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第4章「幻惑」

 天地に幾多の神々が宿り、あまたの命と共に日々を営

む世界――神国。

 神国とは、この地上の世界を意味する言葉であり、ま

た一般的には、地上の神々の多くが住まう神州大陸を指

しているものだった。

 世界の神々の集う中枢であり、平和と安定の象徴であ

り――全ての神々と人間が、安らぎと輝かしいものを胸

に抱いてその国の名を口にした。

 神国――およそ全ての神々が集い、全ての命あるもの

が共に生きる事を許し合う郷。

             ◆

 神州大陸の南西部、神山半島の先端に神国神殿はあっ

た。

 空から見下ろす者は、誰もが驚嘆をもってその場所を

指差すに違いない。

 きらめく海の流れに洗われる深緑の半島から、天空へ

と真っ直ぐに聳える白亜の神殿―――神国神殿。

 神国神殿を初めて訪れた者は、その白亜の巨城の威容

を、驚愕や嘆息と共に見上げるのだった。

 神殿という慎ましやかな言葉の響きとは縁遠い、地上

数十階の圧倒的な質量と迫力が、訪れた者達に衝撃を与

えるのだった。

 そしてまた、神国神殿とは、正確にはこの巨大な神殿

だけではなかった。

 その周辺の神山半島先端部一帯の、神々の聖地を全て

含む「神域」とでも言うべき土地全てを指し示すものだ

った。

 神々の住居である白亜の巨城・・正確には神国神殿本

殿、或いは本部とも呼ばれる・・の周囲には、大小、新

旧の様々な神殿や建物が建ち並んでいた。

 いわば「神域」は、一つの小さな町程の規模を誇って

いたのだった。

            ◆

 神国神殿本殿から少し離れた所には、やや古い時代の

神々の神殿が幾つか建っていた。

 白い大理石の柱は風雨に黒ずみ、内部へと続く階段や

壁に施された彫刻も、判別し難い程に磨耗していた。

 これらの神殿は今の神々に使われる事も無いまま、荒

れ果てるに任せていた。

 その中の古びた神殿の一つ――その内部には、一柱の

異形の神が巣食っていた。

 外見はただの荒れて崩れかけた神殿だったが、内部へ

と入って行くと、無数の肉色のパイプや神経配線が大理

石の壁に食い込んで――白亜の石材を、毒々しい金属的

な光沢を放つ皮膚の様なものへと変貌させていた。

 かつては、この神殿に住んでいた神が参拝に来た信者

達を招き入れたと思われる大広間には、無数の内臓を連

想させる肉の管が横たわっていた。

 壁際には、そうした臓器の様な管が寄り集まり、様々

な機械部品や神経配線と奇怪な融合を果たし――ヒトら

しい形を成していた。

 訪れる者の無い広間を見下ろす無表情の白い仮面。

 その頭部や胸部に浮き出た眼球が、時折電子音を立て

て点滅していた。

 この神の名は――レウ・ファー。

 神国神殿のコンピュータに宿った機械神だった。

『レウ・ファー。こちらに去年の帳簿を送って頂戴。管

理番号は―――。』

 仮面の前の宙空に、ボブカットの若い女神の立体映像

が出現した。

 神国経理部の、経理神サナリアだった。

「了解。」

 レウ・ファーは頷き、目当ての資料は即座にサナリア

の所へと転送された。

挿絵(By みてみん)

