第2章「兆候」
六百年後、メル・ロー大陸、ダイナ山脈。
天と地と海とに幾多の神々が宿り、世界にはあまたの
命が日々の営みを変わらずに繰り返していた。
神々の命の営みと共に流れる悠々たる時間に、世界は
支配されていた。僅か六百年の時間は、世界に微々たる
変化しか与えてはいなかった。
ダイナ山脈も然り。
地下にマグマの流れを有する、峻厳たる神々の山の連
なりは、あちこちに豊かな温泉の恵みを変わらずにもた
らし続けていた。
里に近い山裾には温泉宿が幾つも栄え、神々や人間が
湯治に訪れていた。
中でもダイナ山脈の南端は、灼熱の山々を司る灼熱神
バギルの神殿があり、大きな温泉郷として栄えていた。
◆
その夜バギルは、自分の久方振りの帰殿を喜ぶ神官や
親神達の設けた宴席を抜け出して、神殿の麓の温泉宿へ
と向かっていた。
真紅の衣を纏ったしなやかな肉体。強い意志の漲る朱
色の双眸。
獣の様な敏捷さで崖を駆け降りる様は、炎の矢が走り
抜けたかの様だった。
灼熱神バギル――活火山を擁するダイナ山脈の化身、
灼熱の炎を司る若き神だった。
◆
暫くして、バギルは神殿の麓のホテルへと到着した。
ホテル「ヴィラ・ディアイラ」・・神殿の麓で営業し
ている温泉宿の一つだった。
「待たせたな!」
湯煙の立ち上る露天風呂に、引き締まった体が飛び込
んで来た。
勢い良く湯と煙とを巻き上げた後、バギルは広い湯船
に横たわる様に身を沈めた。
「もおっ!もっと静かに入ってよー。」
湯の飛沫の直撃を受け、べったりと髪が張り付いた顔
がバギルを見た。
「悪ィ、悪ィ。」
悪びれもせずに笑い、バギルは体を起こした。
浅黒い筋肉質の肌を、赤く濁った湯が滑り落ちた。
拗ねた様に口を尖らせる、僅かに年上の幼馴染みの前
髪を掻き上げてやると、人の良さそうな細い糸目と第3
の目が現れた。
額に第3の目を頂く神はそう多くはない。
ヒウ・ザード――彼は幻神と呼ばれる、幻を司る神々
の内の一柱だった。彼ら幻神は、額の瞳で神々や人間に
幻を見せ、惑わせる能力を持っていた。
「ザード、そんなに怒るなって!」
バギルは再度笑い掛けた。
ザードは拗ね続けているらしい表情で、バギルを軽く
睨んだ。
だが、穏やかに笑っている様にしか見えない糸目のせ
いで、全く迫力に乏しかった。
ザードは睨む事を諦め、自らもまた横たわる様に湯の
中に沈み込んだ。
バギルよりは幾分細く痩せ気味の体が、赤濁の湯の中
を見え隠れした。
「ホントに久し振りだねー。」
湯の温もりに心地良さそうに息を吐き、ザードは話し
掛けた。
「……半年振りか。」
ふと、バギルは遠い目をした。
バギルは2年程前から、冥王ヴァンザキロルの下に弟
子入りし、冥界で武術の修行に励んでいた。
冥王の桁外れの強さに惚れ込んだバギルが強引に弟子
入りしたのだが、冥王も武術指南の真似事は満更でもな
いらしかった。
半年に一度休暇をもらい、バギルはダイナ山脈南端の
自分の神殿へと帰省するのが習慣となっていた。
「あっと言う間だなぁ……。」
この半年間の修行を思い返し、バギルは溜め息をつい
た。
――そこに。
不意に、小さな揺れが辺りを襲った。
湯が俄に波打ち、周りの岩を叩いた。
「地震?」
ザードは不安げな表情で周囲を見回し、バギルの腕を
掴んだ。
だが、揺れはすぐに治まり、再び辺りに静けさが戻っ
て来た。
僅かな間を置いて、今の地震について心配は無いとい
う旨のホテルの放送が流れ始めた。
放送を聞き流しながら、バギルは露天風呂からも眺め
られるダイナの山並みへと目を向けた。
夜の闇に沈む峻険な山々は、三つの月と星々のささや
かな光を受けて茫洋と浮かび上がるのみだった。
