第10章「旧き闇」
――レウベリィ大陸、都市メテュレン
――イェルミンス大陸、ラシーテ山
レウ・ファーの背後のひび割れた大理石の壁には、電
子回路の細やかな筋が広がっていた。
その筋の一つ一つに、めまぐるしく虹色の光が流れ、
凄まじい量の演算がこなされていた。
レウ・ファーの周囲の空間には、分割された世界各地
の地図が、次々に映し出されては消えていった。
――対レイライン仕様の邪神数、現在十四。
――レイライン集束点の探査、及び確定。またその地
点の占拠。そして集束点活性化。一点に必要な邪神数は
八体。
――集束点探査と確定のみに作業を限定。必要数は三
体。
――最終目的遂行時、邪神の体は、そのまま転用。
所々不鮮明で、殆ど読み取れない様な表示が宙の一隅
に浮かんだ。勿論、レウ・ファーがそれを理解するのに
は何の支障も無かったが。
何が書かれているのかと、パラが小首をかしげて目を
向けた頃には、その表示は消滅していた。
「これより、今ある邪神を各地に向けて発射する。」
それ迄微動だにしなかったレウ・ファーの仮面がゆっ
くりと下を向き、広間の石段や倒れた石柱に腰を下ろし
ている幻神達を見た。
「――ドミュスティルの時のみたいに、邪神を据えるん
だね。」
空中の地図上に示された赤い光点を見上げながら、ザ
ードは楽しそうにくすくすと笑いを漏らした。
一瞬、驚いた様に胸部の眼球が見開かれたが、何の感
情も伴わない声でレウ・ファーは答えた。
「そうだ。」
レウ・ファーの神霊石を取り込んだこの幻神は、他の
幻神に教えていない事まで見通しているのか?
ザードが何を知り何を考えているのか、流石のレウ・
ファーも関知しかねていたのだった。
暫くして、広間の床に小さな震動が起こり始めた。
一体何処にカメラが据え付けられていたのか、ラデュ
レーの底面の様子が広間の空中に映写された。
不可思議な模様を連想させる円と曲線とで構成された
ラデュレーの基底部は、巨大な質量を持つ空中城塞都市
の浮力を調節する回路が埋め込まれているのだった。
その一部に、一直線に裂け目が現れ・・巨大な唇と化
した。
その唇が薄く開かれると、卵状に丸まった邪神達が一
気に射出されていった。
◆
目的地へ降り立った邪神達は、手足や羽根、触手など
を伸ばし終えると、ゆっくり動き始めた。
街の道路を、山裾の畑を、可憐な小花の群れ咲く湿地
を……。
邪神達は、それぞれ然るべき場所を目指して動いてい
た。
時々立ち止まっては、触手を伸ばし、眼球を動かし、
何事かを確認すると、再び移動を始めた。
最初に降り立った場所からさほど離れていない所で、
邪神達は体を丸め始めた。
そうして、都市ドミュスティルの時と同じく、下半身
を尖らせ、地面の中へ突き刺していった。
一通りの作業を終えると、邪神達は硬化し、それっき
り身動き一つしなくなった。
◆
「随分と能率が悪い様ですが。」
石段に腰を下ろしたまま、パラは空中の立体映像を見
上げた。
各地に発射された邪神の様子が、幾つかの球状になっ
て映し出されていた。
硬化を終えた邪神はそれ以後、どんな力も受け付ける
事は無かったが、都市や村の様に神や人の住む場所では
硬化前に破壊されてしまう事も多かった。
レウ・ファーの驚異的な再生力を受け継ぐ邪神も、そ
の核となる幻獣を破壊されれば呆気無く消滅してしまっ
た。
硬化前ならば邪神は神や人の充分対抗し得る存在で、
それ程の驚異とはならなかったのだった。
「――慌てる事は無い。」
送り出した邪神の全ての結果を確認すると、レウ・フ
ァーは巨大な掌を振り、空中の映像を掻き消した。
「しかし……。」
レウ・ファーの言葉に、パラは不満気に顔を上げた。
まだまだ少ない邪神を、何の目的で各地に据え付ける
のか。
邪神を率いて、神国への侵略を――パラの願いを叶え
るには、レウ・ファーと邪神の行動は余りにも不可解過
ぎた。
「今はまだその時ではない。――準備には多くの時間が
掛かる。」
幻神達には示していない情報が、神経回線を通してレ
ウ・ファーの頭脳に伝達されて来た。
――神国から持ち去って来たデータの分析と整理の状
況。
――ラデュレーに残されていた旧式コンピュータとの
融合状況。
この二つの作業を優先して行っている為に、幻獣の邪
神化を初めとする、神国への侵略に関する行動は仲々進
んでいなかった。
「慌てる事は無い。」
繰り返されたレウ・ファーの言葉に、パラは尚も不満
を口にしかけたが、そのまま肩を落とし、黙り込んだ。
◆
ラノの神殿に到着したサウルスと合流し、ラノ、ティ
ラル、レックス達が神国神殿に辿り着いたのは、夕方遅
くだった。
純白の石材で統一された神殿の正面玄関は、暖かな茜
色の西日の中に沈んでいた。
「ラノ!」
その声と共に、玄関から茜色の石段を駆け降りて来た
のはバギルだった。
神々の集まりで、何度も顔を合わせた事はあったもの
の、さほど親しい訳ではないバギルの出迎えに、ラノは
やや戸惑った。
「今そこで聞いたんだけど、君が幻神に襲われたって!