 経理部を初め、神国に存在する様々な組織や機関から

コンピュータネットワークを通じて、レウ・ファーへと

接触が行われていた。

 様々な資料の管理や計算、大容量の情報処理。

 多くの仕事をレウ・ファーは瞬時にこなしていった。

 そもそもこの神は六百年前に、突然神国神殿のコンピ

ュータに出現し、それらと融合を果たした神だった。

 当時はその出現に警戒や混乱があったが、今では優秀

な機械神として、神国の神々の厚い信頼を受けていた。

 どの様な神であっても、その郷では共存する権利を持

つ――姿も、所属も、能力も、信条も。何者もその権利

を妨げる事は出来ない。

 これが「神国」の神々の従うべき理法だった。

 故に、神国には様々な神々が集っていた。

 レウ・ファーもまた、この理法により神国へと受け入

れられていたのだった。

 レウ・ファーとの融合により、神国のコンピュータ類

はその性能を桁外れに進化させた。

 より大容量に、より精密に、より扱い易く・・・。

 その功績と日常の仕事ぶりから、時に神々は「大神」

レウ・ファーと称賛した。

              ◆

 レウ・ファーの座す広間の扉が音も無く開いた。

 機械のランプが無数に点滅し続ける薄闇の中に、一条

の光が差し込んだ。

「誰かね?」

 レウ・ファーは穏やかに問い掛け、白い仮面を広間に

入ってくる神影に向けた。

 来訪者の容貌がレウ・ファーの目に捉えられると、瞬

時に神物検索は終了した。

 ――ヒウ・ザード。幻神。二一五歳。住所、神国神殿

本殿二三階・・。

 レウ・ファーの手元にあった記録は、戸籍や健康診断

書位で、生身での接触による記録は全く無かった。

 ――つまりは、ザードと友達付き合いなどはしていな

いという事だった。

「何の用かね?」

 レウ・ファーの問い掛けにも、ザードはただ微笑を浮

かべるのみだった。

 無言のままレウ・ファーへと近寄り、何かに取り憑か

れたかの様な、妖しい瞳の輝きが機械神の仮面を射た。

 ザードの意思ではない――自らの内に宿る何か別のも

のが、ザードから言葉を発した。

「ボクは――キミだよ……。」

 ザードから放たれる邪気に、レウ・ファーの頭脳は激

しい衝撃を感じた。

 目の前の幻神から感じられる気配は、余りにも自らの

ものと酷似していた。

 驚愕に震えるレウ・ファーへ、ザードは更に歩み寄っ

た。

「ボクは――キミの神霊力そのもの……。」

 ザードの胸元へ、半分に掛けた漆黒の神霊石が浮かび

上がった。

「そっ!それはっっ!」

 レウ・ファーの驚愕の声は、次の瞬間、激しい歓喜に

変わった。

 肉の管によって形成された腕を突き出し、レウ・ファ

ーは神霊石を掴み取ろうとした。

 だが――

「駄目だよっ!・・渡すもんか!これは……これはボク

のものなんだっ!」

 ザードもまた掌を突き出し・・不可視の障壁がレウ・

ファーの巨大な手を弾いた。

 もう片方の手で胸元の神霊石を握り締め、ザードは歯

を剥いて笑った。

「誰が、誰が渡すもんかっっ!」

 鬼気迫る表情でザードはレウ・ファーを睨みながら、

神霊石を自らの胸の中へと捻じ込んでいった。

 ザードの執念が、神霊石の支配を脱して――それを自

らのものとして取り込んだ様だった。

 神霊石は再びザードの胸中へと没し、その体内へと溶

け込んだ。

 ――過剰な神霊力の蓄積による、人格の変容。

 レウ・ファーは、正気すらも疑わしく立ち尽くすザー

ドを見下ろしながら冷静に分析した。

 しかし。

 分析結果を受け取ったレウ・ファー自身は、次第に高

まり来る興奮と喜びに打ち震え始めた。

 それに同調し、広間中の肉のパイプや機械類が蠢き始

めた。

 宙空には様々な表示の立体映像が飛び交い、レウ・フ

ァーの眼前に一つの文章が出現した。

 ――『神国コンピュータネットワーク全回線遮断。』

 その瞬間、レウ・ファーに回線を接続していた神国の

全てのコンピュータが一斉に緊急事態を表示した。

 レウ・ファーの眼前の表示が次のものに移った。

 ――『全ネットワークに強制侵入。』

 レウ・ファーは、仮面を上へと向けた。

 赤や黄、青・・ランプの点滅する様々な色の光を受け

て、白磁の仮面は極彩色に染まっていた。

 声だけが、興奮と歓喜に震えながら広間に響いた。

「私は――待っていた!この瞬間をっっ!」

 六百年前、ゴレミカの封印を逃れたレウ・ファーは、

神国神殿へと流れ着いたのだった。

 生まれて間も無いレウ・ファーは、神国のコンピュー

タと同化し、そこから膨大な知識と技術を得た。

 脆弱な脳髄の本体を守る為に、自らの力で変質させた

肉の管を鎧として身に着け――機会を伺い続けていた。

 自らの邪悪な本性を露にし、この世界全てを手にする

機会を――。

 ゴレミカにより封じられていた、残りの神霊石が再び

手元へと帰って来た。

挿絵(By みてみん)

