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雪の少女 ♯3

作者: 麦茶

 耳が裂そうなまでに響いくクラクションから、小さい体が投げ飛ばされるまでには数秒と要らなかった。

厚いガラスを突き抜けてきたため、背中の肌が焼けるように痛い。

外気が耳から頬を、足元までを一気に包み込む。

読みかけの文庫本は何処かへ放り出されてしまったか、衝撃によって車内で手放してしまったのだろう。

次第に体が降下をし始める。

初速から一気に加速するにつれて、指先がひりひりと痛みつつある。

何から何までが一瞬の出来事だった。

死の恐怖よりも潜在的な本能で、頭を抱えて落下に備える。

腕と腕の間から垣間見える景色を横目にしながらも、恐ろしいことに私の思考は停止していなかった。

回転する視界の中では月が歪みながら縦横無尽に揺れ、漆黒に沈む木々が霞んで見えた。

水面に映し出される月影のように、全てが荒々しく変形を繰り返していた。

混ざり合う景色を、私は本当に綺麗だと思ったのだ。

山を覆う名も知れぬ木々、快晴の空にくっきりと浮かび上がる満月が一望できる。

背景に淡い黒を纏った星々の儚げさは、その光を隔てるものもなく、いよいよ磨きがかかっている。

月の周りを木々が包み、それはまるで未知の世界への入り口のようだった。

中心部にある満月の一際大きなクレーターが取っ手となり、その扉が今にも開きそうな錯覚に陥り始める。

その幻想的なイルミネーションに、私は一瞬で惹かれてしまったのだ。

命の危機も忘却の彼方に消え去り、体中の血が抜けきったような脱力感にも塗れながらも、ただ見とれていた。

大きく手を伸ばす。

ただただ、虚しく空気だけを掴み、細い腕が今にも折れそうに軋もうとも私は翳し続けた。

両手を差だし、月を掬う。

手が届かないと知りながらも、求めることを諦められない。

絶対無垢で神秘的な存在がそこにはあった。

今ほどに翼を欲しいと思ったことはない。


ふと、疑問に思う。

私はそんな存在になりたかったのだろうか。

誰にでも憧れられ、女神のように称えられたかったのか。


この世界にどのような意味を持ち得るというのだろうか。

この世界に意味などあるのだろうか。

いや、私自身に意味はあるのだろうか。


そもそも、私はどんな存在だろうか。

今、死を迎えようとするこの小さな体は、人間なのか、神さまなのか、悪魔なのか。


世界は意味に満ち溢れる。

月だろうか。

星だろうか。

草木々だろうか。

音はどういうった存在だろうか。

風は流れるものだたったろうか。

人は死ぬものだろうか。

人は殺せるものだろうか。

今になって過去への渇望が、疑問符のように流れ込んできた。


途端に視線が一瞬で白に支配され、フラッシュバックが駆け抜けた。

耳のノイズは一層暴力さを増し、頭を締め付ける。

網膜ではなく、脳を駆け抜け映る姿、形、色や香り。

全てが、そう、自分の物とは思えない。

血と涙。

苦しみと悲しみ。

その両極端が胸の最底辺から同時に込み上げてくる。


‥‥‥‥これは、私の世界?