――一体どんな奴だった?ザードは一緒にはいなかった
かい?」
息を切らしながら、バギルは勢い込んでラノへと質問
を放った。
「え……?いえ、ヒウ・ザードはいなかったわ。」
ゼームもいなかった。
その部分を呑み込み、ラノは微かな溜め息をついた。
バギルはまだ勢いが治まらずに、あれこれと尋ねよう
とラノへと近付いた。
「ケッ!何が幻神だっ!下らねぇな!」
ラノの背後からレックスの苛立たし気な声が響いた。
その言葉に、バギルの表情が険しく強張った。
「……なンだとぉぉッッ!!」
灼熱神の怒りが、辺りの空気を熱く染めた。
「何だ、やるってのか?」
怒りに燃えるバギルを真正面から睨み返し、レックス
は挑発する様に傲然と進み出た。
西日の差す茜色の景色は、灼熱の炎を司る二神の怒気
によって、紅蓮の劫火の色へと染め変えられようとして
いた。
短気で喧嘩早いとは言え、バギルは見境無く怒りを露
にする神ではなかった。
大切な友の事に触れられ、その為にバギルは珍しく本
気で怒っていた。
互いの腕の一閃で、神殿の玄関はた易く火炎の海に変
えられてしまうだろう。
レックスは身構え、バギルの拳には赤光が宿った。
緊張が極限まで高まるのに、さほどの時間は掛からな
かった。
――が。
「この大馬鹿者がっ!」
ごつん――と、重たい拳の音が、レックスの頭上に炸
裂した。
「ええ加減にせんか、この馬鹿たれが!」
レックスが頭を抱えてうずくまった所へ、更にとどめ
の一発が落とされた。
四方位の神々の最年長、北方の地父神サウルスの容赦
の無い拳骨だった。
痛みに歯を食いしばるレックスへ呆れた様な一瞥を与
えた後、サウルスはバギルへと頭を下げた。
「この馬鹿者が、失礼をした。――どうか許して下され
……。」
「あ、いや、こっちこそ……。」
サウルスの焦げ茶色の帽子の載った頭が下げられるの
を、バギルは呆気に取られたまま見つめた。
たちまち緊張感は萎え、バギルもまた頭を下げた。
「何しやがるッ、サウルス!!」
まだ痛む頭を押さえながら、レックスはサウルスの襟
首に掴みかかった。
サウルスは、先刻の剣幕を全く感じさせない――むし
ろ、悲しみを含んだ表情をレックスへと向けた。
息子をたしなめる父親の様な眼差しを、居合わせた者
達は連想した。
「他神の友の事を、その様に口汚く言うものではないぞ
……。」
長衣の袖口から覗くサウルスの毛深い手が、レックス
の手を払いのけた。
「――悪かったな。」
それだけを言い捨て、レックスは足早に玄関の方へと
立ち去って行った。
「すまない、バギル。私からも謝るよ。」
ガラス張りの玄関の中へと吸い込まれる、真紅のマン
トにバギルが目を向けたところへ、ティラルの声が掛け
られた。
「いや、もういいよ。気にしないでくれ。」
バギルは軽く頭を振って答えた。
「――お役に立てなくてごめんなさい。……でも、焦ら
ないで……。」
純白の石材を染め抜く茜色の光に、青と紫とが滲みつ
つあった。
少しずつ翳り始めた夕闇の中で、憂いと悲しみに満ち
たラノの双眸がバギルを見つめた。
バギルへと発した言葉は、半ばは自らに言い聞かせる
ものだった。
