水泳部が廃部になったので、私たちはバンドを始めることにした。
夏休みが終わって一週間。
夕方のプールには、まだ夏の名残があった。
傾き始めた太陽を受けて、水面がオレンジ色に揺れている。ついさっきまで四人で泳いでいたはずなのに、今はもう誰も水の中にはいない。プールサイドに置かれた四人分のゴーグルとタオルだけが、今日で最後になることを妙に強調していた。
「……本当に終わりなんだね」
リカがそう呟いた。
返事はない。
別に、誰も悲しくないわけではなかった。ただ、何と言えばいいのか分からなかった。
水泳部の廃部が決まったのは、昨日のことだった。
部員不足。
それが理由だった。
以前はもう少し人数がいた。しかし、受験やら何やらで一人ずつ抜けていき、最後まで残ったのがリカ、タキ、スミ、ラムの四人だった。四人だけでも続けられると思っていたが、学校側の判断は変わらなかった。
今日の練習を最後に、四人は部員ではなくなる。
「明日から何しようか」
ラムがベンチに座りながら、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いた。
「帰宅部」
スミが即答する。
「嫌だ」
「じゃあ何か入れば?」
「それも嫌」
「わがまま」
スミが笑う。
ラムも笑った。
タキは何も言わず、プールの水面を眺めている。
いつもなら、もう少し泳いでいた。
練習が終わっても、くだらない話をしながらプールサイドに残っていた。
けれど、明日からはそれもない。
リカは水面に浮かぶ夕日の光を眺めながら、胸の奥にぽっかり空いたような感覚を持て余していた。
「……ねえ」
三人が顔を向ける。
「バンドとか、楽しそうじゃない?」
「バンド?」
「うん。文化祭でやってる人たちいるじゃん。ギターとか弾いて、歌って。なんか青春って感じするし」
「青春って言いたいだけじゃない?」
スミが呆れる。
「いいじゃん、別に。私、歌うよ」
「歌えるの?」
「たぶん」
「たぶんでボーカルやるの?」
「じゃあタキ、ギター」
「いいよ」
「早っ」
「ラムはドラムね」
「やる!」
「スミはベース」
「私もやるとは言ってないんだけど」
「でも、こういうとき一番真面目に練習するのスミじゃん」
「……否定できないのが腹立つ」
四人の間に笑いが広がった。
廃部が決まってから初めてだった。
少しだけ、明日が楽しみになった。
△▽△▽
翌日には、もう四人で楽器店に行っていた。
リカは中古のマイクを眺め、タキはギターの試奏を繰り返し、ラムは店員にドラムについて質問攻めにしている。
スミだけは一歩引いた場所から三人を眺めていた。
「本当にやるの?」
「やる」
リカが即答する。
「楽器なんて触ったことないじゃん」
「だから面白いんじゃん」
その勢いに押されるようにして、スミもベースを買った。
問題は、その後だった。
四人とも、楽器の弾き方が分からない。
当然だった。
今まで毎日のように泳いでいた四人が、急に楽器を持ったところで弾けるはずもない。
「……誰か教えてくれる人、いないかな」
リカが学校でそう呟いたときだった。
「先生なら?」
ラムが指差した先に、水泳部の顧問だった目田村がいた。
四人は顔を見合わせる。
「先生、楽器できるんですか?」
職員室で尋ねると、目田村は少しだけ間を置いてから頷いた。
「昔、少しな」
「じゃあ教えてください!」
「……別に構わない」
あまりにもあっさり話が決まった。
このとき、四人はまだ知らなかった。
目田村が「昔、少し」どころではないことを。
△▽△▽
それを知ったのは、練習を始めて三日目だった。
放課後の音楽室。
四人がそれぞれ楽器を抱えて音を出していると、目田村のスマートフォンが机の上で振動した。
画面に表示された動画のサムネイルを、スミが何気なく見た。
そこには、暗いライブハウスのステージが映っていた。
黒い革ジャン。
長い髪。
鋭い目つき。
そして、ギターを抱えて客席を煽る女性。
顔を見た瞬間、スミの手が止まった。
「……先生」
「なんだ」
「これ」
スマートフォンを指差す。
目田村の表情が固まった。
「……知らん」