だとすれば、だ。

これが私の世界に持てる意味だとしたらこの世は何と残酷だろうか。

胸を絞られるような嫌悪感に耐えられず、私は片手で腹部を庇う。

それでも片手は月へと伸ばし続けた。


‥‥‥‥世界が私を拒絶するというのなら


必死に叫んだ。


「私は絶対に世界を拒絶しない!!」


全てに亀裂が走り、ぼろぼろと崩れ落ちていったのだろうか。

意味付けが消えてゆく。

感覚が遠のいてゆく

風を感じない。

音も聞こえない。

切り裂く大気も、激しい空気の振動も、全ては私にとって無意味なものへと成り変わった。

何もかもが不透明で、落下していることさえ曖昧になってきた。


‥‥‥世界を受け入れるとはこういうことだったのか、、、


そんな混濁した意識の中、問いかける声にはっと気が付いた。


『世界はあなたを縛れない。しかし、あなたも世界を縛れない。辛いことだけど、あなたが世界を愛するというのなら、世界はいくらでも答えましょう。』


その問いかけの持つ意味を、私はとっさに理解し、こう答えた。


「ありがとう。神さま」


世界一面が黒に塗りつぶされると同時に、私は地面にたたきつけられた。


_______________________________



 海風に乗り流れてきた金属の音がすると、私は本に栞を挟み首だけで振り返った。

程よい風がシーツを靡かせ、屋上を駆け抜けて頬を撫でる。

秋口の斜陽は暖かく、近場の海岸からさざめく波音は吹きすさぶ風音と混ざり合い、心地よいハーモニーを奏でている。

階段につながる非常ドアを荒々しく開放し、その陰から現れたのは一人の女性だった。

長身で細身の体で、栗色の短髪にはナースキャップ。

威風堂々と屋上に跨り込み、なんの迷いも無く一直線に歩み続ける。

うす水色の看護服に黒いジャケットを一着、肩掛けている。

特徴的な二本線が刺繍されたナースキャップを片手に握りしめ、ジャケットのファスナーを手早く閉じた。


「ふぇえ!さみゅい!!」


友香(ゆか)、、、さん?」


「おうおう。いるねー。相変わらず見えないけどねぇ」


「勤務中におさぼり御苦労様です」


「、、、言ってくれるねぇ。まぁ言い返せないんだけどさ」


友香は苦笑を漏らしつつ歩み続ける。

私の方ではなく、明後日の方向へと進み、安全柵に両手を預けながら大きく屈伸する。

凝った関節がボキボキと気持ちのいい音を立てた。

友香には私が見えてはいないのだが、声だけは聞こえてしまうという微妙な関係だ。

私も友香も、そのことはあまり意識してはおらず、むしろ声だけの関係というのはなかなかにこそばゆいものだ。

面合わせて話すよりも、気兼ねなく本音で語り合えるのだ。

過去、私と会話をすることができたのは彼女だけだった。

それまでは人との触れ合いなど到底敵わぬ、幽霊身なのだった。


「タバコ。よくないですよー」


「えいえい。わかっていますよーっと」


気の抜けた返事と同時に、ライターと煙草を手で包み火をつけた。

ため息交じりの排煙が海風に呑み込まれ、四散して消え去った。

定かではないが、友香はこの病院に勤務し続けてはや2年になる。

お世辞にも華やかとは言い難いこの町に、長い年月を費やしているのは、何かしらの訳があるのだろうと思う。

医者も、看護師も、できるのならば利便性のある都市病院に勤務したいのが本音だろうが、彼女はこの辺境を選択し転職も考えていなさそうだ。

周囲は年季のある40,50代の看護師ばかりで、友香が最年少。

しかし、最も驚くべきことは、友香の出身地は県外の都市部であり、俗に言われる出戻り組ではない。

この町の病院を、この世知辛い町を、自ら就職先として選択したのだった。

医者も国立の関連病院から無理やり左遷させられた者が多い。

そのような職場なら、やはり話しづらいこともあるのだろう。

ストレスに押し潰されそうになったとき、友香は屋上に逃げ込み一服する。

まあ、ストレスを感じない時でも(最近は昼ごはん後は必ず)一服するのは伏せておこう。

それはもう、美味しそうに転がすものだから、見ているこっちまでも気落ちしてしまう。


「もう。心配して言ってるんですからね。そこらへんも汲んでください」


「知ってるさ。大麻での死亡事例は無いけど、タバコは年間数十万人。あたしゃぁあんまり長生きしたくないからねぇ」


「苦しんで死にますよ?私みたいに幽霊になるかも」


「それはそれで楽しそうだねぇ。ふざけた患者が何人かいるから、そいつらを失神させるほど驚かしてやってさ、、、、飽きたら成仏するさ」


一息、深く吸い込み吐き出す。

私は友香の横顔を見続けているが、友香はただただ水平線上を眺めていた。

その遠く透き通った目は、きっと今後も私を捉えることはないのだろう。

