第1章「昏い処」
この世界に存在している一切の物質に内在し、その現
象の全てを支配しているエネルギーがある。
そのエネルギーは無数の流れを形成し、世界を川の様
に巡っている。
その場所は地下であったり、遙かな上空であったりす
る。その流れは、レイラインと呼ばれている。
レイラインは時に渦を作り、時に四方へと飛散する。
その地点は集束点と呼ばれ、特に生命力に溢れた土地
となっている。
しかし一方で、レイラインは憎悪や怨念と言った負の
エネルギーの流れも形成している。そうしたエネルギー
は集束点から地底へと流れ込み、虚空と呼ばれる異界へ
と続き、その果てで浄化される。
だが、時に淀んだ流れの中から邪悪な神や魔物が誕生
する事もあった。
◆
光とも煙ともつかない黒い物が激しい渦を巻く中で、
無数の怨嗟と絶叫が響き渡っていた。
神々や人間達から吐き出された諸々の欲望や執念。
レイラインの流れに乗り、この地上ではない遠く昏い
遙かな虚空の果てへと去り往くべきそれらは、本来の流
れに逆らって地上に溢れ出そうとしていた。
犯したい。食いたい。壊したい。殺したい――――
もはやそれらは抱いていた者達から離れ、理性や常識
の制約も受けず、純化された激しさと毒々しい輝きだけ
を垂れ流すのみだった。
やがて。
ばらばらに放出されていたそれらのエネルギーは、次
第に一つの形を取ってまとまり始めた。
――……たい。……生きたい。
激しい欲望のエネルギーは、一つの言葉――一つの想
念の絶叫としてまとまっていった。
――生きたい。……生まれたい!
暗黒の渦が絶叫の雷鳴を伴って、ただ一点へと収束し
た。
濃緑の光と香りに満たされた、森の淨寂の風景へ、一
筋の亀裂が走った。
次元に穿たれた暗黒の穴を押し破り、黒血を思わせる
闇が滴り落ちた。
常緑の下草に覆われた地面を汚す闇の血を先触れに、
漆黒の煙を噴き上げながら、その者はこの地上へと産み
落とされた。
それぞれがばらばらに渦を巻いていた欲望と執念のエ
ネルギーは、一つの「我」を持つ存在として結晶した。
――「我」………「我」は、レウ・ファー。
虚空の深淵へと沈むべき、神々や人間の欲望や執念か
ら生まれた神。
闇よりも尚、昏く深い虚空の流れの中から独り、成り
生まれた神。
そして、地上の神々と人間の営みから遙かに離れた彼
方から来た神。
球状の脳と、それを覆う無数の触手。前頭葉から覗く
一つの眼球。それがレウ・ファーの姿だった。
「私は、生きたい。」
己を形作った欲望そのままに、レウ・ファーは生まれ
て初めての言葉を紡ぎ出した。
言葉の響きと同時に、レウ・ファーの脳裏には、自ら
の生命の素材となった欲望や執念に、残滓の様に付随し
ていた様々な知識や感情が入力されていった。
そうした知識は、前頭葉の眼球を通じて入ってくるこ
の森の中の様子を凄まじい速度で意味付けしていった。
だが、レウ・ファーがこの世界全てを理解し、自らの
存在を理解し切るには余りにも情報が乏し過ぎた。
「欲しい。」
世界を、自分を理解する情報を。
世界そのものを。
「何が欲しいのですか?」
未だ森の中に漂う昏い気配を打ち払う様に、ゴレミカ
の澄んだ声が響きわたった。
自分へと向けられた声に反応する行動は、まだレウ・
ファーの中に確立されてはいなかった。
なニガほシいノデスか。ゴレミカの呼び掛けも、まだ
音声の組み合わせに過ぎなかった。
ゴレミカはその神の余りの無反応ぶりに、暫くの間当
惑した。
――森。緑。光。空気。水。虫。鳥。木。花。
レウ・ファーは触手をうねらせながら、暫くの間宙を
漂っていた。
ゆっくりとした回転をしながら、眼球は辺りの景色を
眺めていた。その瞳に捉えられた様々な物や現象は、瞬
