第9章「みなものかげ水面の影」
鬱蒼と繁る巨木の下に、「神国神殿」と刻まれた人の
背丈程の石碑があった。
そのすぐ後ろには、白い石の階段が続いていた。
昼も尚、ひんやりとした空気に満たされた薄暗い石段
を登り切ると、そこには眩いばかりの白亜の空間が出現
するのだった。
古代の文字とも紋様ともつかない不可思議な刻印を纏
った二本の巨大な白い石柱――その下の方には、「神国
神殿正門」という立て札があった。
門をくぐると、白い石材で舗装された道の果てに、白
亜の巨大な神殿が聳え立っているのだった。
神国神殿――本殿。
中世の王城を思わせる、しかしこの大質量の白い建物
が、神国神殿と呼ばれるものだった。
道の両脇には、やはり白い玉砂利が敷かれ、その外側
を清澄な水を満々と湛えた水路が流れていた。
水路からは等間隔に、優雅な曲線と珠玉で作り上げら
れた灯籠が姿を現していた。
神国神殿の正面玄関へと至るその白い道を、傲然と踏
みしめて行く熱い気配があった。
真紅のマントを翻し、堂々とした足取りで道の中央を
進む姿に、行き交う誰もが道を空けた。
燃え盛る炎が流れゆくかの様な、緋色の髪。
若く整った顔には、野心と自信とに満ち溢れた不敵な
表情があった。
彼は、ラノ達と共に、四方位を司る神々の一柱に名を
連ねる西方の若き火神――レックス。
彼は神殿の正面玄関をくぐると、会議室を目指した。
◆
「ドミュスティル市に据えられた、あの邪神と呼ばれる
ものは……。」
神国神殿の三階にある小さな会議室。
ドミュスティルでの事件の翌日、主立った神々を招集
しての非公式の会が開かれた。
主立ったといっても、列席している神々は、先日の会
に出た者達に後、数神が加わっただけだった。
女神像が浮き彫りにされた会議室の扉を無造作に開け
て、レックスは他の者達を気にした様子も無く部屋の奥
へと進んだ。
紫昏はやや、遅刻を咎める様な目をレックスへと向け
たが、そのまま資料の続きを読み上げた。
「サンプルの採取も、内部透視も不能。その正体は一切
不明。邪神の破壊も撤去も不可能――これが、今の処の
結果だ。」
レックスの腰を下ろした後ろの席で、紫昏の説明を聞
いたサナリアが溜め息をついた。
「不明、不可能の答えをを出すのにも、随分お金が掛か
ったのよね……。」
様々な機材を投入しても、邪神の細胞一片すら取る事
は出来なかった。
自分に直接関係の無い事とは言え、何にどれだけ費用
が掛かるか、サナリアは無関心ではいられなかった。
「ラデュレーは依然行方不明――か。」
エトラージュは疲れ切った表情で呟いた。
神国図書館のコンピュータの修復は、まだ終わってい
なかった。
エトラージュの呟きを聞きながら、バギルは頬杖をつ
いた。
昨日は結局、沖合まで飛んで行ったものの、ラデュレ
ーを発見する事は出来なかったのだった。
「――ところでレックス。ティラル達は?」
一通りの発表を終え、紫昏は傲然とふんぞり返ったレ
ックスへ顔を向けた。
「おう、ティラルとサウルスのおっさんは、ラノの所へ
寄ってから来るとさ。」
レックスを初め、地方に住む主立った神々もまた、神
国神殿へと集まろうとしていた。
レウ・ファーの宣戦布告――ほんの一昨日迄の、大神
とも称されていた機械神の反乱は、ただならぬ事態とし
て神々に認識されていた。
暫くの間、レックスは出された紅茶を口にし、聞いて
いなかった部分の報告書に目を通していた。
だが数分と経たない内に、苛々と席を立ち上がった。
「――ちっと、迎えに行ってくるぜ。じっとしているの
は性に合わん!」
ゴレミカから飛翔板を借りると、レックスは真紅のマ
ントを翻して会議室を後にした。
◆
昼下がりの陽光を受け、湖は水晶の様な輝きを放って
いた。
水面に揺れる光の波は、湖の周囲の木立を照らし、そ
こに佇む女神の姿を浮かび上がらせていた。
昨日、神国神殿からチェルロ大陸の自らの神殿へと戻
ったところで、ラノはドミュスティルでのレウ・ファー
の宣戦布告の知らせを聞いたのだった。
その知らせに、ラノはただ悲しむばかりだった。
ゼームは――大切な友は、とうとう、後戻りの出来な
い道へと踏み出してしまったのだった。
「――ラノ……ここにいたのか。」
湖へと続く小道の下草を踏み分ける音と同時に、涼や
かな男の声がラノの耳に届いた。
湖面から反射される光の粒が、悲しみに曇るラノの顔
の上で揺れた。
湖を、一陣の涼風が吹き抜けた。
湖の照り返しを受け、彼の纏う白銀の甲冑は、それ自
身が輝きを放っている様だった。
肩迄流れる黒髪だけが、光を吸って美しい艶を帯びて
いた。
憂いを深く刻む端正な容貌は、しかし慈しみに満ちた
眼差しで水の女神を真っ直ぐに見つめていた。
「ええ……ティラル。」
ラノは東方を司る風神の視線を受け止め、微笑んだ。
凛々しい騎士と美しい姫君といった情景の中で、一昨
日迄はもう一神――、この情景に加わっていた緑の幻神
を思い出し、ラノの胸は痛んだ。
この風の武神を前に、ラノは痛みとは別に、ほんのり
と温もりを帯びる自らの胸を意識し――暗い思いが掠め
た。
自分は、本当はゼームをこの情景の中から遠ざけたか
ったのではないか?
