第11章「虚ろな闇」
闇の中を――闇が流れていた。
憎悪、怨念、狂気、怒り、そしてそれらから発する苦
悶と絶叫と。
何処に源を発し、何処へと行き着くのか。
絶え間無い喧騒と、絶叫の飛沫を上げ続ける巨大な奔
流は、暗黒の深淵を下り続けていた。
流れの傍らに立ち、それを見守る女神の姿があった。
女神は、赤味がかった黒い色のドレスを纏い、白いフ
ードを頭からすっぽりとかぶって、暗黒の瘴気から身を
守っていた。
フードの隙間から流れる金髪だけが、一片の光のかけ
らも存在していないこの虚空で、妖しく眩しい光を放っ
ていた。
女神の名は、虚空神――フィアン。
フードから覗く紺碧の双眸は、広大無辺の虚空の暗黒
の流れの全てを見通していた。
「――やはりね。」
濡れた艶を帯びた紅い唇が、呟きを漏らした。
神や人の生み出した憎悪や怨念のエネルギーは、レイ
ラインの流れに乗り、やがて地底深くへと流れ込んでい
く。
それらは虚空と呼ばれる異次元へと続き、その果てで
浄化されるのだった。
フィアンの瞳は、その流れの一部が乱され、そのエネ
ルギーが地上の世界へと逆流している様子を知覚してい
た。
「どうして誰も、流れに身を任せる事を知らないのかし
らね……。」
フィアンは物憂げな視線を虚空に這わせた。
ゴレミカから、レウ・ファーの封印が破られたという
知らせを聞き、虚空のエネルギーの乱れの原因も既に見
当が付いていた。
レウ・ファーの神国への造反に合わせて、虚空の流れ
にも乱れが生じていた。
あの神をこのまま放置しておくのは、余りにも危険過
ぎる・・。
「さて、どうしたものかしらね……。」
フィアンは思案を巡らせながらも、一度地上へと帰還
する事にした。
◆
フィアンが目を開けると、そこは、神国神殿本殿の中
にある見慣れた自分の部屋だった。
金糸銀糸を織り込んだソファに身を沈め、ドレスから
伸びた素足が毛足の長い絨毯に触れる感覚が、フィアン
に甦ってきた。
天井から吊り下げられた大小様々な水晶球が、フィア
ンの姿を映し出していた。
「……ッッ!」
地上への帰還に、安堵の息を漏らすと同時に――フィ
アンの心臓を激痛が貫いた。
激痛は心臓だけに留まらず、全身を駆け巡った。
全身を刺し貫くかの様な苦痛は、フィアンの呼吸をも
妨げたのだった。
「あ……ッ!ッ……ぐぅッ!!」
酸欠に何度も口を開き、胸を掻きむしりながらフィア
ンはじゅうたんの上でうずくまった。
「――フィアンッッ!大丈夫かッ!?」
擦りガラスを嵌め込んだ部屋の扉が、乱暴に開かれる
音が響いた。
その呼び掛けに、やっとの思いでフィアンが顔を上げ
ると、小柄な少年神の姿があった。
「この様な体で虚空に潜るとは、全く――何という無茶
をする……!」
呆れた様な口調の中に、しかし、いたわりの感情が滲
んでいた。
真っ直ぐに流れる銀髪の上には、光沢のある布地でし
つらえられた冠の様な帽子が戴かれていた。
その華奢な手には、星々の運行を刻印した円盤を付け
た杖が握られ――何処かの国の王子の様な雰囲気を醸し
出していた。
極のエンフィールド――天空の星々の運行を司る神。
不老の少年の容貌を保ち続ける星の神は、虚空神フィ
アンのかつての夫だった。
少年の姿を保ってはいても、神々の年齢では既に老境
に差しかかっていた。
「大…丈夫……。直ぐに……治まるわ……。」
冷たい美しさに輝く顔が、ずり落ちたフードの下から
現れたが、その声は老婆の様にしわがれていた。
その言葉通り、痛みは暫くの後に退き、フィアンの顔
色も元に戻った。
「――珍しいわね、あなたが来るなんて。今日は何の用
かしら?」
脂汗を拭い、フィアンはソファへと腰を掛け直した。
フィアンの冷めた問いに、エンフィールドは呆れ果て
た様に眉根を寄せた。
「お前という奴は……。虚空から戻って、開口一番がそ
れか?」
普段は物静かで、口数の少ないエンフィールドが、珍
しく強い調子で言葉を放った。
「別居中とはいえ、夫が妻の容体を心配するのは当然の