く間に分析され、整理されていった。
僅かの時間の内に、驚くべき速度でレウ・ファーの自
我は構築されていったのだった。
レウ・ファーは初めて、近くに佇む後ろ姿の女神へ目
を向けた。
「オマエ――お前。……そうか。お前は私ではないのだ
な。――ここの全てのものは私ではないのだな。」
自己の認識と確立。それは、この世に生まれ落ちた者
が最初に陥る絶望だった。
我と彼。自分と自分でないものの認識――この世に生
まれ落ちる前、世界は彼我の区別も無く、「私」は世界
の全てと等しく、世界は「私」そのものであった。
「私は、欲する。」
欲望の宣言は、レウ・ファーにとっての産声だったの
だろうか。
この世に誕生し、「私」は世界から切り離されてしま
った。
私と、私ではない者達。世界はあまりに巨大で、不可
解で、広大なのに――そこから切り離された「私」は余
りに小さ過ぎる。
自己の拡張――己の周囲を認識し、理解していく事は
「私」と世界との再合一に他ならなかった。
世界が再び「私」となり、「私」が再び世界そのもの
となる為に。
「私は、欲しい。」
世界を、自分を理解する情報を。
世界そのものを。
「あなたは……。」
繰り返される呟きにゴレミカは戦慄した。
この神が何を望むのか、何が欲しいのか。
あまたの命の営みを見守り続け、永遠にも近い遙かな
時間を生き続けてきた哀しみの女神は、この目の前に浮
遊する脳髄の神の願いを理解した。
意識ある全ての存在が抱く根源的な絶望と欲望は、し
かし、虚空の暗黒の流れの中に晒され、余りにも異質で
邪なものへと歪んでしまっていた。
「私は、欲しい。」
レウ・ファーは、周囲の木々や地面に幾筋かの触手を
伸ばした。赤味がかった細い管は先端から透明な粘液を
滴らせ、木の肌や石の表面に付着するとそこから変質が
始まった。
触手の食い込んだ木や岩は、無数の血管の様な筋を表
面に浮かび上がらせていった。
すぐにそれは、金属的な光沢を帯びた肉塊へと変化し
た。
「何と……言う事を!」
ゴレミカは驚きよりもむしろ、哀れみに満ちた声を漏
らした。
「オマエもワタシになれ。」
触手の一本がゴレミカへ向けて放たれた。
よけようともせず、ゴレミカは舞う様な優雅さで手を
上げた。
白く繊細なその掌中にあったのは、澄んだ光を発する
宝珠だった。
宝珠の輝きに阻まれ、襲い来る触手は稲光を撒き散ら
して消滅していった。
「……哀れな、虚空の地平から生まれ来た神よ……!」
透き通る様な二つの繊手が花の様に広げられ、尚も繰
り出されて来る幾本もの触手に向けられた。
繊指の間には、小振りな宝珠が輝いていた。
宝珠術――念を込めた宝珠により、様々な現象を発現
させる技術だった。非力なゴレミカの最も得意とする技
だった。
「あなたの、その命の在り方は、この地上を破滅させる
のです……。」
ゴレミカは手を振り上げ、踊る様に宝珠を放った。
手を離れた瞬間、辺りの空気は宝珠の放つ無数の色彩
で溢れ返り、レウ・ファーを取り囲んだ。
前頭葉の眼球が一瞬痙攣し、血走った目が剥き出しと
なった。
レウ・ファーはその時、恐怖と驚愕という感情を学習
した。
抗う間も無く脳髄の神は、宝珠の光が形成する輝く檻
の中に捕縛された。
「苦しい。」
光の檻の中で触手がのた打ち、脳髄は収縮と怒張を繰
り返した。
「その苦しみも、すぐに終わります……。」
光の檻の前で、ゴレミカは幼な子を諭す様に囁き、懐
からもう一つ宝珠を取り出した。
「封印の中で、永遠にお眠りなさい……。――夢も見な
い程に深く……。」
ゴレミカの囁きに反応し、宝珠に光が宿った。
「ォォォッッ――!」
レウ・ファーは自身ですら未知の力を振り絞り、檻の