 今や、「大神」とまで讃えられる身になったレウ・フ

ァーが元の神霊力を手にすれば、他神の追随を許す事は

無い。

「この幻神から後でゆっくり我が力を取り出すもよし、

このまま利用するもよし……。」

 未だ正気の程は定かではないザードを見下ろしレウ・

ファーは、幻神についての情報をコンピュータで参照し

た。

 差別と蔑視を受け続けた歴史や優れた能力は、レウ・

ファーの邪悪な興味を誘った。

「今こそっ!今こそ、私は望みを叶える!!」

              ◆

 神国経理部は、神国神殿本殿からそう離れていない場

所にあった。

 郵政省や情報局を初め、幾つかの機関は神国神殿内に

存在していたのだった。

 白を基調とした石材の簡素な建物は、神域の落ち着い

た佇まいを損なってはいなかった。

 何かの神の神殿と言われれば納得してしまいそうな雰

囲気がないでもない。

「一体どうなってるって言うの?」

 サナリアは呆然と自分の机に備え付けられたコンピュ

ータの画面を見つめた。

 硬質の光沢を帯びた画面は、呆気に取られたサナリア

の顔を映すのみだった。

 経理部の職員が混乱に喚き、部屋は騒然としていた。

 突然――余りにも突然、コンピュータはその機能を停

止した。

「レウ・ファーです!大神が暴走している様です!」

 年配の職員が、皺だらけの顔を上げて叫んだ。

 彼の机のコンピュータは、経理部の中央コンピュータ

に辛うじて接続出来ていた。

 だが、経理部の中央コンピュータは、サナリア達の制

御下にはなかった。

「故障?まさか。」

 サナリアは困惑した。

 レウ・ファーはたしかに機械の体を持ってはいるが、

その本質は神だった。通常の機械が起こす故障などとは

無縁の筈だった。

「――レウ・ファーの神殿へ行ってみるわ!」

 言うなり、サナリアは袖カバーを外すのももどかしく

部屋を走り出た。

 コンピュータの機能停止による被害、損失額。そして

諸々の復興費用――――――。

 鬼の経理神とも、鉄血の経理部長とも、神々に恐れ称

されるサナリアの頭脳の内で、凄まじい速度でそれらの

予算の計算が始まっていた。

 急がないと――神国の国庫は――大変な事になる。

             ◆

 レウ・ファーは、神国――神州大陸全土の全てのコン

ピュータに強制侵入を行い、それらの持つ全ての情報を

自身の中へ吸い上げていた。

 短時間の内に、世界の始まりから、現在に至るまでの

天文学的な量の情報がレウ・ファーの本体へと蓄積され

ていった。

 やがて、レウ・ファーの侵入は神域の中心「奥の院」

へと及んでいった。

 神域の奥深く、小道すら、生い茂る古木と下草に呑み

込まれた場所に「奥の院」はあった。

 鬱蒼と生い茂る巨木に覆われた半球状の建物は、まさ

に神業によって、微細な継ぎ目すら分からない程の石材

の組み合わせで出来ていた。

 「奥の院」とは神々の内の長老や、様々な分野での実

力者によって構成される組織だった。

 実際に何かを決定したり強制したりする権限は無かっ

たが、神国成立以来の長い伝統と格式を誇り、神国の機

関や組織に様々な助言や監督を行っていた。

 ――その地下深く。

 薄暗いとも、薄明るいとも取れる照明が、茫漠と広が

る地下ドームの内部を満たしていた。

 天井と床の上には、それぞれ同じ巨大な紋章が刻印さ

れていた。

 瞳を中心に広がる六枚の花弁。不可思議な文字を思わ

せる刻印が花弁には施されていたが、誰もそれを読む事

は出来なかった。

 そこでは重力の束縛は無いのか・・或いは神々の空中

浮揚によるものか、天地左右様々な方向に頭を向けて漂

う神々の姿があった。

「レウ・ファーが侵入を開始した様じゃのう。」

 足下まで伸びた白い髭を撫でながら、その中の一神が

嗄れた声を発した。

挿絵(By みてみん)