「そういや、最近変な地震が多いってウチの神殿の連中
が言ってたな。」
火山帯が地下を走っている為、ダイナ山脈の近辺は地
震が多い事でも有名だった。
だが、灼熱神の知覚は、火山活動の気配を微塵も捉え
てはいなかった。
彼の見立てでは、ここ四百年程は小さな噴火すらこの
地では起こらない筈だった。
「大丈夫だよ、ね?」
ザードはまだ不安気な表情でバギルを見た。
小さな地震の一つで首を傾げている灼熱神の様子に、
漠然とした不安を感じていたのだった。
「――おうっ!この俺様が保証するぜっ!」
自信に満ちた笑みをザードに向け、バギルはザードの
頭から湯を浴びせかけた。
「なっ、何するんだよぉ!」
湯船から立ち上がり、情けない声を上げながらザード
は尚も浴びせられる湯から逃れようとした。
「――もぉっ!」
子供染みた動作で腕を振り回し、ザードはバギルへと
反撃を始めた。
「――きゃぁぁっ!」
不意に、彼らの背後で小さな悲鳴が上がった。
「……ごっ、ごめんなさい……。」
ザードが慌てて振り返ると、二人の入る湯船の近くに
設けられた通路にまで、湯の飛沫が飛び散っていた。
ザードが更に顔を上げると、ずぶ濡れになった女性の
姿が目に入った。
「……あれ?ゴレミカ…様?」
湯に濡れた顔を掌で拭ってバギルが目を向けると、見
覚えのある後ろ姿が佇んでいた。
腰まで届く、緩やかに波打つ豊かな髪。頭の両端でそ
れを結わえた、古式の文様を刻印した髪飾り。
ただ、この日は珍しく宿の浴衣を身に着けていたのだ
が。
「すみません、大丈夫ですか?」
ザードは浴衣の裾から湯を滴らせるゴレミカを心配そ
うに見上げた。
「ええ……、お気遣い無く。」
過去と哀しみの女神は別段取り乱した風も無く、穏や
かに応えた。
もし顔がこちらを向いているのであれば、優雅な微笑
を浮かべているに違いない。
「珍しいなぁ。湯治っスか?」
余り礼儀をわきまえているとは言い難いバキルの問い
にも、ゴレミカは気分を害した様子も無かった。
「ええ……。暫く静養に。――とてもいい土地ですね、
ここは……。」
微笑んだのだろうか。
空気が柔らかに震える気配があった。
「それでは。」
「あ……ども。」
やはりゴレミカは後ろ姿のまま、ゆったりとした歩み
でバギル達から遠ざかっていった。
◆
「なーんか、匂うぞっ。」
バギルは食事を終え、ロビーへと歩く途中で立ち止ま
った。
「何がぁ?」
その横でザードは不思議そうにバギルに尋ねた。
「あのゴレミカが里に滞在するなんて滅多に無い事だぜ
っ!絶対、何かあるっ!」
ゴレミカは常日頃から他の神や、ましてや人間の前に
姿を現す事は滅多に無かった。住所は神国神殿となって
はいるものの、そこですら姿を見る事は殆ど無いといっ
てよかった。
ゴレミカの滞在目的をあれこれ推理している幼馴染み
を横目で見ながらザードは小さく溜め息をついた。
バギルは何か事件があったらそれに首を突っ込みたい
だけなのだろう。
ゴレミカの部屋番号を尋ねにフロントへ足を向けたバ
ギルの後を、ザードは呆れながらもついて行った。
◆
受け付けで尋ねたところ、ゴレミカは外出したと告げ
られた。
「――行き先ですか?そうですねえ。よく山の向こうに
出掛けておられる様ですが……。」
受け付けで話を聞き、バギル達は早速宿の裏庭へとや
って来た。
裏庭にはよく手入れの行き届いた植え込みから、原生
の山林へと続く遊歩道があった。それはまた、ダイナの
山々へと続く道でもあった。
「ねぇ、もぉ帰ろうよぉ……。」
ザードの訴えも、好奇心と野次馬根性の塊と化したバ
ギルには届かなかった。
「大丈夫、大丈夫!」
一体、何が大丈夫なのだろうか。
「ほらっ、早く来いよ!」