中であがいた。
檻の外へとはみ出した触手を通じ、まだレウ・ファー
と繋がって変質した木々や岩が更なる変化を始めた。
木や岩だった肉塊に、巨大な瞳の様な模様が次々に浮
かび上がった。
電子回路を連想させる金属の筋が肉の表面を縦横に走
り、動物の様な伸縮を始めた。
それは新しい命を得たかの様に動き始め、肉の管と変
わり果てた木の枝をゴレミカへと叩き付けた。
微風を受ける様に悠然と、ゴレミカは僅かな動きで管
を躱した。
「ォォ――ォッッ――!」
変質した木々や岩だった肉塊は、更に周囲へと肉の管
や触手を伸ばしていき、辺りを赤黒い金属質の肉塊へと
変えていった。
脳髄の神は絶え間無い伸縮を繰り返し、檻の外の肉塊
に命令を送った。
宝珠を一つでも砕けば檻は破壊出来る。
そう分析したレウ・ファーは、木の原型を留めない程
に変質した、蛇の様な肉の管を宝珠に絡み付かせた。
「いけないっ……!」
宝珠に絡み付いた肉の管が小刻みに震え、打ち砕こう
と力んだ。
慌ててゴレミカが封印の宝珠を投げ付けたと同時に、
宝珠の一つが砕け散った。
光の檻に亀裂が生じ、その隙間をめがけて内と外から
無数の肉の管と触手がたかっていった。
レウ・ファーが、こじ開けた穴から急いで這い出た瞬
間、封印の宝珠が崩れかけた光の檻に衝突した。
まばゆい白光が森の中を走り抜け、辺りは一瞬、白銀
の閃光の中に呑み込まれた。
◆
光の退いた後、再び森の風景が甦った。
一つ目の脳髄は、力無く下草の上に横たわっていた。
そのすぐ上には、掌程の大きさの妖しく輝く球体が浮
かんでいた。
闇の色そのものの、漆黒の輝き。
それは心臓の鼓動を思わせる点滅を繰り返していた。
脳髄の神そのものの、昏い気配を辺りに撒き散らしな
がら、その球体はレウ・ファーの元へゆっくりと下降し
ていった。
その球体――神の生命力、神霊力そのものの結晶、神
霊石は、再びレウ・ファーと同化すべく脳髄の中へと溶
け込もうとしていた。
「……せめて、神霊石だけでもっ……!」
閃光に眩んだ目を押さえながら、ゴレミカはレウ・フ
ァーの許へ歩み寄った。
ゴレミカの放った封印の宝珠は失敗し、レウ・ファー
から神霊石を分離させるだけに留まったのだった。
「ァァッッ!――ッッ……!」
絞り出す様に呻き声を上げ、レウ・ファーは頼り無げ
に神霊石へと触手を伸ばして縋り付いた。
「しまった!」
ゴレミカも慌てて漆黒の神霊石へと手を伸ばした。
「くッ、来るなァァっっ!」
レウ・ファーは残された力を振り絞り、まだ自分に繋
がっている周囲の肉管をゴレミカへと叩き付けた。
「きゃぁぁっっ――!」
背後から力任せに殴り倒され、灌木の茂みにゴレミカ
は頭から突っ込んだ。
服に絡み付く木の枝を掻き分けて、這い出ようともが
くゴレミカへ肉の管が更に襲い掛かった。
ゴレミカは瞬く間に体の自由を奪われてしまった。
「――これは、私の…物だ……。」
脳が震え、喘ぐ様な声がゴレミカの耳に届いた。
レウ・ファーはゆらゆらと宙に浮かび上がり、己の神
霊石へと覆い被さった。
神霊石は微細な震動を始め、じわじわとその輪郭を失
っていった。
その変化に気付き、ゴレミカは焦りを覚えた。
細い腕が、赤黒い肉管に締め付けられた中で懸命にあ
がいた。
「うぅっ……。」
そうする内に、衣の懐から幾つかのきらめく粒が、地
面へと零れ落ちていった。
落とすまいと手を動かし、ゴレミカが辛うじて掌中に
留めたのは「爆発」を起こす宝珠だった。
自分の神霊石の吸収へと注意を奪われたのか、ゴレミ
カを絡め捕っていた肉管の力が幾分緩んだ。
見ると、啜る様に震える脳髄の中に、神霊石が半分近
く呑み込まれようとしていた。