「いや、先生ですよね?」
「似た人だ」
「名前、『METAL QUEEN 目田村』って出てますけど」
沈黙が落ちた。
リカが画面を覗き込む。
「えっ、先生じゃん!」
「違う」
「でもギター持ってる」
「違う」
「めちゃくちゃ髪長い」
「昔だ」
「やっぱ先生じゃん!」
目田村は諦めたように椅子へ腰を下ろした。
学校では知られたくないらしい。
そのことだけは、四人にも分かった。
だからリカは笑顔で言った。
「先生」
「……なんだ」
「私たちに、本気でバンド教えてください」
「なぜだ」
「このこと、誰にも言わないので」
目田村は四人を順番に見た。
「……分かった」
それが、すべての始まりだった。
△▽△▽
最初の練習は、普通だった。
少なくとも、スミはそう思っていた。
ギターのコードを覚え、ベースの弾き方を教わり、ドラムの基本的なリズムを叩く。
リカも簡単なメロディーを歌っていた。
想像していたバンド練習と、それほど変わらない。
「先生、私、もう少し可愛い感じで歌いたいんですけど」
リカが言うと、目田村は首を横に振った。
「声が弱い」
「弱い?」
「腹から出せ」
リカは言われた通りに声を出した。
「あーっ!」
「もっと」
「ああーっ!」
「もっとだ」
「ああああーっ!」
音楽室の窓が震えた。
スミが思わず耳を塞ぐ。
「先生、これ歌の練習ですよね?」
「当然だ」
「なんか違う気がするんですけど」
目田村は答えなかった。
代わりにタキへ視線を移す。
「ギターを持て」
「はい」
「音を歪ませろ」
「こう?」
アンプから、先ほどまでとはまるで違う音が飛び出した。
ギュン、と低く唸るような音。
タキの目が輝いた。
「……これ、カッコいい」
「そうだ」
「もっとできます?」
「やってみろ」
タキがつま弾く。
一音、また一音。
最初はぎこちなかったフレーズが、何度か繰り返すうちに滑らかになっていく。
タキは覚えるのが早かった。
それどころか、一度覚えたものを自分なりに変えてしまう。
目田村が教えたフレーズに別の音を加え、テンポを上げ、いつの間にか最初に渡された譜面とは違うものにしてしまう。
「タキ、速すぎる」
スミが言う。
「そう?」
「私たち、まだそこまで弾けない」
「じゃあ待つ」
そう言いながらも、タキは楽しそうだった。
ラムも負けていなかった。
ドラムを始めたばかりだというのに、もともとの体力が異様なところで役に立った。
長時間叩き続けても息が上がらない。
「足も使え」
目田村が言った。
「こう?」
ラムがペダルを踏む。
ドン、ドン。
「もっと速く」
ドドドドドド。
「……まだいける?」
「いけます!」
ラムは笑った。
目田村も笑った。
スミは、その二人を見ながら嫌な予感を覚えていた。
どう考えても、方向がおかしい。
△▽△▽
しかし、一番おかしくなったのはリカだった。
歌の練習を始めて一週間ほど経った頃、彼女の声は明らかに変わっていた。
最初は普通に歌っていた。
ところが目田村は、そこからさらに発声を要求した。
高い声ではなく、低いところから押し出すような声。
喉ではなく、腹から響かせる声。
最初は苦しそうだったリカも、少しずつコツを掴んでいった。
ある日の練習で、リカがマイクを握った。
「先生、これでいい?」
「やってみろ」
リカが息を吸う。
そして、
「ウォォォォォォッ!」
低く、鋭い声が音楽室いっぱいに響き渡った。
スミは目を丸くした。
リカ本人も驚いていた。
「……今の、私?」
「そうだ」
「なんか……気持ちいい」
目田村が頷く。
「それでいい」
その日を境に、リカはシャウトの練習を始めた。
家でも小声で発声を繰り返しているらしい。
タキはギターの歪んだ音を研究し始め、ラムはツーバスの練習に夢中になった。
そしてスミも、気づけばベースの音を低く、重くすることにこだわり始めていた。
「……ねえ」
ある日の練習終わり。
スミは三人を見回した。
「私たちって、最初、どんなバンドやるつもりだったっけ?」
誰もすぐには答えなかった。
「普通の……」
リカが首を傾げる。
「普通って?」
「普通のガールズバンド」
スミが答える。