ティラルは風を呼び、ラノは水をもたらし、ゼームは
言魂の詩をもって、共に長い年月、森を育んできた。
三神の友好は深く、常に森で共に過ごす時を持ってき
た。
――そんな中で、友情は、独占欲と嫉妬の毒を含みつ
つ変化していったのだろうか。
そんなラノの苦悩も気付かず、ティラルはラノに微笑
みかけた。
「もうすぐサウルスもここに来る。戻ったばかりだそう
だが、みんなで神国神殿に行った方がいいと思うのだが
……。」
「ええ、分かったわ。――取り敢えず、私の神殿へ戻り
ましょうか。」
心の内に乱れ起こる苦悩を、いつもの優雅な微笑で押
し隠し、ラノは自分の神殿へと歩み出した。
◆
「いい処、邪魔するけどォ。」
小道へ二神が足を踏み入れた処で、野太い声が背後か
ら投げ掛けられた。
振り向いた瞬間、ティラルは眼前の紫衣を纏った細面
の神の、姿と声とが結び付かずに困惑した。
「あらン、イイ男ネ。――でも、アンタには用は無いの
ヨ!」
高圧的な口調で、ファイオはティラルを睨め付けた。
ファイオの背後から吹きつける邪気に、ラノはティラ
ルの側へとすがり付いた。
邪気は、ファイオの背後から二体の異形の怪物の形を
取って出現した。
「ラノ!」
ティラルの瞳と声とに、瞬時に厳しさが宿った。
ラノを背後へと下がらせ、剣の鞘へと手を掛けた。
「いやぁねェ!取って食べる訳じゃないのに!」
わざと大袈裟におどけた振る舞いをし、しなを作りつ
つも、ファイオの瞳には険しく冷たい光が宿っていた。
「アンタがラノね。」
ティラルの背後に隠れ、蒼白の表情で邪神を見るラノ
へと、ファイオの視線は注がれた。
ファイオは一歩後退し、代わりに二体の邪神が歩み出
た。
頭部と両肩は、電子回路の様な筋を帯びた甲殻で覆わ
れ、頭頂から股間にかけては平面的な模様を思わせる瞳
が浮き出ていた。
四本の腕は巨大な鎌と化し、湖からの照り返しに鋭い
光を放っていた。
「!」
ファイオの指が鳴ったと同時に、邪神は同時に鎌を振
り翳してティラルへと躍りかかった。
邪神の跳躍する後ろで、ファイオは右手に精神を集中
した。
不定形の光の粒が無数に漂い、それは瞬時に幻獣の姿
となった。
頭と尾の両端に瞳の模様を持ち、小さなひれと珠玉を
長い体に埋め込んだ幻獣――メオ・シェナ。
「深い闇」採取の為に、ファイオがあらかじめ創造し
ていたものだった。
メオ・シェナはファイオの右腕に巻き付くと、すっぽ
りと右手を覆った。
「ラノ!逃げろッ!」
文字通りの神速をもって邪神を一気に斬り伏せ、ティ
ラルはファイオとラノの間に立ち塞がった。
邪神の赤黒い体液の滴る剣の切っ先は、ファイオの喉
元を貫く寸前で動きを止めていた。
苛立たし気にティラルの顔を間近で睨み付け、ファイ
オは歯噛みした。
――が、ファイオは視界の端に邪神の姿を認め、余裕
の笑みを浮かべた。
レウ・ファーの細胞の力で、邪神達は瞬く間に再生し
ていた。
襲い掛かる四本の鎌を剣の一閃で弾き飛ばし、ティラ
ルは逃げ去るラノを背に、邪神達に立ちはだかった。
敏捷な動きでティラルへと飛び掛かる邪神達を、きら
めく一条の銀光が薙ぎ払った。
ティラルの剣撃の前に、邪神達は再びその場に崩れ落
ちた。
「ドミュスティルの邪神とは違う様だな。」
あくまでも低く、穏やかな声だった。
「いいえ、同じヨ。同じ――レウ・ファーの細胞を埋め
込まれた幻獣から作られた邪神。」
「!――それでは、レウ・ファーと共に失踪したという
幻神は君か……!」
ティラルの驚きを意に介する事も無く、ファイオは幻
獣メオ・シェナの絡み付いた腕を撫でた。
「アンタは、剣の腕が自慢らしいケド――無駄ヨ。幾ら
斬ったってネ。」
濃い紅色のルージュを引いた唇の端が、嘲笑に釣り上
がった。
ファイオの言葉が終わるや否や、噴き出す体液にまみ
れた邪神達が立ち上がった。