「ありがとう……ラノ。」
ラノの言葉に、闇雲に焦っていた自分をバギルは恥じ
た。
◆
ほうほうの体で、ファイオは空中城塞都市ラデュレー
へと帰還した。
焼けて穴だらけになった衣類を着替えると、ファイオ
は広間へとやって来た。
「申し訳ありません……。ラノからの採取は失敗しまし
た。」
失敗の屈辱に表情を強張らせながら、ファイオは頭を
垂れた。
「そうか――。まあ、よかろう。」
レウ・ファーの抑揚の無い声が広間に響いた。
失敗を咎める様な表情は、むしろパラとザードが浮か
べていた。
ゼズとゼームは「深い闇」には興味は無く、自分に与
えられた部屋からは出て来なかった。
広間では、パラとザードだけが、石段や崩れた石柱に
腰を下ろし、レウ・ファーとファイオのやり取りを見つ
めていた。
「では――他の神の所へ行け。」
白磁の仮面をファイオへと向ける事も無く、レウ・フ
ァーは掌を空中へと差し出した。
「深い闇」の別の持ち主の姿が、その上に映し出され
た。
「!!」
驚きと緊張とが、三柱の幻神達を凍り付かせた。
神――と言うよりは、禍々しい悪霊とも呼べる者。
この魔神が「深い闇」を持つ事に、誰もが異論を挟ま
なかった。
この地上ではない、何処か遠く、昏い地平の彼方から
訪れた縹色の異神。
大昔、気紛れな破壊と殺戮を神国にもたらし――しか
し今では、豊穣の女神レクセンダーとの婚姻によって、
その荒ぶる本性を改めたとされる神。
悪しき創造と、激情とを司る神・・エアリエル。
あちこちが擦り切れて、薄汚いぼろ布を衣として纏っ
てはいても、その妖しく昏い美しさを湛えた容貌は、見
る者を凍り付かせたのだった。
◆
神国、神州大陸の西方――神国神殿本殿などの建ち並
ぶ神域から、さほど離れていない神山山脈の中に、エア
リエルの研究所はあった。
神域からそう遠くないとは言え、その辺りは深い藪に
沈み、訪れる者も通り掛かる者もまず無かった。
そんな、藪と化した木々の茂みの中に、古びた洋館が
ひっそりと建っていた。
窓や、黒ずんだ煉瓦張りの壁は崩れるに任せ、全く手
入れはされていなかった。
建物からは陰鬱な気配が垂れ流され、近寄る者がいれ
ば、得体の知れない悪寒と恐怖心を抱かずにはいられな
かった。
悪夢を司るファイオでさえ、この館には近寄り難いも
のを感じた。
暫くの間、幻獣ファ・ジャウナに乗ったままファイオ
は上空から館を見下ろしていた。
藪の中を進む事で体が汚れるのを嫌って、空を飛ぶ方
法を取ったのだった。
だが、館の周囲に立ち込める冷たく暗い気配に、俄に
は降下しかねていた。
「――下りて。」
暫くの躊躇の後、連れて来た二体の邪神と共に、ファ
イオは館の玄関へと降り立った。
館の庭園は草木がでたらめに生い茂り、見る影も無く
荒れ果てていた。
幻獣ファ・ジャウナを異空間へと下がらせ、ファイオ
は邪神達を先に入口へと向かわせた。
黒く汚れ、所々ひび割れた木の扉が、固く閉ざされて
いた。
訪問者などある筈も無く、用をなさない玄関はむしろ
――遠い世界からの来訪者を阻む防壁の様に、ファイオ
には感じられた。
――ォォォォッッッッ!!