仄暗い照明に浮かび上がる山道を、早くもバギルは駆
け上がり始めた。
「はいはい……。」
ザードは肩を落とし、呆れた様に息を吐いた。
バギルの俊足に追い付くべく、ザードは飛翔型の幻獣
を召喚して跨がった。
幻獣――それは幻神がその能力をもって創造する疑似
生物だった。
不規則な楕円や流線から構成される幻覚的なデザイン
を持つその創造物は、主の思念によって誕生し、その命
令に絶対の服従を行った。
一度創造された幻獣は、破壊されない限り異次元空間
に保管され、主である幻神の求めに応じて地上へと召喚
されるのだった。
およそ飛ぶ事とは無縁としか思えない、胴体よりも遙
かに長い突起を幾つも伸ばし、幻獣は主を乗せて羽ばた
いた。
奥へ進むにつれ、小綺麗に整備された石段は獣道へと
変わり、足元を照らす照明は下界へと遠ざかった。
この名前ばかりの道が、現在では殆ど使われる事のな
い、昔の街道の名残だという事をザードは知る由も無か
った。
冥界での鍛練の賜物か、月明かりが僅かに差し込むだ
けの山道を、バギルは苦も無く駆け抜けていった。
呼吸一つ乱れていない様子に、ザードは感心した。
と同時に、疑問や驚嘆がない混ぜになった感情をザー
ドは抱いた。
あのたおやかな女神は本当にこの道を進んで行ったの
か?・・事実であれば、女神の能力に驚かずにはいられ
ない。
暗がりでよくは分からなかったのだが、山を一つ越え
たと思われる場所で、バギルとザードは一つの立て札を
目にした。
『過去と哀しみを司る、我が名はゴレミカ。この名の下
に、これより先への立ち入りを禁ずる。』
照明も無い夜の山中で、大きな金属板に刻印された文
章だけが、妖しい光を放っている様だった。
何かしらの呪力が封じ込められているらしい文様と文
章は、心理的な圧力を掛ける為の一つの装置だった。
「ゴレミカの使用地か。」
バギルは立て札の威圧感に臆した様子も無く、更に奥
へと続く道を眺めた。
ダイナ山脈一帯は灼熱神の領地となっていた。
勿論、領地といっても独占している訳ではなく、山中
には様々な神々や精霊達が住んでいるし、幾つかの集落
もあった。
また、ダイナ山脈に限らない事だが、幾つかの場所に
ついてはゴレミカの様な位の高い神が、何かしらの理由
があって特権的に使用を認められていた。
大抵が、地上に害をなす存在――邪神や魔物などの封
印に関連していたのだが。
「ねぇー、もぉ帰ろぉよぉーっ。」
立入禁止の立て札に怯え、ザードは幻獣の上からバギ
ルの腕を引っ張った。
「――そうだな……。でも、折角ここまで来たんだし、
もうちょっと奥まで見ていこうぜ。」
好奇心の塊と化した幼馴染みに、ザードは肩を落とし
た。
こういう高位の神々の特権的な使用地と言えば、魔物
の封印場所と相場が決まっている。
一体どんな恐ろしい存在が封じられているのか分かっ
たものではないのに。
内心あれこれと文句を並べ立てながらも、ザードは幻
獣ごとバギルの背中にくっついて離れようとはしなかっ
た。
ザードの怯えは長くは続かなかった。
立て札を越えて暫く行くと、夜の闇の中を横切る淡い
光の帯が二人の目に入った。
ゴレミカの施した結界の光の壁だった。
「もぉ、これ以上は進めないね。」
ザードはほっとした様に息を吐き、バギルを見た。
だがザードの糸目に映じたのは、先刻までの好奇心に
満ちた野次馬ではなかった。
「――この封印、弱まってるぜ……。」
バギルの真剣な視線が光の壁に注がれていた。
綻び、弱まり始めていた結界壁のエネルギーの様子と
――壁の内側と外側から流れてくる禍々しい気配が、バ
ギルの知覚に捉えられた。
結界の内側から漏れ出している邪悪な気配に惹かれて