「文化祭で、かわいい衣装着て、ちょっと恋愛っぽい歌とか歌うんじゃなかった?」
「……そうだっけ?」
タキがギターを抱えたまま首を傾げる。
「私は今のほうが好き」
「私も!」
ラムが元気よく手を挙げる。
リカも頷いた。
「私も。今のほうが楽しい」
「……そう」
スミはため息をついた。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、最近は自分も練習が楽しみになっている。
低い音が腹に響く感覚。
四人の音が重なった瞬間に、身体の内側まで震えるような感覚。
泳いでいたときとは違う。
けれど、四人で何かを作っているという意味では、同じだった。
だから誰も止まらなかった。
△▽△▽
文化祭まで一週間。
四人は、もはや別人のようになっていた。
タキは高速のギターソロを弾けるようになり、ラムは複雑なリズムを平然と叩く。
リカは普通に話しているときこそ以前と変わらないが、マイクを持った瞬間、別人のような声を出す。
そしてスミも、重低音の効いたベースラインを弾きながら、以前なら絶対に使わなかった言葉を口にした。
「先生」
「なんだ」
「この曲、もう少し重くできます?」
目田村が微笑んだ。
「できる」
「お願いします」
その瞬間、スミは悟った。
もう手遅れだ。
△▽△▽
文化祭当日。
四人は舞台袖で出番を待っていた。
客席からは、他のクラスの出し物を待つ生徒たちの声が聞こえている。
リカは緊張した様子でマイクを握っていた。
「ねえ」
「なに?」
「今日、絶対盛り上がるよね」
タキが笑う。
「練習したから大丈夫」
「ラム、足つらない?」
「全然!」
スミは三人を見て、それから舞台の向こうにいる観客を見た。
ここで、ようやく気づいた。
――私たち、何を演奏するんだろう。
いや。
もう分かっている。
分かっているのに、誰も疑問に思わなくなっていた。
「出番だ」
目田村が告げる。
四人は頷いた。
ステージへ出る。
客席から拍手が起こった。
女子高生四人による初めてのバンド演奏。
観客の誰もが、明るい青春ソングを想像していた。
リカがマイクを握る。
タキがギターを構える。
スミがベースを抱える。
ラムがスティックを振り上げる。
そして――。
ドンッ。
重低音が会場を揺らした。
次の瞬間、タキのギターが轟音を放つ。
ラムのドラムが激しく叩き込まれ、スミのベースがその下を這うように響き渡る。
最後にリカがマイクへ顔を近づけた。
「ウォォォォォォォォォッ!!」
客席が静まり返った。
四人は気づいていない。
自分たちがどれほど場違いな音楽を演奏しているのか。
ただ、夢中だった。
これまでで一番息が合っていた。
四人の音が一つになっていく。
曲が終わった。
静寂。
四人は息を切らしながら顔を見合わせた。
やってしまった。
誰も口にはしなかったが、全員が同じことを思っていた。
――これ、普通のガールズバンドじゃない。
やがて、客席から一つの声が上がった。
「アンコール!」
四人が顔を上げる。
続いて、別の場所からも声が飛んだ。
「もう一回!」
「すげえ!」
「何あれ!?」
「めちゃくちゃカッコいい!」
リカが目を丸くする。
タキは笑っていた。
ラムは嬉しそうにスティックを握り直した。
スミだけは、舞台袖にいる目田村を見た。
目田村は腕を組み、満足そうに頷いている。
「先生」
スミが呟く。
「私たち……」
「どうした」
「普通のガールズバンドをやる予定だったんですけど」
「そうだな」
「なんでメタルになったんですか」
目田村は少しだけ考えた。
「お前たちに才能があったからだ」
「答えになってません」
その横で、リカがマイクを握り直した。
「もう一曲やろう!」
「うん!」
「やろう!」
スミは三人を見て、とうとう笑ってしまった。
まあ、いい。
最初に思っていたものとは違う。
それでも、四人で続けられるなら。
水泳部がなくなったあとに見つけたものが、たまたまメタルだっただけだ。
――ただし。
「次はブラックメタルだ」
目田村が何気なく言った。
「「「「なんで!?」」」」
四人の声が、文化祭の体育館に響き渡った。