不思議に残念とは思わない。

友香の愚痴を聞き、私が相槌を返す。

その繰り返しの日々は、コミュニケーションを味わえない私にとって輝く宝石のような時間なのだ。

私は仕方がなく、本を脇に抱えて立ち上がりカーディガンを羽織る。

先ほどから途端に太陽が陰り、風もじわじわと強くなってきており、体感気温が下がり始めているだろう。

まあ、私は風邪どころか体調すら崩したこともないので、着込むことに何の意味もないのだ。

しかし、忘れないように。

人間だった過去の記憶を失わないようにするため、そう装っているだけだ。

悲しい癖ではあるが、幽霊であることには変わりない。

友香の隣に立ち、肩のあたりに位置する防護柵に両手を乗せた。

首を仰ぎ、友香の澄んで綺麗な顔つきを見る。

ヘビースモーカーとは思えないほどに、顔立ちや唇の色合いは健康そのものだった。

ここまで美人ならば、結婚も一つの手段だったろう。


‥‥‥あの口の悪さえなかったら理想の美人ってところなのに、、


私が背伸びしたところで、友香の肩に届くかどうか怪しいだろう。

そんな身長差の二人が、病院の屋上で水平線上を見つめている。

私の黒髪が我武者羅に暴れだし、目や鼻に引っ掛かってくる。

今だけ、友香の栗色のショーットカットが羨ましいのだった。


「隣にいるのかい?」


「うん」


「そう」


「友香さんだけだもの。私の声が聞こえるのは」


「なんで私なんだろうねぇ。不思議なもんさ」


「ねぇ。なんで優香さんはこの病院に勤めているの」


「‥‥‥‥‥君みたいなのを炙り出しては縛り付け、無理やり成仏させて回っているのだ」


「‥‥‥‥」


「ヒッヒッ、、冗談さ」


「、、、今まで隠していましたが、友香さんくらいに霊感がある人間は簡単に憑りつくことができますよ、私。今からでも体の主導権を奪い取ってこのフェンスの向こうにフルダイブさせてあげても構わないのですからね?」


低く、単調な脅しにも友香は怯む様子すら見せない。


「はは、、まぁ許しておくれよ。お姉ちゃん今日は夜勤明けで疲れてんよ」


見上げる先の顔には確かに疲れの影が見える。

私は友香の意気揚々とした姿を見たことがない。

仕事の合間や、帰宅する前に屋上へと登り、何を考え詰めているのか分かりはしないが、ただ、海原に向かい続ける。

活力溢れる若者とは思えないほどに静かで、当たり障りの無い態度を貫き通していた。

彼女のスタンスがどのようであれ、寡黙な彼女に初めて話しかけるのはかなり勇気が必要だった。


私の世界とこの世界は共有してはいるものの、絶対不可侵という鉄則がある。

物を動かすこともできるし、人に触ることも、やろうと思えば可能だ。

しかし、それらは全て『むこうの世界に影響してはならない』という概念下に置かれていた。

物は動かせても向こうの人間に感づかれてはいけない。

気付かれるものは動かせないという概念が私を縛り付けている。

人に話しかけたところで、概念によって『無かったこと』にされ、無視されるのだった。

私のすること成すことは、現世に全く関与できない。

そんな世界で、私は一人ぼっち。

寂しさなどは、疾うの昔から感じなくなっている。

そんな私でも、もしかすると、と思わせたのが友香だった。

毎日、欠かさず屋上に訪れる彼女を、私は陰から伺っていた。

何を毎回、飽きもせずに眺め考え詰めているのだろうか。

彼女も世界から拒絶されているのでは。

もしかしたら、私の存在を認めてくれるのではないのだろうか。

その関わりから、私が失ったものが少しでも思い返せるようになるのでは。

そんな気がしたのだった。

本当に、そのような小さな、吹けば消えてしまうほどに希薄な予感がしたのだ。


「友香さん。私、子供じゃない」


まぁ、身の程は高校生と変わりないが、見られる心配は無用だ。


「はいはい。そうだねぇ」


「質問。まだ答えてもらってないよ」


「‥‥‥君はさ、生きていた時どんな場所に住んでたの」


「んー、、。記憶がないの。でも雪が降っていたのは覚えてる。学校と公園ぐらいかな。本当におぼろげだけど、それくらいしか覚えてない」


「そっか。じゃぁさ。この町はどう思うかな」


「、、、、まぁ、綺麗かな」


「うんうん。私もそう思う。都会じゃぁこんなのはなかなか拝めないよ?そりゃ煙草もおいしく感じるわけさ」


「あなたから煙草を取ったら仕事以外になにも残らないでしょうね」


「あいたたた、、言われちゃたなぁ」


「でも不便じゃないの?」


「そりゃあ不便よ。ショッピングもできないし、行く友達も彼氏もつくれりゃしないね。こんな場所じゃ。ただ、人手不足なのか、給与はいいよ。ふふふ。ボーナス楽しみだなぁ、、旅行でも行こうかねぇ」