来るのだろう。
誘蛾灯に惹かれる羽虫の様に、結界の綻びを目指して
這い寄るものの気配があった。
「……!」
バギルは庇う様にザードを背後に押しやった。
幼馴染みの真剣な表情への変化に、ザードも覚悟を決
めた。・・やれやれと、一つ溜め息をついた後に。
◆
下草の茂みを割って木々の間を歩いて来る音がした。
何か鱗の様なものに覆われているのだろう。それが歩
みを進める度に、硬質の金属が擦れ合う様な響きが起こ
っていた。
結界の柔らかな光を受け、暗い無数のきらめきを纏っ
た獣が姿を現した。
普通の獣には似つかわしくない、破壊と殺戮を渇望す
るぎらぎらとした目の輝きが、それが魔物である事を物
語っていた。
「へえっ?仲々大物がやって来たじゃねえかぁ?」
半ば楽しむ様な感情がバギルの声に滲んでいた。
「お前はここを動くなよ!」
バギルの言葉にザードは大きく頷いた。
先手必勝。
魔物はそう判断したのか、牙までも鱗に覆われた口を
開き、バギルへと襲いかかった。
きらめきをまとった斬線が宙を走り、魔物の牙がバギ
ルへと炸裂した。
「!」
衣服一枚を裂けさせるに留めて身を躱し、バギルは炎
の矢を放った。
――が、灼熱の矢は鱗の表面を僅かに焦がしただけだ
った。
再びバギルへと向かって来るかと思われたが、魔物は
唸り声を上げて結界壁へと突進して行った。
バギルへの殺戮よりも、邪気へと惹かれる本能が勝っ
たらしかった。
鱗に覆われた拳が光の壁を叩き続けた。
「ちっっ!」
バギルは何度か炎の矢を放った。
しかし炎は空しく魔物の鱗を撫でるのみで、既に魔物
はバギル達の事など忘れ果てた風だった。
魔物は声一つ上げる事無く、ひたすらに結界壁を殴り
続けていた。
そうする内にも、壁の一部に歪みが生じ・・魔物の拳
が壁の向こうへとめり込んだ。
バギルの表情に焦りが走った。
このまま結界を破壊させる訳にはいかない。
バギルは素早く自らの拳へ精神を集中した。
「ザードッ!離れてろよっ!」
バギルの声に、ザードは幻獣に乗ったまま、慌てて数
歩分後退した。
精神の集中に伴い、バギルの拳は瞬く間に白炎に包ま
れた。
「うぉぉぉっっっ―――っっ!」
拳は灼熱の弾丸と化して魔物へと飛んだ。
魔物の鱗を難無く破り、体内へと放たれた炎熱は魔物
の内臓を瞬時に焼き尽くした。
――だが。
焼け崩れるかと思われた魔物の体は、体内の何かの物
質に引火したのか、激しい爆発をもたらした。
結界壁にめり込んだ腕の爆発は、綻びかけていた結界
を一気に引き裂いた。
「ぅわぁぁぁっっ―――!」
歪み、引き裂かれていく結界は、周囲の空気を動揺さ
せ、突風を巻き起こした。
幻獣から振り落とされ、ザードは地面へと叩き付けら
れた。
「ザードっっ!」
激しい爆煙の直撃を浴びながらも、傷一つ負っていな
いバギルは慌ててザードの元へと駆け寄った。
灼熱のマグマの流れを司る彼にとって、この程度の爆
発など微風に等しかった。
気絶したザードを抱え起こしたところで、バギルは背
筋に悪寒を感じて背後を振り向いた。
ゴレミカの施した結界の戒めを解かれ、壁のあった彼
方から、何かが弾き出される気配があった。
恐らく、この結界の内側にも何重かに封印の為の壁や
設備が設けられていたのだろう。
それらが、この場所の結界壁が無理に破壊された為に
均衡を崩し――連鎖反応的に崩壊した。
底知れない暗黒の一塊は、禍々しい気配を垂れ流しな
がらも尚、夜の闇の彼方で留まっていた。
◆
気を失っていたザードの意識の中に、潜り込んで来る
ものがあった。
「――――か……?」
耳元で囁き掛けて来る様な、誘惑の微かな声。
力が、欲しくはないか?