事だろう……!」
きつい調子を込めた喋り方に、フィアンは夫の癖を思
い出した。
「――仕事中じゃなかったの?」
フィアンが壁に掛けられた時計へ目を遣ると、まだ昼
を過ぎたばかりだった。
この時間、エンフィールドは星々の運行を司る神とし
ての仕事をしている筈だった。
「今日は昼から休みを取っていたのだ!後の仕事は、ソ
ローイェルやク=ヴァール達がしてくれる。」
そう言って、エンフィールドはフィアンに微笑み掛け
た。
が、フィアンは夫が一瞬、手にしている杖の星座板へ
目を落とした様子を見逃さなかった。
喋り方も、振る舞いも――隠し事がある時の癖は、何
一つ変わってはいなかった。
「――私の星を見たのね。」
フィアンは冷静に呟いた。
微笑みが歪み――エンフィールドは何か言い訳の様な
ものを言おうとした。
だが僅かに溜め息をつき、観念した様に口を開いた。
「ああ、見たとも……。お前の老化と、寿命を示す星の
動きを―――。」
若く美しい女の姿を保ってはいても、フィアンは既に
神々の感覚ですら、途方も無く長い年月を生きてきた。
だが、どれ程の時間を生きたとしても、老いと死は必
ずやって来る。
神としての能力も衰え、命の灯も燃え尽きる――フィ
アンもまた、その宿命からは逃れる事は出来なかった。
エンフィールドは少年の姿そのままの、真っ直ぐな目
を愛しい妻へと向けた。
「次の虚空神へと位を譲り、職から退いてその能力を使
わなければ、まだ幾らかは命が永らえよう……。」
まだ幾らか――それは、普通の神々にとっては、一生
にも相当する長さではあったのだが。
「……私は、このままお前を死なせたくはない……。」
エンフィールドの言葉にも、フィアンは表情を変える
事も無く、ゆっくりと歩み寄ってきた。
互いに向き合うと、エンフィールドの背はフィアンの
胸元にも達してはいなかった。
「虚空の流れの乱れは、正されなければならないわ。…
…これは、私の仕事なのよ……。」
柔和な笑みの奥に潜む、決然たる思いをエンフィール
ドは理解した。
星の運行と、虚空の流れと―――
エンフィールドもまた、万物の調和の一端を司る重さ
を知る神であるが故に、フィアンの決意を阻む事は出来
なかった。
◆
神山山脈を飛翔し続ける幻獣ファ・ジャウナの背で、
ファイオは失敗の屈辱に唇を噛んだ。
「深い闇」の採取はラノ、エアリエルと失敗を続けて
しまった。
――レウ・ファーは咎めるだろうか?
そんな事を思い浮かべ、ファイオは頭を振って否定し
た。
レウ・ファーは恐らく大して気にも留めないだろう。
寛容、というのではなく――何か、ファイオ達には思
いもつかないものを見ている様な所が、あの神にはあっ
た。
「深い闇」の採取も、もしかすると、レウ・ファーに
とってはどうでもいい事なのかも知れない。
「――でも、このままおめおめと帰れないワ!」
レウ・ファーへの忠誠などではない。
自分自身のプライドが、ファイオに無様な失敗を許さ
なかったのだった。
ファイオはファ・ジャウナの体を乱暴に掴み、空中に
停止する様に思念を送った。
眼下に広がる神山山脈の豊かな緑の景色を見下ろしな
がら、ファイオは他の「深い闇」の持ち主を記憶の中か
ら呼び起こした。
――昏く深い暗黒の淵に佇む、虚空の魔女神。
ファイオは大胆にも、神国神殿本殿へと飛ぶ様に幻獣
に命令した。
◆
「――フィアン、居るのか?」
レックスはノックもせずに、扉を開けた。
部屋の中へと足を踏み入れ――レックスの体は強張っ
た。
扉の先に待っていたのは、昏い美貌の虚空の魔女では
なく、白銀の長衣と冠とを身に着けた運命の星の神だっ
た。
「エンフィールド……。来ていたのか。」
レックスは苦笑いを浮かべた。
傍若無人に振る舞う若き西の火神が、フィアンに思慕
の念を抱いている事は、知る者ぞ知る事実だった。
実際には、茶飲み友達位にしかフィアンに相手にはさ
れていなかったのだが。
夫と別居中のフィアンの許へ足繁く通うレックスの存