「ゴレミカのせいで多少遅れたが。」

「何とか思惑通りレウ・ファーが動き始めたわ。」

 白髯の神の横を、球状の体に二つの顔を持つ神が回転

しながら通り過ぎた。

「あれなる機械神。我々の目的の為には必要な者。」

「おや、奴め、「奥の院」の機密にまで侵入を始めたぞ

な。」

 宙を漂う神々は、成り行きを面白がる様に口々に言い

立てた。

「――侵入防止のプログラムを全て解除しろ。」

 ドームの一番下層に佇んでいる、青いマントにくるま

れた神が重々しく口を開いた。

 その神の声が響くやいなや、ドームの中は即座に静ま

り返った。

 畏れ、敬い――怯えすら滲む他の神々の視線を一身に

浴びながら、青い神影は言葉を続けた。

「ヌマンティアの情報を除く、全ての機密をくれてやる

がいい。」

 神々はその言葉に従った。

 宙を漂う内の誰かが片手を挙げ・・それだけで「奥の

院」のコンピュータに指令が送られた。

 青い神は足下の床に広がる紋章に目を落とした。

「機械神レウ・ファー――いや。虚空の闇から、ヌマン

ティアの業により生まれし脳髄の神よ。」

 嘲笑の呟きが、目深に顔に被さる青いフードの中に吸

い込まれた。

「せいぜい、全知全能を気取るがいい。」

             ◆

 サナリアは飛び込む様な勢いでレウ・ファーの座す広

間の扉を開けた。

 目まぐるしく点滅し、次々に入れ代わり飛び交う立体

映像の表示の数々。

 『データ入手完了』『強制侵入先―――』

 それらの表示は、この事態が暴走ではなくレウ・ファ

ーの意図の下に起こされた事をサナリアに語っていた。

 白磁の仮面の大神の足下に立つ、幻神の青年が自分を

振り返るのをサナリアは見た。

「あなた、一体ここで何をやっているの?――レウ・フ

ァー!今すぐ通常業務に戻りなさいっ!一体これはどう

言う事なのっ!?この状態での一分がどれ程の被害を出

すか分かってるでしょうね!」

 異常事態と見知らぬ幻神の侵入者に取り乱す事無く、

サナリアは鬼の経理神に相応しい冷厳な口調で詰め寄っ

た。

 『強制侵入先』の表示が、短時間の内に凄まじい速度

で増加しているのがサナリアの目に留まった。

 神国図書館、経理部、経済庁、郵政省、護法庁、その

他各種機関―――そして、「奥の院」……。

 神国に存在する様々な機関がレウ・ファーの侵入を受

けていた。侵入した先々で経理部の様な混乱が起きてい

る事は想像に難くなかった。

 サナリアは再びレウ・ファーへと呼び掛けた。

「今すぐ通常業務に戻りなさい!!」

 サナリアの命令は、無表情な仮面の一瞥の下に拒絶さ

れた。

「――断る。私は誰の命令も受けはしない。」

  レウ・ファーの答えに、サナリアは決然とタイトスカ

ートのポケットから携帯通信機を取り出した。

 ボタン一つでそれは神国神殿保安部へと繋がった。

「コンピュータの暴走はレウ・ファーの発狂が原因!直

ちに出動して頂戴!」

 自分だけでレウ・ファーの神殿に来たのは失敗だった

かも知れない。

 レウ・ファーとザードのただならぬ様子に、サナリア

は得体の知れない危機感を直感した。

「――発狂、ね……。」

 次第に周囲の出来事への認識力が戻って来たのか、ザ

ードは細い目を嘲笑に一層細くした。

「いや!覚醒だ!!」

 ザードの言葉に、レウ・ファーが続いた。

「私は己の真実の姿を取り戻し、自分の真の願いを叶え

る!!」

 レウ・ファーは、高らかに邪悪な宣言をした。

 言葉が終わるとすぐに、広間に横たわっている肉の管

の一部が急速にうねり始めた。

 レウ・ファーの前にそれらは寄り集まり、絡まり合い

――ヒトの体らしいものを形作っていった。

「何を……。」