不安に付け入る様な、或いは全ての欲望を見透かして
いるかの様な囁きだった。
――苦悩し、不安に苛まれる者にこそ、力は与えられ
るべきなのだ。
それは、封印の中身からの呼び掛けではなかったのか
も知れない。
ザードは無意識の内に、封印の中身が何であるかを感
じ取っていた様だった。
無力で脆弱な自分の能力を、それは補い高める事が出
来る。
邪で大きな力を前に、ザードの内の欲望が触発された
のだろうか。
――独り成り。
ザードの欲望か、封印の中身か。暗い呼び掛けはザー
ドの意識を刺激し続けた。
独り成り――ザードには確かに大きな力を渇望する苦
悩と不安が内在していた。
神の身でありながら、幻神は塵芥の様に自然発生する
低級な神だと、一部の高慢な神々や人間達に見做されて
いた。
独りでに生まれる「独り成り」と蔑称され、差別を受
ける事もあった。
今でこそ、差別と蔑視は一部の地域に留まりつつある
のだが、それでも尚、幻神には差別やそれによる孤独の
影が付きまとっていた。
――孤独。
灼熱神バギルは、ザードが幼い頃からの友達だった。
しかし、バギルは冥王ヴァンザキロルの下へと修行に
去って行った。
――彼は、友と過ごす事よりも、自分の力を伸ばす事
を選んだのだ。
拭い去り難い孤独への不安は心の奥底に沈潜し、ザー
ドの心を苦しめ続けた。
結局、幻神の自分は独りで、誰からも取り残されるの
だろうか?
「力を……。」
無意識の中で、ザードは夜の闇の向こうへと手を伸ば
した。
ザードの呟きを逃さず、封印されていたものは掌中へ
と飛び込んで来た。
どんな闇よりも尚深い、遠い彼方からやって来た黒。
一瞬にして掌からザードの体内へと溶け込んだのは、
半分に欠けた漆黒の神霊石だった。
それは、六百年前にゴレミカによってこの土地に封印
された、あの異形の脳髄の神のものだった。
程無くして、ザードの眉間の瞳を鋭い痛みが貫いた。
痛みと同時に、頭の奥深くへと侵入してくる物の気配
があり、激しい頭痛と吐き気が起こった。
「うぐっっ、――うぅっ……。」
「ザードッッ!?」
気絶したままもがき始めたザードにバギルは焦った。
すぐにザードの変調は治まったが、バギルはザードを
抱き上げると、元来た道を引き返していった。
こんな事になるのなら、来るのではなかった。
後悔の念に心を傷め、バギルは矢の様に山道を疾駆し
た。
破壊された結界も、その中身がどうなったかも、バギ
ルの頭からは抜け落ちてしまっていた。
◆
ゴレミカが同じ場所を訪れたのは、バギル達が立ち去
ってから数刻の後だった。
破壊された結界より何より、封印されていた神霊石が
失われていた事に女神は驚愕した。
「ああ……、もっと早くに来ていれば……。」
結界の境目に出来た爆発の窪みと、飛散する魔物の焼
け焦げた肉片。
ここで何が起こったのか、ゴレミカは過去透視の宝珠
を放って情報を得た。
「ヒウ・ザード……。あの神が。」
数刻後の未来にありながら、ゴレミカはこの場で起き
た事の、無意識の領域までをも知り得たのだった。
もっと早くに来ていれば。
ゴレミカはもう一度深く悔やんだ。
六百年の時間を経て、結界を支えるエネルギーは消耗
していた。再び結界を設ける準備の為に、ゴレミカはこ
の土地に滞在して体力と精神力を蓄えていたのだった。
驚愕と後悔に乱れる心をなだめながら、ゴレミカは結
界のあった場所を越えて、封印の中心部へと進んでいっ
た。
この場所には、まだ結界を構成していたエネルギーの
残滓がくすぶり、あちこちに小さな稲光が噴き上がって
いた。
封印の中心部も確かめておかなければならない。いず
れにせよ、この場を放置したまま立ち去る事は出来なか
った。
まあ、いい。神霊石を持ち去った者は分かったのだか
ら。
ゴレミカはそれだけを慰めに足を進めた。