在は、勿論、エンフィールドの知るところだった。
「ようこそ、レックス殿。」
エンフィールドは突然の来訪者にも、気分を害した様
子は全く無く、にこやかにレックスを奥の部屋へと招き
入れた。
「あ、ああ……。」
レックスはエンフィールドの後に付いて進んだ。
レックスの存在を疎むでもなく、フィアンに注意を与
えるでもない――尤も、茶飲み友達に一々目くじらを立
てる程、エンフィールドも幼稚ではなかったのだが。
血気盛んな若者にへつらうでもなく、かと言って侮る
訳でもない。
よく分からない、やりにくい相手――それが、レック
スのエンフィールドに対する認識だった。
「――あら、いらっしゃい、レックス。」
フィアンは奥の間で、ソファにもたれたままレックス
を迎えた。
こころなしか、疲れてやつれている様な印象をレック
スは抱いた。
エンフィールドに勧められるまま、フィアンの向かい
に腰を下ろした。
「今日はどうしたの?」
顔だけをレックスへと向け、フィアンは艶然と笑い掛
けた。
「――いや、大した用でもないんだが。――レウ・ファ
ーとかいう機械神が、神国に反乱を起こしたそうだ。何
でも、心の「深い闇」とかいう精神エネルギーを集めて
いるらしい。……ラノも狙われた。」
「――「深い闇」ね……。」
フィアンは妖しく澄んだ紺碧の瞳を伏せ、力無く溜め
息をついた。
レックスの話に、フィアンとエンフィールドの顔には
微かに緊張が走っていた。
「あんたは虚空の闇の女神だったよな……。もしかした
ら、レウ・ファー達が狙って来るかも知れない。」
レックスの言葉を聞きながら、フィアンは曖昧な微笑
を浮かべた。
深い海を思わせる碧の双眸が、精悍な火の青年神の貌
を映した。
この若者は、自分が思いを寄せる女神が、闇よりも尚
深い昏い世界に属していると、本当に理解しているのだ
ろうか?
「それで、君が護衛に来てくれたのか。」
エンフィールドは無邪気な笑みをレックスに向けた。
「まあ……、そんな所だ……。」
レックスはフィアンとエンフィールドを見比べながら
答えた。
いつもと調子が違い、居心地の悪い事この上も無かっ
た。
それから僅かな時間、レックスにとっては落ち着かな
い沈黙が続き・・やがて、それはフィアンの冷たい声音
で破られた。
「――出て来なさい。……今日は来客の多い事……。」
「あぁら、やっぱりバレちゃったぁ!?」
野太い声が答え――ファイオは、両脇に急ごしらえの
幻獣を従えて、壁の中から現れた。
右手には、新しい蛇状の幻獣がかぶさっていた。
「てめぇ!神国神殿にまで!」
怒りを露に、レックスは剣の柄に手を掛けて立ち上が
った。
その横で、エンフィールドも杖を構えていた。
「そンなにいきり立つもンじゃないわヨ。」
ファイオの額の瞳の光が、炎と星の二神を射た。
瞬時に、レックスとエンフィールドは強烈な眩暈に捕
われた。
眩暈が治まり、気が付くと二神は床から生えた鎖に絡
め取られていた。
「何だ!こんなチャチな鎖ッ!」
鎖の絡まった腕を振り上げ、レックスは強引に鎖を引
きちぎろうとした。
だが、一見錆だらけの細い鎖は、レックスの渾身の力
をもってしてもちぎれはしなかった。
「幻覚術か――。」
エンフィールドは、半ば感心をしながら、指先で鎖の
表面をなぞった。
ざらざらとした錆の感触も、鎖の重みも本物でしかな
かった。
「さてさて――。」
ファイオは二神の動きを封じた事を確かめると、ソフ
ァに座したままのフィアンに、幻獣の鞭を突き付けた。
「哀れな幻神よ……。」
フィアンは冷淡な呟きと共に目を細め、自らを見下ろ
す幻神へと呼び掛けた。
「……この私に、何の用かしら?」
「アナタの「深い闇」をもらいに・・・・。」
ファイオの右手にかぶさった幻獣の鞭が、フィアンの
白い喉元にまで伸びた。
「どんな「闇」が、あなたのお望みなのかしらね?人間
の邪心から生まれた闇か――レウ・ファーの生まれた闇
か――それとも?」