意を決して、雑木の根が食い込んで崩れかけた石段へ
とファイオが足を踏み出したところで、けたたましい獣
の絶叫が響いてきた。
「やだッ!何、何?」
ファイオは小さく悲鳴を上げ、邪神と共に後退した。
その瞬間、扉が火を噴いて焼け崩れた。
揺らめく炎を掻き分けて現れたのは、両肩と頭上に水
晶の角を突出させた、一つ目の熊の様な化け物だった。
呆然と眺めるファイオの目の前で、化け物の角が発光
し、眼球に光が集中した。
どん、という重い音と共に光は炎塊と化し――ファイ
オへと放たれた。
「いやァネッ!」
呟いて、ファイオは素早く炎を躱した。
ファイオの背後の木々が、一瞬にして燃え尽きてしま
った。
「――おいでなさい!」
右手に幻獣メオ・シェナを召喚し、ファイオは化け物
へとメオ・シェナの鞭を叩き付けた。
鞭の先端は、金属球の様な固さと輝きを帯び、化け物
の眼球を貫いた。
「―――――ッッッ!!」
化け物が悲鳴を上げてもがく隙を突き、二体の邪神は
鎌の腕を一閃した。
鋭利な切り口を見せる無数の肉片が、玄関の石段の上
に飛散した。
「イヤな出迎えネ!」
化け物の体液の付着した鞭の先端を、ファイオはハン
カチで拭い取った。
「――これは珍しい。来客とは……。」
玄関の奥から響いてきた声に、ファイオは体をすくま
せた。
取り落としたハンカチが、ひらひらと揺れながら、フ
ァイオの足元へと紫のフリルの花を広げた。
背筋を貫く寒気の為に、それを拾い上げる事も出来な
かった。
まして、声の主へと顔を向ける事など――。
「あれを殺してくれて助かったよ。逃げ出して騒ぎでも
起こされては、レクセンダーが怒り狂うからな……。」
礼を言っているのだろうか、この神は。
恐妻家の様な口調はしかし、この地上の何者をも恐れ
てはいない様にファイオには思えた。
一条の光も差し込まないかの様な玄関の奥から、悪し
き創造神は姿を現した。
大判の薄汚いぼろ布を体に纏い、町の雑貨屋で安売り
をしている様なサンダルを履いた出で立ちも、この神の
昏い気配に彩られた美しさを損なう事は出来なかった。
ファイオは身じろぎも出来ず、エアリエルの発する暗
黒そのものの様な気配に圧倒されていた。
異世界に巣食う化け物どもの総領。
人造人間、魔獣、悪精霊――諸々の邪な創造物の守護
神。
ファイオの従える邪神も、むしろ、このエアリエルを
主としてかしづくのが相応しいかも知れなかった。
「――あらン。礼には及ばなくてヨ!」
空元気を振り絞り、ファイオは不敵な笑みを取り繕っ
た。
ファイオの前には、二体の邪神が一応の主を庇う為に
立ち塞がった。
邪神達には一瞥もくれず、エアリエルは燃え尽きた扉
の位置からファイオを見下ろした。
「何の用かね?」
その問いには答えずに、ファイオは邪神達の背を叩い
た。
それを合図に邪神達は翼を広げ、触手をうねらせ、エ
アリエルへと飛び掛かった。
「何の真似だね?」
邪神の金属質の触手が、エアリエルの体へと絡み付い
た。
縛り上げられるに任せ、エアリエルは表情一つ変えず
に尋ねた。
今立っている場所を動かず、ファイオはエアリエルの
喉元へと幻獣の鞭を放った。
ファイオは鞭の先端をぎりぎりの位置で停止させた。
「アナタの「深い闇」をもらいに来たのヨ。」
「ほお……。」
初めて、エアリエルのおもてに表情らしいものが浮か
んだ。
それは嘲笑の様でもあった。
伸ばし放題の髪の間から覗く、縹色の双眸は、何の感
情も湛えてはおらず、ただ冷たくファイオと邪神とを眺
めていた。
「縛られるのも飽きた。」
その言葉が終わると同時に、エアリエルの両脇に立っ
ていた邪神達が砂の様に崩れ落ちた。
ばさっ――と、石段の上に積もり、邪神だった塵はエ
アリエルの両脇に小山を作った。
「なっ、何ヨ?」
突然の信じ難い出来事に、ファイオは呆然と立ち尽く
した。
微風にさらさらと舞い飛ぶ塵に目を奪われるファイオ
には構わず、エアリエルは喉元の鞭を手に取った。
「――「深い闇」か。欲しくば、好きなだけ持って行く
がいい。」
白い繊手から、どす黒い、煙とも光ともつかない物質
が滲み出し――鞭の中へと吸収されていった。
鞭の中を何かが流れる感覚に、ファイオは慌てて鞭を
引いた。
しかし、幻獣の体に鞭が収納されるより早く、幻獣は
あちこち不格好に膨脹していった。
「何なのッ!?」
幻獣は呆気無く破裂した。
飛散する幻獣の皮膚や肉片、クリーム状の内蔵物に混
