溜め息は、容赦無く降り注ぐ太陽のきつ
い光の中に掻き消えた。
彼女はこのラデュレーで誕生した幻神だった。
ラデュレーが幻神の誕生するレイライン集束点に差し
かかった時、幻神の「卵」が偶然起こった空間歪曲の為
にラデュレーへと飛ばされてしまった。
飛ばされた「卵」はラデュレーで幻神を産み落とした
のだった。
独り成りの神々は、幼児期の学習や教育を殆ど必要と
しない。放置された状態でも、一定の水準の知能や自我
を発現させるのである。
彼女もまた、独りでに生まれ、独りでに自らの意識を
形作った。
彼女は自分を、ミウ・パラと名付けた。
幸いな事に、ラデュレーの神殿に残された図書や、辛
うじて動く旧式のコンピュータによって、パラの知能の
発達と自我の形成は神国の一般的な神々の水準に達して
いた。
そして――不幸な事に、コンピュータは下界の知識を
多くの映像や音声を伴ってパラに与えたのだった。
下界に生きる神々や人間達の日々の営み。
多くの生命の息づく大陸や海洋、多くの島々――
様々な生命が互いに関わり合い世界を形作っていた。
パラが、純粋な興味と憧れを持って地上に降臨する事
に、一体何の不思議があるだろうか。
しかし、幻神故に疎まれ、彼女を受け入れる者も無く
――天空に生まれた幻神は、再び自らの城塞へと逃げ帰
ったのだった。
自分一人が、世界中の何もかもから切り離され、たっ
た独りで生きている。
時間だけを無為に食い潰し、二百年以上が経ってしま
ったのだった。
パラの中で、地上への憧れはそのまま憎しみへと変わ
ってしまった。
「――憎しみを晴らす術を与えようではないか!」
更に空の高みから、パラへと降り注ぐ声があった。
この無人、無神の筈の天空で自らを呼ぶ声に困惑しな
がら、パラは顔を上げた。
その視線の先に、漆黒の影があった。
鮮烈に輝く太陽を背に、マントをなびかせて浮かんで
いる白い仮面の神。
上空を荒れ狂う気流に翻るマントは、羽の羽ばたく様
な動きを見せていた。
その内側からは、日差しを受けて不気味な光を返す触
手と肉の管が、吐き出された内臓の様に垂れ下がってい
た。
「あなたは、誰……?」
レウ・デアの異様な姿に驚いた様子も無く、パラは不
思議な物でも見る様に尋ねた。
「私はレウ・ファー。――この世界を支配すべき大いな
る神。この体はレウ・デアという分身だ。」
答えと共にレウ・デアは展望台の上へと降り立った。
べしゃ、と、湿った音がパラの耳へ届いた。
「お前の孤独、憎しみ、怨み――。私は何でも知ってい
る。」
パラを見つめる白磁の仮面。仮面自身はただの物体に
過ぎない筈なのに、その鋭い視線を感じ、パラは魅入ら
れた様に立ち尽くした。
「私の憎しみを晴らすって――一体どうやって?」
パラの問いに、レウ・デアは触手の腕で眼前の雲海を
指し示した。
「この世界の神々の中心地、神国――そこに、我々は独
り成りの国を興す!我々を蔑み、傷付け、差別してきた
者達の全てを――今度は、我々が踏み潰すのだ!」
レウ・デアの呼び掛けは、甘美な幻想を伴ってパラの
心に染み渡った。
下界で自分を傷付け、受け入れなかった者達を踏み付
け――その上に君臨する。
「――このラデュレーを私に譲れ。我々の望みを果たす
為の根城とする。」
パラに否定の返事は無かった。
「――おっしゃる通りに……。」
その答えに、レウ・デアは無表情の仮面を頷かせた。
そのままパラには目もくれずに、黒いマントを翻して
展望台の階段へと足を向けた。
「直に、志を同じくする者達がここへ集まる。」
薄暗い階段を降りて行くレウ・デアの後ろ姿が、薄闇
の中へと溶け込んでいった。
パラはそれを見失わない様に、慌てて後を追った。