既に邪神の体には傷一つ無かった。
ティラルは再び斬撃を浴びせ、やや後ろへと飛びのい
た。
よく見ると、切断された幻獣の体を無数の触手が覆っ
て損傷を修復していた。
「さて、と。」
邪神がティラルの注意を引き付けている間に、ファイ
オは森の茂みの中に遠ざかっていくラノを追い掛ける事
にした。
ファイオが地面を蹴ったと同時に、右手の幻獣のひれ
の一つが大きく広がった。
ひれから何かしらの浮力が発生しているのか、ファイ
オの体はティラルの頭上を遙かに越え、難無くラノの前
へと着地した。
「!」
立ち止まり、慌てて小道を外れて茂みの中へとラノは
逃げ込もうとしたが、
「逃がさないわヨ……。」
ファイオの額の瞳が見開かれ、妖しい輝きがラノへと
放たれた。
ラノは逃げる間も無く、幻覚の鎖に捕縛されてしまっ
たのだった。
「ラノッ!」
しつこく襲い掛かって来る邪神を斬り倒し、ティラル
はラノの所へと走り寄った。
「しつこいわネ。」
ファイオはやって来るティラルを見ながら、うっとお
しそうに言葉を吐き捨てた。
「――しつこいのは、そちらだろう。」
追いすがる邪神達へ、ティラルは振り向き様に太刀を
浴びせ掛け――倒れる処をすかさず、小さな竜巻で取り
囲んだ。
ティラルの逞しい腕の一振りで、小さくとも――恐る
べき威力を持った竜巻が、邪神を内部に封じ込めた。
どれ程の風圧が襲い掛かっているのか、再生の時間を
与えられず、邪神は本体の幻獣を切り刻まれ――細かな
肉片と化してしまった。
「ウソッ!?」
ファイオは思わず声を上げた。
絶対の信頼を置いていたレウ・ファーの細胞の力も、
邪神の核となる幻獣自体を完全に破壊されてしまったの
では、その力を及ぼす事も出来なかった。
邪神の消滅を確かめ、ティラルは剣を収めると、身動
き出来なくなったラノの側へとやって来た。
「――――チッ。」
舌打ちと共に、ファイオの表情に険しさが増した。
忌々し気にティラルを睨み付け――ファイオの額の瞳
が、ティラルをも捉えた。
地面から伸びた無数の鎖が、ティラルの体へと絡み付
いた。
「しまった!」
ラノのすぐ側に迄来ながら、ティラルはそれ以上足を
踏み出す事は出来なかった。
剣を振るったところですり抜け、そのくせ、鎖の重量
感だけは現実のものとしてティラルの感覚へと受け取ら
れた。
「大人しくしてなさいナ。」
ふん、と鼻を鳴らし、ファイオは改めてラノへと歩み
寄った。
幻獣の、ファイオの右手を覆う部分に一筋の亀裂が入
り――それはすぐに、ぼってりとした唇と化した。
「――あなたも、レウ・ファーの所に行った幻神なので
しょう?」
幻覚の鎖の中でもがきながら、ラノはファイオへと問
い掛けた。
「……ロウ・ゼームという幻神を知りませんか?」
ラノの問いにファイオは訝し気な表情を浮かべたが、
「――何とも麗しい友情だわネ。」
嘲りの目がラノへと向けられた。
「知ってるわヨ!あの、何を考えてるのか分からない女
でショ!」
ファイオはラノの眼前に幻獣の唇を突きつけた。
「あんたも物好きネ。幻神なんかを相手に友情ゴッコか
しら?」
「違う!」
起こった叫びは、ラノとティラルのものだった。
「幻神だとか、そうでないとか――そんな事は全然関係
無いわ!」
真っ直ぐにファイオに向けられたラノの言葉と、透き
通る様な美貌の気丈な眼差しは、ファイオに捉え所の無
い不快感を抱かせた。
嫉妬か、憎悪か――心の内を深く省みる前に、ファイ
オは分析を打ち切った。
「まあ、そんなコトはどうでもいいケド。」
薄く開いた幻獣の唇を、ファイオはラノの額へと近付
けた。
「やめろぉっ!」
ティラルの叫びも、空しく響くだけだった。
必死にあがくティラルの様子を横目に、ファイオは幻
獣の唇をラノの額へと押し付けた。
「キャアァァァァァッッッッ!!」