じって、「深い闇」が溢れ出した。
黒煙に茫と霞む不定形の粘液塊――幻獣を食い破る様
に飛び出したそれは、瞬く間にファイオの右腕を這い上
がっていった。
黒煙の中から見え隠れする、血走った瞳や、牙の覗く
唇。唸り声や呻き声を伴って、それらはファイオの耳許
へと肉薄した。
ファイオが今迄扱ってきた、神や人の悪夢とは比べ物
にならない程、それらは濃密な邪気を放っていた。
「どうした?持って行かんのか?」
エアリエルの声には、からかう様な響きがあった。
生臭い吐息がファイオの顔に吐き掛けられた。
余りに、格も質も違い過ぎる。
この神に属する「深い闇」は、ファイオには御しかね
るものだった。
べたべたとした質感を感じながら、ファイオは腕から
肩に掛けて絡み付いた「深い闇」を引き剥がした。
「――邪魔したわネ。」
これ以上この神に関わっていたら、どんな事になるの
か予想もつかない。
ファイオは再びの失敗に屈辱を感じながらも、空中へ
と跳び上がった。
幻獣ファ・ジャウナが召喚され、ファイオはその背に
腰を掛けた。
エアリエルの姿を振り返る事すらせず、ファイオはフ
ァ・ジャウナに全速力で飛ぶ様に指示した。
「――あれが、レウ・ファーの配下か。」
エアリエルは飛び去っていくファイオを見上げて呟い
た。
虚空の暗黒の流れの中から、地上へと生まれ出た神
レウ・ファー――その本性が、昏いものへと属している
事も、既にエアリエルには知れていた。
「六百年の沈黙を経て――さて。何をするのやら。」
エアリエルはさして興味も無い様な口調で呟き、溜め
息をついた。
館の中に戻ろうと振り向いたところで、ファイオの他
にもレウ・ファーの配下として幻神が誘われた事を思い
出した。
亜麻色の長い髪を結わえ、赤茶けたローブを羽織った
若き、幻獣創造の芸術家――。
「ラウ・ゼズ――あの男も確か……。」
特に交流を持っていた事も、まして、言葉を交わした
事も無かったのだが、ゼズの創り出す幻獣の造形は、エ
アリエルの気紛れな興味を惹いていた。
「優秀なのに、レウ・ファーの捨て駒か。……惜しい事
よな。」
成り行きを楽しむかの様な笑みを浮かべ、エアリエル
は扉の中へと足を踏み出した。
妹達を人質として脅迫されて、ゼズがレウ・ファーの
下へやむを得ず参じている事も、エアリエルは知ってい
た。
他者の為に自らを犠牲にするというゼズの行為は、エ
アリエルの理解の外だった。
「邪神――面白いオモチャだったね!」
燃えかすと化した木の扉をエアリエルが跨いだところ
で、背後に甲高い少年の声が上がった。
「来ていたのか。」
エアリエルは、柔らかな笑みを浮かべて後ろを見た。
暗黒の魔神、縹色の悪霊――と恐れられるこの神にし
ては、ひどく人間染みた、素朴な表情だった。
エアリエルの視線の先にいたのは、無邪気さと人懐っ
こさを仮初めに装う笑みを張り付けた、黒衣の少年神だ
った。
くせのある黒髪が耳元で無造作に切られ、少女を思わ
せる様な顔立ちは、しかし、妖しい意志を湛えて翳って
いた。
皮膚に張り付いたかの様に、黒い長袖のシャツとスパ
ッツはぴっちりと彼の体を覆い、細くしなやかな少年の
体を容易に想像させた。
ラクシャ・ラーダ――小惑星と裏切りを司る神。
表向きは、エアリエルの養子とされていた。
少年、とは言いながら、五百歳を越える彼の年齢は、
一般的な神々の年齢では、初老の域だった。
勿論、悪しき創造神の傑作品の彼が、一般的な神であ
る筈はなかったが。
「あんな邪神が面白いのか?」
エアリエルは呆れた様に言った。
「つまらんと思うがな。主の命令で動く人形だ。――本
当の“邪神”の方がまだマシだ。」
顔に垂れる縹色の髪の束を後ろへと掻き上げ、エアリ
エルは館の中へと入って行った。
それっきり、ファイオ達の事には興味を失ってしまっ
た様だった。
「そお?ボクは結構出来がイイと思うんだけどなぁ。」
甘える様な調子で小首をかしげ、ラクシャは目を輝か
せた。
気に入った玩具を見つけた子供の様な表情だった。
気紛れ、自分勝手、我が儘――それは、エアリエル達
の場合、この地上の常識や法には左右されない事でもあ
った。
何者にも束縛されず、自らの赴くままに行動する。
誰に対しても、何に対しても。
ラクシャが何にちょっかいを出し、どんな騒ぎを起こ
すのか、エアリエルは俄には予測しかねた。
「やれやれ―――。」
肩をすくめ、エアリエルは大きな溜め息をついた。