自らの喉に迫る鞭にも、フィアンは眉一つ動かさず、
人指し指を空中に向けた。
すぐさまその部分の空間が歪み、そこにはどす黒い穴
が穿たれた。
妖艶と微笑むフィアンの指先の、黒い穴からは呻き声
や絶叫が漏れ出始めた。
この穴は何処へつながっているのか。
穴の輪郭は黒煙に茫洋と霞み、その内部は、何一つ見
通す事は出来なかった。
ファイオは、大人しくラデュレーに帰還しなかった事
を後悔した。
邪神を失い、大した準備も無しで、この虚空の流れを
司る魔女神に挑んだのは余りにも無謀過ぎた。
このフィアンもまた、あのエアリエルにも勝るとも劣
らない、暗黒の理法に属する神々の一柱なのだった。
「――お前達ッッ!」
ファイオは短く叫び、幻獣達に命令を下した。
幻獣達はフィアンの側へと這い寄り、女神を捕らえる
べく触手を放った。
微動だにしないフィアンを敢えて取り押さえる必要も
無かったのだが、フィアンから立ちのぼる鬼火の様な不
気味な気配にファイオは圧倒され、うろたえていた。
幻獣のぬめった触手が、フィアンへと絡み付こうとし
た瞬間、フィアンは両手で無造作に二体の幻獣を掴み上
げた。
「えッ!?」
ファイオだけでなく、レックスやエンフィールドまで
が呆気に取られた。
フィアンは暗黒の穴へと、素早く幻獣を放り込んだの
だった。
黒煙に霞む嘴や、毛深い腕らしい物が穴の中から見え
隠れし――幻獣達を絡め取っていった。
すぐにずぶずぶと、内部から柔らかい物の潰れる音が
聞こえ、白いクリームを思わせる幻獣の中身が穴の中か
ら僅かに滴り落ちた。
自らの創造物の呆気無い最期に、ファイオは呆然と立
ち尽くした。
そんな様子を冷たく見つめ、フィアンは冷淡にファイ
オへと話し掛けた。
「――あなたには少し話があるわ。そこへ……ッ!」
言いかけて、フィアンは再び起きた苦痛に美しい顔を
歪めた。
心臓が脈打つ度に鈍い痛みが体中を走り、フィアンは
ソファの上にうずくまった。
「フィアンッ!」
エンフィールドは悲痛な叫びを上げた。
愛しい妻へと伸ばした腕は、幻覚の鎖に阻まれ空しく
宙で止まった。
虚空から地上へと戻ったばかりで、暗黒の穴を開ける
程の体力はフィアンには戻っていなかったのだった。
エンフィールドも、またフィアン自身も、今更ながら
体力の衰えを実感した。
「――!」
ファイオは突然のフィアンの苦悶に我に返った。
退却すべく後退しかけ、フィアンのすぐ側でまだ妖し
く揺らめき続けている暗黒の穴が目に入った。
悪夢を司るファイオは、この暗黒の穴の中に自分が求
める「深い闇」がある事を見抜いた。
穴は、限り無く昏く深く――俄には手を出しかねた。
しかし、僅かな躊躇の後、ファイオは幻獣の鞭をその
穴の中へと放った。
一飲みで、「深い闇」は、幻獣の胃袋を破裂寸前にま
で膨脹させた。
「――何の話があるか知らないケド、これで失礼するワ
ネッ!」
鞭を収め、今度こそ、ファイオは大きく後退した。
「……お、お待ちなさいッ!」
フィアンは汗を滲ませ、蒼白になった顔を上げてファ
イオに呼び掛けた。
「待ちやがれッ!!畜生ォォッ!!」
ファイオの幻覚から逃れる事も出来ず、レックスは苛
立たし気に叫んだ。
フィアンの呼び掛けも、レックスの怒声も無視し、フ
ァイオは壁の中へと姿を消した。
◆
ファイオが逃亡してすぐ、鎖は消滅した。
「大丈夫かっ!?フィアンっ!」
レックスが慌てて駆け寄り、フィアンの体を抱え起こ
した。
「ええ、何とか……。」
手の甲で汗を拭い、フィアンは二、三度大きく息を吸
った。
「――逃げられたな。」
杖の星座板の一振りで暗黒の穴を掻き消し、エンフィ
ールドは溜め息をついて呟いた。
「そうね……。」
フィアンはもう一度大きく息を吸い込んで呼吸を整え
ると、ファイオの消えた壁の方を向いた。
レウ・ファーに騙され、踊らされている、何も知らな
い哀れな幻神達――。
「――早く、彼らを止めなければね……。」
フィアンはそれだけを呟くと、疲れ切った表情で目を
閉じた。