 サナリアは思わず後ずさった。

 保安部の職員はまだ到着していなかった。だが彼らが

来たところでどれ程のものか……。

 サナリアは不安と緊張に汗ばむ額を拭った。

 ――そこへ。

 サナリアが開けたままにしていた扉から叫ぶ者があっ

た。

「ザードぉっっ!」

 声にすら灼熱の紅気の滲む、激しい呼び声。

 その声に打たれたかの様に、ザードは一瞬体を震わせ

――忌々し気に歯噛みした。

「バギル……。」

 ザードは広間へと入って来るバギルの背後に、ゴレミ

カの後ろ姿を認めた。

「ゴレミカの力で、ボクの居場所を嗅ぎつけたという訳

か。」

「ザード、俺と一緒に帰ろう!なあ、お前は操られてる

んだ!」

 バギルの呼びかけをうっとおしそうにザードは聞き流

した。

「ボクは自分の意志で、ここへ来たんだ。誰にも操られ

てなんかいない……。」

 二神のそんなやり取りの内にも、絡み合う管は五つの

ヒトらしい塊と化し、頭部にはレウ・ファーと同じ白い

仮面が浮き出て来た。

 首に当たる部分から濃密な黒いガスが噴き出し・・粘

土細工をこね回す様な奇妙な揺らめきを見せた。

 瞬く間にガスはシルクハットとマントを形成した。

 この黒衣の人形はレウ・デアと呼ばれる、レウ・ファ

ーの分身だった。

 レウ・デアの一体は黒いマントを翻し、レウ・ファー

の肩へと跳躍した。

 完全な布の質感を持って黒い羽の様に空中に広がるマ

ントの下から、濡れた光沢を帯びた触手や肉の管が覗い

た。

「この体も用済みか……。」

 レウ・ファーは己の仮面に手を掛け、ゆっくりと引き

剥がした。

 仮面の裏側に繋がっていた神経繊維の束が、次々に音

を立ててちぎれていった。

 ちぎれて粘りけのある体液を噴き出す繊維の奥に、無

数の触手に覆われた眼球が覗いた。

 六百年の間、広間を睥睨してきた白磁の仮面は、今や

滴り落ちる己の粘液にまみれて汚れ、掌中で次第にひび

割れていった。

「あれはっ!」

 サナリアやバギルの後ろで、暫く成り行きを見守って

いたゴレミカが悲鳴の様な声を上げた。

 金属質の肉の管や、機械部品と融合した肉片がレウ・

ファーの仮面のあった部分から押し出されていき・・僅

かの間、不格好に膨れ上がった肉塊と化して宙に留まっ

た後、広間の床の上に落ちていった。

 肉塊の落ちた後から、無数の触手に覆われた球状の脳

が這い出して来た。

 ゴレミカは、愕然とその脳髄の神の蠢く様子を見上げ

た。

 あれは――まさしく、六百年前にダイナ山脈で封印し

損ねた邪神。

 あの神が、神国神殿にやって来ていたとは。

 ――優秀な機械神として、神国の神々の信頼を集めて

いたとは。

 驚愕の事実よりも、六百年もの間気付きもしなかった

自分の間抜けさに、ゴレミカは呆然とした。

「レウ・ファー!」

 澄んだ声がレウ・ファーへ向けられた。

 ゴレミカは懐から宝珠を取り出して身構えた。

 たおやかな女神に不似合いな気迫が俄に立ち上った。

 ゴレミカの様子に、バギルは充分事情が呑み込めない

なりに、

「レウ・ファーッッ!てめぇがザードをこんなにしやが

ったのかぁぁっっ!」

 ザードの邪悪な変貌への困惑を、怒りに変えたバギル

の気迫が拳の熱気と化した。

「え?えっ?どうなってるのっ?」

 事態が呑み込めずにレウ・ファーとバギル達を交互に

見比べているだけのサナリアの左右を、二つの光球がよ

ぎった。

 ゴレミカの宝珠と、バギルの放った炎だった。

 剥き出しになった無防備な本体を庇い、レウ・デアが

マントを広げて光球の前に立ち塞がった。

「ふふっ。」

 そこへ薄笑いと共に、更にザードがレウ・デアの前の

空中に浮かび上がった。

「!」