――だが、上げられたのはファイオの悲鳴だった。
真後ろから、紅蓮の炎塊がファイオへと叩き付けられ
た。
ファイオの肩を覆う短い白のマントに、朱色の炎の舌
が走り抜けた。
「嫌アァッ!もオッ、何よ何よおッ!」
野太い声で喚き散らし、ファイオは慌てて、マントを
破る様に脱ぎ捨てた。
ファイオの黒髪の先が焼け焦げ、その異臭が周囲に漂
った。
「よくも……!やってくれたわネッ!」
先刻迄の甘えた様な調子は消え、殺気に満ちた鋭い声
音が、炎を放った主へと向けられた。
真紅のマントが、湖から吹く湿った風に翻った。
木立の間から、悠然と姿を現した炎熱の化身。
「――レックス!来ていたのか!」
ティラルの言葉に、レックスは傲慢な笑みを浮かべ、
腕組みをしたまま答えた。
「へっ!遅いから様子を見に来りゃ、こんなオカマ野郎
に手こずってやがるとはなっ!」
「オカマですってッ!?」
ファイオの瞳に、どす黒い怒りの色が加わった。
「へッ!とっとと失せな!」
相変わらず、見下ろす様な調子でレックスは言い放っ
た。
「フン!言われなくても、この女から「深い闇」をもら
えば帰るわヨッ!」
低く唸るファイオの声と同時に、右手の幻獣の先端が
鞭へと変化し、レックスへと叩き付けられた。
レックスは余裕に笑ったまま、人指し指から炎の玉を
繰り出した。
それは幻獣の鞭を瞬時に焼き砕き、そのまま勢いを失
わずファイオへと迫った。
慌てて躱したファイオが体勢を立て直す間も無く、剣
を抜いたレックスが突進してきた。
朱色の光沢を帯びた刃の先が、ファイオの紫衣を掠っ
ただけで炎を噴き上げた。
「炎熱剣ルフィニ――火の神の持ち物には相応しい
わネ。」
幻獣の唇に炎を吸わせ、ファイオは余裕の表情を取り
繕った。
が、白い頬には煤がこびり付き、衣もまた炎に食われ
て黒い穴だらけになっていた。
「――ラノ。次は必ず「深い闇」をもらうワ!」
尚も剣を振るって向かってくるレックスへ、幻獣の新
たに作り出す鞭を叩き付け、ファイオは空中へと跳躍し
た。
「ケッ!最初から素直に逃げてりゃいいのによっ!」
レックスは剣を収め、勝ち誇った様に高笑いをした。
空中に不定形の光の粒子が集中し、三枚の翼を広げた
流線型の幻獣ファ・ジャウナが召喚された。
幻獣は主人を背に乗せると、軽やかにうねりながら飛
び去って行った。
◆
「おい、おめーら大丈夫か?」
幻覚の戒めが解けた二神に、レックスは声を掛けた。
「ああ。有り難う、助かったよ。」
まだ微かに残る鎖の感触に困惑しながらも、ティラル
は剣を収めた。
「全くよぉ!この俺様に断りも無く世界を征服しような
んざ、一兆年早ぇぜっ!」
レックスは拳を握りしめ、怒りに盛り上がっていた。
「世界を取るのは、この俺様だけだ!」
西方の若き火神の野望――世界を自らの物とすると、
レックスは神国の神々に公言してはばからなかった。
しかし、それを真に受ける者は誰も居らず、レックス
のこの宣言も、有言不実行なまま今に至っていた。
「――サウルスが着いたら、神国神殿へ行こうか。」
「……そうね……。」
風にほつれる長い髪を掻き上げながら、ラノはティラ
ルへ呟く様に答えた。
彼女は――ゼームは、今、何をしているのだろうか。
あの、神と人の世界の理法の内には決して属さない緑
の幻神は……。
自分の神殿へと歩み出し、ラノはティラルとレックス
とを見た。
思い至るべきだった可能性に、今更気付き、ラノは暗
澹たる気分に沈んだ。
ゼームと、ティラルと、レックスと――。
自分の親しい友同士が、お互いに争い、傷つけ合って
しまうのだ。
神と人の世界の理法に属していないのならば――いっ
そ、そのまま遙か彼方に……神も人もいない世界へと去
って欲しかった。
やがて近い内に、親しい友同士は衝突するだろう。
ラノは深い悲しみと憂いに表情を曇らせた。