友香の顔が一気に綻んだ。

旅行など到底かなわない私は、咄嗟に悪態をついた。


「、、、友達も彼氏もいないくせに。じゃぁ、この景色だけが友香を繋ぎ止めているの?」


「そうなのかな。でも忘れなれないという意味じゃぁ的を射ているかも。いずれにしても私はこの場所が好きなんよ」


「そう、、、、なの」


「そうだ。君はまだ名前覚えている?」


「手島、、、えーっと。沙与子」


「さよちゃんね。私の名前は知っている?」


「杭田、友香」


「うん。そうそう。じゃあ答えようか。私がここにいる理由」


私は変に身構えてしまい、友香の顔をじっと見つめていた。


「私さ。さよちゃん以外にもいろいろ見えるのよ」


「、、、え!?」


「まぁね。看護学校時代にもいろいろな事件に巻き込まれてさ、そりゃ憑りつかれる寸前まで迫られたこともあった。病気に苦しむ人たちを救いたいなんて微塵も思っちゃいなかったけどね、小さい頃からの夢だったんよ。看護服を着るのがさ。何度も諦めようとしたけど、結局卒業するまで耐え続けたよ。そんでさ、卒業式の後に思った。幽霊と私たちは決して寄り添えないものじゃないってね」


私の生き方が、全て否定されたような気がして、咄嗟に反論していた。


「でも、私の声は、あなた以外には届かない」


「でも、私が聞いてやるくらいはできるだろう?」


「‥‥‥」


「こことそこは明らかに切り離されている。でもそこは地獄ではないし天国でもないだろう?。君はね、ここに居るべくして居るんだよ。それが誰の願いか、はたまた、神さまの気まぐれなのか。知る由もないさ。孤独だろうねぇ。私だったら寂しくて死んじゃうね」


「この体って死ねないのよ。残念だけど」


一度だけ、自殺を試みたことがある。

今まででありったけの勇気と根性を結晶とし、屋上から飛び降りたのだった。

風邪を切る音。

衝突の音。

骨が折れ、血が飛び散る音。

全てが一瞬の出来事で、ああ、やっと解放されるんだって思った途端だった。

目を開くとそこは屋上だった。

体には傷一つなく、見下ろす景色には死体などあるわけなかった。

人間社会の中、人に知られず死ぬことなど不可能に近いのだ。


「そりゃまるで拷問だよ。誰がどうしてこんな世界を作ったのか知らないけど、見つけたら脛を思いっきり蹴ってやろうさ」


「私はその程度じゃ済まさない。縛りあげて四肢を引きちぎってやる」


本気で言っているのに、友香には笑われてしまった。


「ははっ、、、、まぁ、この世界を恨んでも、自分自身を慰めてもどうにもならんし、どう足掻いても余計に虚しくなるだけさね」


「私がここにいるってどうしてわかったの?そもそも都会の方が幽霊って多いんじゃない?」


「まぁ私にもいろいろあるんよ」


一番聞くべきことを忘れていた。


「友香は、、、私が誰であるか、、、、いや、何のためにここに居るのかを知っているの?」


「さっきも言ったでしょう。知る由もないし、知りたくもない。さよちゃんが見つけるのは目的じゃなくて、、、、まぁ、この話はまた次にしましょう」


むっとした怒りが込み上げてくる。

友香の話の内容は、私がこの世界から解放されるための微かな希望だ。

ここまで聞かせておいて、途中で切り上げられたら胸苦しさだけが残り、眠っている間に窒息死してしまいそうだ。


「勿体ぶらないで!、、お願い。教えて頂戴」


車のクラクションが鳴り響く。

慌てて下を注視すると、一台の車がエンジンを吹かしたまま停止していた。


「じゃぁまたね。あんまり一人事が多いと、変な人かと勘違いされてしまうよ」


「、、、立派な変な人のくせに」


「はは、またもや言われちゃったなぁ」


‥‥‥仕方がないか


下の車は確か院長の外国車だ。

そしてクラクションは警告の意味があるのだろう。

院長は温厚な人間なので大体は大目に見てくれるはずだ。

しかし、病院は完全禁煙なので屋上であっても煙草を吸う姿を見られてはイメージが悪い。

咎めるつもりはないが、『気をつけろ』程度の意味なのだろう。

しかし、二度目は無い。

何より友香は、私を助けてくれるかもしれない唯一の希望なのだから。


「明日。必ず教えて」


「教えるなんて大層なものじゃないんよね。じゃね」


友香は駆け足でドアへ向かい、パタパタと慌ただしく降りて行った。

その晩だった。

友香が強盗事件に巻き込まれ、病院に搬送された。

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