「!」
管に腕の動きを阻まれて投げ付ける事も出来ず、ゴレ
ミカはボーリングの要領で宝珠をレウ・ファーへと転が
した。
緩やかな動きで、ささやかな一筋のきらめきは、脳髄
の神へと迫った。
貪る様に神霊石を啜る彼の神は気付きもしなかった。
脳髄を取り囲んだ触手のうねる間近に宝珠が到達した
時、ゴレミカの念を受けて爆炎が巻き起こった。
「――ギァァァ、……ッッッ――ォォッッッッ!」
絶叫と悲鳴が、炎と共に飛散した。
べしゃっ、と湿った重い音が何処かの岩肌に叩き付け
られた。
それからすぐに別の方向から、小さな何かの塊が地面
へと落ちる音がゴレミカの耳に届いた。
主からの指令を失い、もはや身動き一つしない醜い肉
の塊に成り果てた管を振り解くと、ゴレミカは音の起こ
った方向を目指した。
ゴレミカが暫く歩くと、先程の爆発で吹き飛ばされた
神霊石は、濃緑の下草の上で、闇そのものの様な漆黒の
輝きを放っていた。
その辺りにはまだレウ・ファーの浸食は無く、清浄と
静寂に支配された森の風景があった。
神霊石の闇の輝きは、しかし半分に損なわれていた。
「こっ、これは……!」
レウ・ファー本体へと吸収半ばで引き離された神霊石
は再び物質化していたが、それは丁度、ガラス玉が砕け
たかの様に半ばから欠けた姿を晒していた。
ゴレミカは急いでそれを拾い上げた。
心の底から絶望と虚脱に冷え切っていく様な、あるい
は怨念と憎悪に焼き尽くされていく様な感覚が、ゴレミ
カの指先を刺し貫いた。
あの神は何処へ?
欠けた神霊石を抱え、ゴレミカは辺りを見回した。
――レウ・ファーの姿は、神霊石のあった場所からや
や離れた木立の中にあった。
照葉樹の若木が幾本も根を食い込ませた岩肌に、黒い
血と半透明の真紅のゼリー状のものが糊塗されていた。
緑と土の色の濃淡で築き上げられた森の光景を汚すか
の様に、闇と血の撒き散らされた中心に一つ目の脳髄は
あった。
「もう――お眠りなさいね……。」
尽きる事無く懐から宝珠を取り出し、ゴレミカは再び
封印の為の宝珠を手に身構えた。
「――ォォォォッッッ!……ォォォォッッッ!」
ゴレミカの姿を認め、レウ・ファーは血走った眼球を
極限まで見開いた。
半ば脳の形は崩れ、半透明の中身が漏れ出していた。
レウ・ファーは残された力を振り絞り――空高くへと
飛翔した。
逃げるレウ・ファーへと、森の木漏れ陽を受けた八つ
のきらめきが追いすがった。
――だが、触手へと触れる寸前で、宝珠は地面へと失
速した。
「――ああ……何と……っ!」
ゴレミカは落胆の声を上げた。
脳髄の神の姿は紺碧の空へと遠ざかり、鮮やかな青い
色彩の中の暗黒の一点と化した。
それはすぐに霞み――空を渡る微風に洗われたかの様
に、何処へともなく消え去ってしまった。
後には落胆に立ち尽くす女神の後ろ姿と、主を失って
壊死をし始めた肉塊と管の山が残された。
ゴレミカは知らず、あの神の神霊石を強く握り締めて
いた。
再び掌を襲う、刺す様な感覚に視線を落とすと。
ひたすら深く、黒い石の輝き。
触れているだけで、掌が黒く染まっていくかの様な錯
覚があった。
この地上の世界ではない、遙か彼方の、昏く何処まで
も深い地平へと続くべき黒。
虚空の深淵の、全ての尽き果てた場所へと押し流され
る筈だった諸々の昏い想念の一掬い・・・・
そこから、あの禍々しい脳髄の神は生まれ出た。
他の命を・・世界の全てを侵し、蝕もうとする剥き出
しの・・余りにも純化された欲望と執念の結晶。
彼は、この地上に来るべきではなかった。
神霊力が半減したとは言え、やがてこの地上に災厄を
もたらす存在になるかも知れない。
ゴレミカの懸念は六百年後、現実のものとなった。