 小石を受け止めるかの様に、軽い調子で繰り出された

掌の先に不可視の障壁が広がった。

 宝珠と炎はザードの手に触れる直前で弾き返された。

 微かな光の破片を飛散させながら宝珠は砕け散り、炎

もまた広間のあらぬ方向を焼き焦がして消滅した。

 繰り出された掌がゆっくりと下げられ・・傲然と浮揚

するザードの表情がバギルの目に入った。

「やるな。」

 ザードに礼も言わず、レウ・ファーの本体はレウ・デ

アのマントの懐へと潜り込んでいった。

 そこへやっと、保安部の職員が到着した。

 屈強な体と優れた格闘術を誇る、戦神や武神に名を連

ねる神々だった。

「レウ・デアとザードを……。」

 サナリアが言い終わらない内に状況を判断した戦神達

は、敏捷な動きでザードとレウ・デアに飛び掛かって行

った。

「ふん。」

 蠅を追い払う・・ザードのそんな手の動きは、しかし

無数の刃を含んだ突風を巻き起こした。

 防御壁を張り、肉体を硬化させ、或いは手刀で叩き落

とす・・戦神達にとっては造作も無い事と思われたが。

「ザードぉっ!やめろっっ!」

 バギルの叫び声が突風の中に掻き消された。

 ザードの放った突風と刃の威力は、戦神達の予想を凌

駕し、彼らの体を容赦無く切り裂いた。

 神殿の壁や床、それらに食い込むレウ・ファーの肉の

管が薄布を裂く様に切り刻まれた事に比べ、鍛え抜かれ

た戦神達の体は血まみれの裂傷を負うに留まった。

 変わり果てた幼馴染みの凶行は、バギルの心を傷め続

けた。

「――長居は無用だ。」

 レウ・デアはレウ・ファーの本体を収納し終わると、

マントの背中から二本の長い角の様な突起を現した。

 残り四体のレウ・デアも同じ様に角を出した。

 それぞれの先端は更に二本に分かれ、薄い皮膜がその

間に広がっていた。

 皮膜は赤く発光し、レウ・デア達の体を宙へと浮かび

上がらせた。

 と、共に、皮膜からは突風が放たれた。

 赤い皮膜の羽ばたきの様に巻き起こった風圧は、広間

に居る者全てを容赦無く薙ぎ払っていった。

「行くぞ――。」

 レウ・デアの懐から一本の触手がザードへと差し伸べ

られた。

 ザードは触手のぬるぬるとした質感に一瞬眉をひそめ

たが、そのままそれを手にした。

「ザードォォッッッッ!!」

 荒れ狂う風の前に立ち上がる事も出来ず、バギルはた

だ叫ぶだけだった。

「いっ、行くなぁぁっ!!待ってくれ!ザードッ!」

 声を限りに叫び、喉の奥に熱塊が溜まっているかの様

な気がした。

 どれ程絶叫し、呼び止めても、バギルの願いはザード

には届いていなかった。

 惨めに床に這いつくばり、去り往く幼馴染みの姿すら

まともに見る事は出来なかった。

 レウ・デアの触手の一閃が広間の天井を突き破った。

 彼らが空高く去っていくにつれ、吹き荒れる風は次第

に弱まっていった。

「ザード……。」

 ようやく起き上がれる様になり、バギルが天井に開い

た穴を見上げた時には、既に彼らの姿は無かった。

            ◆

 間近に聳える神国神殿本殿を横目で見ながら、レウ・

デア・・レウ・ファーは、つい今しがた自分の神殿で行

った計算を実行する事にした。

「――行け。」

 本体の収まったレウ・デアの命令を受け、残り四体の

レウ・デア達はそれぞれの方角を目指して飛びさって行

った。

 幻神の能力――その優秀さと、差別を受け続けてきた

歴史は、レウ・ファーにとって都合が良かった。

 自分が六百年望み続けてきた事――それが、もうすぐ

叶う。

 レウ・ファーは黒いマントと肉管の中にくるまれなが

ら、喜びに眼球を細めた。


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